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「……やれやれ。困ったものです」

 服についた雪を払い落としながら、黒い男が言う。

「まあ、ここは奴のテリトリーなのは確かですが……本当に、とっととお暇しないととばっちりをもらいそうです」

 雪嵐ブリザードの核になる部分が垂直の人型洞窟の下の方に下がったおかげか、気温はともかく吹雪は収まった頭部空間で、黒い男は中心を貫く青い光に近づく。

「この後は、ろくな事になりそうもありません。オーガストさん、あなたもせいぜい巻き込まれないように気を付けて下さい」

「もう巻き込まれていますけれどね」

 オーガストは、苦笑しながら黒い男に返す。

「ですが、まあ、イタクァの本気の暴走に巻き込まれたら大変でしょうから、そこは気を付けましょう」

「では、またお会いする日があることを」

 言って、黒い男は青い光の柱の中に身を躍らせる。最初はゆっくり、次第にゆるゆると加速しつつ、黒い男は帽子の鍔を押さえた気障な仕草で微笑みつつ、頭部空間から垂直に光の中を登って、やがて見えなくなった。

「……さて、そうは言っても、一体下では何をしようというのか……」

 オーガストは、首に中る部分が絞られているために下からの風雪ふうせつが遮られているこの頭部空間から、足下の様子がうかがえないかと、床に膝をついた。


「青い光には極力触れない事をお勧めします」

 ニーマントが、ユモと雪風に語りかける。

「エーテルを乱すエナジーの奔流は、エーテル雰囲気中の光速を越えていますので」

「つーことは、この青い光はチェレンコフ放射、って事?」

 複雑に生えた木の根と、木の根のような何かを避けつつ、自由落下に近い速度で降下しながら、ユモを担ぐのではなく横抱きにして左手で支える体勢にした雪風が誰にともなく呟く。

「その言い方は知りませんが、これが光そのものではない、と言う意味であるなら、その通りです」

「エーテル物理学といわゆる現代物理学じゃ、ちょっと色々解釈が違うけど。似たような現象である事は確かね」

 荷電粒子が媒体中をその媒体における光速を越える速度で移動する時に発生する放射現象は、1934年にパーヴェル・チェレンコフによって発見されている。技術者にして好事家の父を持つ雪風は勿論、魔法を修める一環として現代物理学も学ぶユモも、一応の知識を持っている。

「あたしも、現象自体を見るのは初めてだけど。で?発生源は、やっぱりアレなんでしょ?」

「はい。リッグ湖畔にあった石版と同様の物が、この洞窟の、人型の下腹部にあります」

「丹田の位置ってか。出来過ぎだぜ……あれね!」

 ユモの質問に対するニーマントの答えを聞いて、雪風が独りごち、そして、その平たい丸石を視野に収める。

「このままぶっ叩くから、しっかり捕まってて!」

 木刀れえばていんを両手の逆手に持ち替えながら、雪風はユモに言う。支えがなくなったユモは頷いて、雪風の首根っこにしがみつきつつ、両足を雪風の背中に回して体を安定させる。

「れえばていん!力を貸せぇ!」

 腹の底から声を出して気合いを経絡に通し、雪風はその丸石、直立ではなく『無重量状態での中立姿勢』と呼ばれる、軽く猫背になり、脚も脱力して背中に対し130度くらいの角度になった人体のそれに近い形状の洞窟の骨盤中央あたりにある、判読不能の文字らしき物とえもいわれぬ不気味で不自然で不快な生物らしき円錐形の何かが描かれた石版に、雪風は落下の勢いそのままに逆手に持った木刀れえばていんを突き立てた。

 雪風の強い念に呼応し、鈍色にびいろの輝きを纏うその白木の木刀は、少女二人分の落下による運動エネルギーの大半も受け取って丸石に突き刺さる。

――獲った!……え?!――

 木刀れえばていんの切っ先三寸ほどが石にめり込んだと、雪風は感じたし、実際そう目には見えていた。普通の石や岩なら、これほども木刀れえばていんがめり込めばただでは済まない。しかし。

「うわ!」

 ものすごい力で、木刀れえばていんがはじき返される。逆手に持った両の腕を跳ね上げられ、それだけでは反動を殺しきれずに、雪風はしがみついたユモごと斜め後ろに弾き飛ばされる。

 空中で姿勢を整えながらその丸石を見た雪風は、石の表面に傷一つ無いことを発見して愕然とする。

「そんな……確かに手応えはあったのに!」

 トンボを切り、木刀れえばていんから離した左手でユモを支えつつ着地した雪風が、押し殺した声を漏らす。

「何が、あったの?」

 着地の衝撃と、その直後の弾き飛ばされ&空中一回転で目が回っているユモが、ようやっとのことで聞く。

「空間を、歪められました。あなた方には知覚出来ていないのでしょうけれど……いや、時間を圧縮された、と言う方が正確かも知れません」

「え?何?」

「時間、ですって?」

 立ち上がり、ユモから手を外して木刀れえばていんを正眼に構え直した雪風と、雪風の首筋に捉まったまま自分の足で立ち、肩越しに振り向いて丸石と青い光を見るユモが、同時に聞き返す。

「時間、です。あの光の中では、正確にはエナジーの奔流ですが、どうやら時間が遅延されているように感じます」

「それって……」

リップ・ファン・ヴィンクレ効果Rip Van Winkle-Effekt?」

「それドイツ語?日本語じゃウラシマ効果イフェクトって言うけど」

「初めて聞いたわ、同じ意味かしら?」

「じゃないの?で?結局どうすりゃいいの?」

 時間が惜しい雪風は、余計な詮索は省いて結論を急ぐ。その思いは、ユモも同じ。

「エナジーの奔流を一瞬でも止めて、恐らく石自体にも影響している時間遅延を無効化しつつ、力業で石を叩き割る……かしらね?」

「同感です、しかし……」

 ニーマントが、珍しくもったいつけて、言った。

「何やら近づいて来るものがあります、これの相手も並行しないといけないのでは?」


「マジか!くそ!」

 口汚く罵って、雪風は再びユモを抱きかかえると、その場から斜め上に跳躍する。一瞬後、ユモと雪風の居た場所に『ウェンディゴ憑き』が落下し、次いで一筋の吹雪が上から叩きつけ、『ウェンディゴ憑き』もろともに吹き飛ばす。

 数メートル上の木の根に着地した雪風は、間髪入れずに別方向に跳躍する。それを追って別の『ウェンディゴ憑き』が、さらには一条の吹雪が触手のごとくに追いすがる。

「時間が無いってのに!」

 木刀れえばていんの射程に入った『ウェンディゴ憑き』を切り払いつつ、雪風は吹雪の触手を避けて木の根――らしきもの――から別の木の根へと飛び移り続ける。

――確かに、このままじゃ唯一無二のチャンスを逃すわ。何か、手があるはず……何か……――

 ユモは、身の安全は雪風に任せきって、しっかりと抱きついたまま考える。

――力業はユキの担当でいいとして、石の無力化と奔流の停止は魔法でどうにかしないと……でも、片方だって荷が重そうなのに、両方同時になんて……――

 ユモは、必死で記憶を探る。エナジーの奔流を止める魔法を、エナジーを吐き出す何かを無効化する呪文を探して。

 答えの一つは、すぐに見つかった。ある程度の守りを貫く方法。さっき使った『神鳴るごっど剛弓ご-がん』を応用し、特定の精霊をその矢尻に宿らせて放つ。呪文としての難易度は、そこまで高くはない。しかし……

――こう揺すられちゃ、とても呪文なんか唱えてられないし、第一これじゃ、印も結べない……それに、奔流を封じる方法が見つからない……――

 ユモは、右手を雪風の首から離し、胸元の二つのペンダントを握り、思う。

――ママムティ、力を貸して……智恵を、貸して……――

 きつく目をつぶってペンダントを握りしめたユモは、はっと、何かに気付き、目を開く。

「……ニーマント!」

 大声ではないが、厳とした声でユモは輝かないアンシャイニング・多面体トラペゾヘドロンを名指しする。

「はい?」

「あなた、あの光に目くらましされてるって言ってたわよね?」

「その通りです」

「じゃあ、あなた、あの光そのものを吸収出来るんじゃなくて?」

「それは……」

 ニーマントは、ユモの言わんとする事を理解する。

「……可能だと思います」

「よし!じゃあ……」

「ただし」

 色めき立つユモの機先を制して、ニーマントが続ける。

「光はともかくエナジーが強力過ぎます。私自身でもあるこの石の物理的限界に達するのにどれほどの余裕があるか、そこは未知数です」

「構わないわ、一瞬でも止められれば。あとは……ユキ!」

「何!」

 跳躍と剣戟を繰り返す雪風は、ややぶっきらぼうに返事する。

「5秒、いえ10秒、じっとしてくれる?」

「無理!」

 雪風も、ユモが何を求めてそう言ってきたかはすぐに察した。だが、ひっきりなしの『ウェンディゴ憑き』の襲撃と、あらぬ方向から襲ってくる吹雪の触手を除けながらでは、とてもではないが1秒たりとも静止などできようはずもない。

「わかるけど!無理!……くそ!あたしが呪文唱えられれば……」

 吐き捨てるような雪風の言葉に、一瞬落胆しそうになったユモは、同時にある事をひらめき、声を上げた。

「それよ!」

「え?どれ?」

「ユキ!あんたが呪文唱えられればいいのよ!合体しましょう!」

「はい?……ってうわ!」

 思いもしない斜め上からの一言に思わず動きが止まった雪風は、その隙を突きに来た吹雪の触手から辛くも身を躱す。

「あんたの体力とあたしの魔法を一つにするのよ!普通は出来ないけど、使い魔の契約フェアトラーク フォン フェアトラートを交わした今なら、等分の契約の今なら、きっと出来るわ!」

「……よくわかんないけど」

 改めてリズム良く木の根を飛び移りながら、雪風が答える。

「よくわかった。あんたがそれしか手が無いって言うなら、信じるわ、どうすれば良い?」

「じゃあ、触れてるからいけると思う、あたしの意図を読み取って、声を合わせて!……行くわよ」

 ユモは、そう言って、深呼吸して意識を集中する。弾薬盒パトローネンタッシェから水晶片を取り出して撒き、呪文を強く頭にうかべながら唱える。

「オムニポテンス・アエテルネ・デウス……」

 ユモの声に、雪風の声が寸分の遅れも無く重なる。行ける、これなら。ユモは、まじないの成功を確信する。

「……レ・オラーム・エイメン……偉大なる魔法使いマーリーンに連なる我、月の魔女リュールカ・ツマンスカヤの娘たるユモ・タンカ・ツマンスカヤは、今ここに、我が使い魔フェアトラートたるユキカゼと共に、精霊の力を借りて思いを成し遂げんと欲す。精霊よ、遅れる事無く現れ出でて、我ら二人の強き友情バロームの元に、互いの力をあざないたまえ!我らの強き友情バロームの元に、二人の体をあざないたまえ!」

 二人の声は共鳴ハーモナイズし、周囲のエーテルを震わせる。二人の周りに幾重にも重なる魔法円が輝き、その振動は青い光を放つエーテル自身にも影響し、別種のエナジーをも得たエーテルは青に加えて暖かな輝きを放つ。

 一呼吸置き、ユモは、呪文の仕上げの一説を、より強く振動させた。

「精霊よ!二人の友情バロームに基づき、二人の力と体をあざないたまえ!我らが望むは新たな魔女!月に導かれしけものの魔女!我がまじないは岩をも砕き!我が拳は岩をも貫く!友情を糾えバローム・クロース!」

 

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