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「イタクァという存在の話をしたのを覚えてらっしゃいますか?」

 オーガストは焚き火の傍でコーヒーを啜り、パイプを取り出しながら言った。

「そのイタクァというのが、巨大な人型の霧、あるいは煙のようなものだ、と言われています。ウェンディゴ症候群の患者の一部から、聴き取り調査で得た結果です」

 そう言って、パイプタバコに燃えさしの薪で火を点けたオーガストは、一服したらさっさとここを撤収し、テントまで戻る事を提案する。大丈夫だとは思うがここも確実に安全とは言い切れない、それも含めて、出来る範囲の調査はしたのでこのままここに居続ける理由は無い、むしろ初期の調査目体は達成されたと言っても良いので、一旦撤収すべきである、と。チャックは頷き、コーヒーを入れたマグカップを持ってスティーブの傍に向かう。

「……そうだ、これ、お返しします」

 そう言って、ユキは立ち上がってガンベルトを外そうとする。

「ああ、良ければそのまま持っていて下さい。どうやら、私よりあなたの方が上手に使えるようだ」

 紫煙を吐き出しながら、オーガストはそう言って微笑む。じゃあ、お言葉に甘えて、とか何とか言いつつまんざらでもないような顔のユキに、オーガストは重ねて聞く。

「どこで習ったのですか?ヘタな兵士よりよほど上手な射撃でした」

「え、いや、パパから」

「お父様から?確か、研究所勤めでしたか?以前軍か何かにいらしたとか?」

「いえいえいえいえ、ただの民間人です」

 両手をブンブン振ってユキは否定する。

「そうですか、それにしては……いえ、特別な教え方などあるのでしたら、是非、我が軍の為にご教授願いたいところです」

「そんな特別な事は……」

 ネット動画とか見まくって覚えた、なんて事は言えないし、言ったとしても信じてもらえないだろうし。ユキは、心の中で頭を抱える。

「それはともかく、本当に調査終了でよろしいの?」

 ユモが、横合いから尋ねる。

「……ええ、状況からしてあそこに『ウェンディゴ憑き』の拠点があるのは明らかです。とはいえ、この手勢でこれ以上の調査も困難でしょう。この先は、十分な戦力のある調査隊を編制しないと被害を出すだけだと判断出来ます」

「ああ……なるほど」

 ウェンディゴ憑きと呼んでいる、凶暴性のある病人があの穴の中に複数名いる事は既に明白と言って良い。これ以上の調査を行って原因究明をしたければ、その『凶暴性のある患者』を排除しつつの調査とならざるを得ないだろう事は、言われるまでもなくユモも理解出来る。

 ポン、とパイプを逆さに叩いて灰を焚き火に落としてオーガストは立ち上がり、ユモとユキに、言った。

「さて、オースチン君の様子を見て、帰り支度としましょう」


 今のところはスティーブは元気に見えるが、経験上、時間が経てば疲労と失血と痛みその他で体力を消耗し、起き上がるのも辛くなる。だから、動けるうちにとにかくテントまで戻った方が良い、そう主張するオーガストに反対するものは誰もおらず、一行はとっとと後始末して、昼食はペミカン――溶かした動物脂肪に干し肉やドライフルーツを混ぜ込んで冷やし固めた保存食――を適宜囓りながらの帰路となった。

 テントに着く頃にはスティーブは相当にぐったりしてしまっており、早々にテント中央の種火をおこし直してその傍に寝かす。出血はあらかた止まっているので、手っ取り早い栄養補給と痛み止めとリラックス効果をかねて、適量の飲酒をオーガストは許可する。その間に、ユモとユキは表の焚き火もおこし直して鍋をかけ、残りの熊肉と豆とで畜生鍋サノバビッチシチュー――ユモもユキも、今まで口にしていたスープがそういう名前だとは知らなかった――を作り直す。一回り周囲を点検して、留守中異常がなかった事を確認したチャックは、今後の予定についてテントの中でオーガストと相談を始めた。それを見て、テントの中が気になる様子のユモに、後は煮込むだけ、焦げ付かないようかき混ぜるだけだからテントで休んできていいよ、ユキはそう声をかける。じゃあ、ちょっと行ってくる、そう言って、ユモは男達の話に興味があった事もあり、テントの中に入る。

「……当にそれでいいんですか大尉、俺たちは依頼をやり遂げたわけでは……」

「何度も言ったとおり、状況からして、私たちではこれ以上の調査は困難です。発光現象や怪音の正体は不明ですが、一度本隊に帰って制圧部隊を編成してからでないと、危なくてとても調査は進められません。その意味で、あなた方は立派に仕事をやり遂げたと私は思います」

 どうやら、スティーブは調査の打ち切りに納得が出来ていないようだが、オーガストはむしろよくやった方だと思っているらしい。そういう雰囲気だと、テントに入るやいなやユモは感じる。要するに、オーガストは早く帰りたがっている、と。

「もしよろしければ、私と一緒に本隊に来ていただけるなら、任務遂行中の名誉の負傷です、軍の病院に入る手続きもします。お嬢さん方の処遇も、軍が責任を持つと約束できますが?」

「有り難いお申し出ですが……大尉、辞退させて下さい。正直、軍のメシは食い飽きちまったんで」

 冗談めかして、スティーブはオーガストの申し出を断る。チャックも、無言で頷く。何かしら言いたくない事情がそこにあるのだろう、もしかしたら過去の軍歴に関する事かも知れない、ユモはそう感じ、大人達もきっと同じ事を感じ取っているとも思う。

「そうですか……では、お嬢さん、ジュモーさん、あなたは、どうされますか?一度本隊にご一緒していただければ、お手伝いいただいたせめてものお礼に、お家まで帰る足を確保出来ると思いますが」

 ユモがテントに入って来たのは気付いていたのだろう、上半身だけ振り返ったオーガストが、ユモに声をかける。

 オーガストの言う本隊は、ウィスコンシン州中央部、ここからざっと真南に400km弱離れたジュノー郡の真ん中辺にある。馬なら急いでも五日ほど、軍の伝手つてで自動車が使えたとしても、それが出来る程度の都市まで回り道するから同程度の時間はかかるだろう。

「あたしは……ごめんなさい、あたしも、多分一人で帰れます。道中のことは、ユキが何とかしてくれるでしょうし」

「そうですか……では、一晩休んで、明日、皆さんと一緒にダルースに向かって発つ、という事でよろしいですね?」

 ダルースはスペリオル湖に面する港湾都市で、この付近では最大の都市でもある。ここからなら、ほぼ真西に馬で二日といったところ。

「スティーブさんの回復次第でしょうけれど、はい、基本的には」

「恐らくこの後、今夜は発熱するでしょうが、早ければ明日午前には、遅くとも明後日までには馬に乗る程度の体力は戻るでしょう。勿論、しばらく無理は出来ないでしょうが」

「……そしたら、俺が起きられなかったら、済まないがチャック、俺を戸板にでも縛りつけて引き摺って行ってくれないか?」

「ああ、戸板でも丸太でもくくりつけてやる、安心しろ」

 声に力こそ無いが、軽口をたたくだけの元気はあるスティーブに、チャックも憎まれ口で返す。

「……じゃあ、少し寝るぜ、チャック。メシが出来たら起こしてくれ。大尉、ありがとうございました」

 言って、スティーブはカウボーイハットを顔の前に乗せる。見る間に寝息を立て始めたスティーブを見て、チャックは安堵の息を吐いて、肩の力を抜いた。

「じゃあ、あたしはご飯の用意、見てきます」

 ユモは、男達の間に居心地の悪さを感じ、ユキの様子を見に行く事にする。


 表の炊事用の焚き火の傍に来たユモは、ユキが、鍋をかき回すでもなく、丸太に腰掛けてぼーっと火を見つめているのを見た。

「……鍋、焦げるわよ?」

「……うぇっ?」

 急に声をかけられ、ぎくりとしたユキは、慌てて鍋をぐるぐるかき回す。かき回して、へへっ、とユモに情けない笑顔を見せる。

「……どうしたのよ?あんたらしくない、昨日みたいにニヤニヤしながら鍋作ってなさいよ」

 腰に手を当てて、フンスと鼻息も荒く、ユモは憎まれ口を叩く。のだが。

「……そうね」

 張り合いのないことに、ユキは乗ってこずに再び鍋に目を落とし、ゆっくりかき回すだけ。

「……ママムティが言ってた。しかめっ面で作るご飯は渋い味がするって。あたし、食べるなら美味しいのがいいの!何考えてるのか知らないけど、さっさと吐き出して笑顔で鍋作って頂戴!」

 語気鋭く言って、ユモはどすんと丸太のユキの隣に腰を下ろす。下ろして、

「……どうしたのよ?」

「ちょっとね……反省してたら思ったより凹んじゃって」

 情けなさそうな笑顔で、ユキは呟く。

「……スティーブさん、どうだった?」

「寝てるわ。ゴハンできたら起こしてくれ、だって」

「そう……」

 ユキは、膝の間に顔をうずめる。その様子で、ユモは何かピンとくる。

「……何よあんた、もしかして……」

 乙女的なものと、割と下衆なものと、両方の期待の混ざった複雑で好奇心に満ちた笑顔で、ユモはユキに尋ねる。

「……うん」

 膝の間に顔を埋めたまま、ユキが返事する。

「んまっ!」

「怪我させちゃって、ホントもうしわけなかったなあ、って」

「……なんだそっちか」

 一瞬、下衆い期待七割くらいの笑顔になったユモは、ユキの返事を聞いて、落胆を露わにする。

「さっきまではさ、暴れた後だからアレだったけど、落ち着いて賢者モードになるとさ、色々反省点ばっか気になっちゃってさ……」

「ケンジャモード?」

 ユモが自身とユキにかけた『言葉を通じせしむ』魔法は、言語を翻訳するのではなく、発言者が言葉に乗せようとしている意図を相手に伝えるもの、だという。受け取り側はその意図を受け取り側の語彙力の範囲内で理解するので、だから、受け取り側にその語彙や概念が無い場合、発言者の言葉そのものとして音声が伝わってしまう。

「……あたし、色々バレることの方を恐れて、あの時『れえばていん』を抜かなかった。抜いてれば、スティーブさん怪我しなかったかも知れない。抜かなくても、銃で撃ってててれば問題無かった。もしこれがパパだったら、間違いなく撃ってたし、中ててただろうし、中てなくても牽制でどうにかしてたと思う。ママなら、余計な事考えずに躊躇なく抜いて、斬ってた。そう思えちゃうからさ……」

 保身のために木刀を抜かず、技量不足のために銃も撃てない。自分は、まったく足りてない。根性も、腕前も。ユキは、鍋の中に目を落としたまま、続ける。

「分かってるの。ママもパパも、あたしなんかよりずっと経験も練習も積んでるって。比べちゃいけないって。ママは、今のあたしは、その頃のママより腕は上だって言ってくれるの。でもさ、やっぱ比べちゃうのよ、今、目の前のママと」

 その気持ちは、ユモにも痛いほど理解出来た。偉大で自慢の母は、時として、越えられない壁としてもそこに立ちはだかるのだ、と。

「せめて、あの時剣を抜くだけの思い切りが出来ればって。バレるのが怖くて、臆病者みたいでさ……そんなの、そんなあたし嫌だ、あたしはそんなんだったのか、って、ね」

「……兵隊はね、命かけちゃダメなんだって」

 ユキの言葉尻に、ユモが言葉をかぶせた。

パパファティが兵隊だった頃、上官に言われたんだって。命かけて、死んで、そしたら、お前の後ろの人たちを、誰が護るんだ、って。給料分働くってのは、死ぬことじゃない、護り続けて、給料もらい続けるって事だ、って、教えられたって」

 ユキが、のろのろと顔をユモに向ける。

「あんたのそれも、似たようなことじゃないの?あんたが隠してる正体だかなんだか、あたしも知らないけど、知られてここから追い出されたら、あんた、あたしも誰も護れなくなる、そうでしょ?」

 ユモも、思いのほか真剣な目を、ユキに向ける。

「結果として、誰も死んでない。怪我はしたけど、そこそこ軽傷。あの状況で、全員かすり傷一つ無しなんて幸運、そんなにありゃしないわよ。それに」

 ユキの目を見つめるユモの目が、笑った。

「少なくとも、あんたはあたしを助けてくれた。アレと、熊からと、二回も。違う?」

「……違うわ」

 ユモの視線を真正面から受け止めたユキの目が、その目から険が落ちて、微笑む。

「三回よ。最初にあんたが落っこちてきた時も、よ。あたしが受け止めなかったらあんた、墜落して死ぬか溺れて死ぬか、どっちかだったんだから」

 ユキの声に、表情に、いつもの調子が戻って来た。ユモは、それに気付いた。

「そしたら、あんた、自分で言い出したんだから、これからもあたしを護りなさい?落ち込んでる暇なんてあげないんだから」

「……やれやれだぜ、まったく」

 ツンに戻ったユモに、片頬を歪めてニヒルに笑ってユキが答える。

「……鍋、少し手、離せる?」

「大丈夫だけど、なんで?」

「薬草探すの手伝って。スティーブさんに癒やしのまじないをしたいんだけど、あそこで目の前でやるわけに行かないでしょ?薬草にまぶして持って行こうと思って」

「ああ、なるほど」

「場所は精霊に教えてもらうから、あんた、雪掘って頂戴」

「へいへい……そういやあんた、穴の縁でも呪文唱えてたでしょ?穴塞ぐ前」

「うん、破邪のまじない。あの場で出来るレベルだから大したことないけど、傷に嫌な感じがしたから、用心と思って」

「効いた?」

「あたしを誰だと思ってるの?」

 軽口をたたきあい、クスクス笑い合いながら、二人は腰を上げ、歩き出した。

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