第8話

 白い肌と私に向けられた目。


「懐かしい……琉架の匂いだ」


 来栖麻斗。

 ドレスを触れなぞる彼の手が私の手に重なった。


「許されない恋をしていた。地下室ここだけが逃げることを許された場所。僕は琉架を求め、琉架は僕を受け入れた。何度も……繰り返し」


 穏やかな声。

 もうひとりの麻斗さんがいる。遠い過去に死んだ、会うはずのない人が。

 麻斗さんは今どうしてるだろう。キリエさん、私がいなくなってパニックを起こしてるんじゃ。私が地下室にいることを、翔琉君に知られたらどうなるんだろう。


「君は誰だ? なぜ琉架のドレスを着ている」

「それは」


 ソファから離れようとして押さえつけられた。私に触れかかる長い髪と、込められる強い力。


「着るように……言われて」


 恋をしていた?

 実の兄妹が……本当に?


「誰に言われた。僕の両親……それとも召使い達か」


 麻斗さんの顔が近づいてくる。ドレスを触れなぞる感触と訪れた沈黙。灰色の壁を奥に見える黒い髪の艶やかさ。


「何を考えてるんだ僕は。両親も召使いも死んだじゃないか。彼らの死を見届け、僕は……琉架を連れ火の中に」


 麻斗さんの口から乾いた笑いが漏れる。

 焼け焦げた跡、ふたつの頭蓋骨と骨。

 ふたりはここで……焼け死んだ?


「誰が君にドレスを? なんのために託したんだ」


 翔琉君が私にドレスが託した理由。


 ——お子様が夢見る家族の物語にさ。翔琉は君に母親を演じさせようとしている。


 揚羽さんが言ったことが本当だとしたら。


「何をしている? 答えなければ、ここからは出られないよ。三嶋ひかりさん」


 揚羽さんの声が響く。

 私達を見る金色の目と、彼の手の中で燃え消えるスケッチ画。麻斗さんは私から離れ、床に落ちるスケッチ画を拾いだした。


「死してなお求め続けるか、ひとりだけを」

「他の何もいるものか。僕は願った、琉架と共に地獄に堕ちることを」

「彼女が望んだのは、宿した命に寄り添うことだった。生むことが叶わなくとも、母親になること決めた。君を愛しながら……地獄に行くことを拒んで」


 麻斗さんの手から滑り落ちるスケッチ画。揚羽さんの顔に浮かんだ微かな笑みと床に広がる琉架の笑顔。

 死を前に琉架が迫られた選択。

 彼女はどんな想いで宿した命と共に。

 許されない恋の果て……私には想像もつかない。


 揚羽さんが指差したスケッチ画が宙を舞った。描かれたクマのぬいぐるみが見え隠れする。


「命は化け物の体を与えられた。憎しみを糧に人間ひとを喰らい、嘆きを力に願いを叶える。化け物は翔琉と名乗りここにいる」

「僕の子供。生きてるのか……化け物になってでも」


 噛みしめるような麻斗さんの声。

 揚羽さんが指を鳴らし、粉々になったスケッチ画。

 それは雪のように舞い床に落ちる。


「彼女にドレスを託したのは翔琉だ。人間ひとを喰いながら見続けた夢を叶えるために」

「家族……僕が無くしたものを、手に入れること


 揚羽さんが近づいてくる。

 踏まれた骨の群れが崩れ、頭蓋骨が揺れ傾いた。

 来栖琉架だったもの。

 落ち転がる頭蓋骨を、受け止めた麻斗さんの顔に浮かぶ悲しげな笑み。


「これだけ話せば信じるだろう? 君は母親役に選ばれたのだと、三嶋ひかりさん」


 そんなの信じたくもない。

 私は喰われ、帰る場所を失った。お父さん、お母さん、はるか……私は、家族に会えなくなったのに。どうしてそんなことを強いられなきゃいけないの?


「私が選ばれたのはなぜ? どうして……翔琉君は」

「気づかなかったのか? 僕が与えたヒントに」

「ヒント?」


 麻斗さんと話してた時、揚羽さんは私に見向きもしなかった。ヒントって言われても思いあたるものなんて。


「そんなもの私には何も」

「僕は見せたはずだ、1枚のスケッチ画を。何が描かれていた?」


 揚羽さんに操られ宙を舞ったスケッチ画。

 描かれていたのは……クマの


「選ばれた理由はぬいぐるみ。琉架が大切にしていたものは、君のものによく似ていた。それが決め手になったのさ」

「本当に……それだけで?」

「大人びたふりをしていても、翔琉はお子様なんだよ」


 揚羽さんの笑い声が部屋に響く。金色の目が私を見透かすように輝いた。


「さぁ、君はどうするつもりだ? 翔琉に逆らったところで、この世界からは出られない。逃げるために、僕と一緒に地獄に行くか?」

「あなたは……何を考えて」

「言っただろう? 僕の生きがいは人間の嘆きと苦しみの果てを見届けること。君がたどり着く未来ものを見せてもらおうと思ってね」


 揚羽さんが被った銀色の仮面。

 それが示すのは揚羽さんが隠し持つもの。苦しみか悲しみかはわからない。

 だけど揚羽さんは翔琉君と同じ、漆黒の闇が生みだした者。

 揚羽さんにも秘め隠す過去が……きっと。


「来栖麻斗、この世界にはもうひとりの君がいる」

「僕が……もうひとり? どういうことだ?」

「父親役として、翔琉が作りだしたのさ」


 私を見る麻斗さんの目に戸惑いが浮かんだ。

 子供が生きている事実と、揚羽さんが告げた父親役と母親役。琉架のドレスを着た私を前に、麻斗さんはどんな気持ちなんだろう。


「父親か。地獄に堕ちた僕には、子供を愛する資格はない」

「麻斗さん」


 頭蓋骨をなぞる手が震えている。

 私のそばに立つふたりと骨の群れ。床に散ったスケッチ画。


「馬鹿だな僕は。すべてを捨て琉架だけを選んだはずだった。なのに思う、我が子を抱きしめたいと。許されるはずは……ないというのに」


 麻斗さんのあざけるような笑い声。声をかけるにも言葉が見つからない。子供の頃からそうだ。誰も助けられず見ないふりをしてた。

 私は……何も出来ない弱虫だ。

 麻斗さんや紗羅ちゃん、紫音さんと莉亜さん。彼らがいたら、力を貸してくれるかな。


「三嶋ひかりさん、君はどうする」

「え?」

「麻斗を呼び覚ましたのは、君が僕の話を信じなかったからだ。彼を苦しませたままでいいのかい?」

「そんなこと……言われても」


 私にはわからない。

 どうしたらいいのか。麻斗さんのために、何が出来るのか。


「麻斗、君は生きたいと思うか? 我が子と共にこの世界で」

「わからない、僕にはもう、生きる資格など」


 麻斗さんの手の中にある頭蓋骨。

 私に向けられたふたつの空洞。焼け消える前、そこにあった琉架の目が私を見るように。


「君は会ったのか? もうひとりの僕に」

「はい」


『そうか』と言うように麻斗さんの唇が動いた。綺麗な顔に重なる、白い髪の麻斗さんの残像。


「僕の記憶を持っているのか? もうひとりの僕も……琉架を愛して」


 問いかけを前に息を吸い込んだ。

 私達を見る揚羽さん。

 仮面に隠された表情かお、揚羽さんが何を考えてるかわからない。だけど金色の目はまっすぐに私達を見つめている。


「彼が知っているのは、私のことと来栖麻斗という名前だけなんです。彼はまだ……愛を知りません」


 頭蓋骨をなぞる麻斗さんの手。

 物憂げな顔が私を見つめている。


「僕にもひとつだけは、許されることがあるだろうか」

「え?」

「もうひとりの僕、彼の命になること」

「何を……言って」

 

 麻斗さんが言ったことが意味するもの。

 命になるって、彼はまた死んじゃうってことじゃ。


「我が子に会うことも抱きしめることも許されない。もうひとりの僕が……僕の代わりに」

「『我が子を愛してくれるなら』か。それが、君の嘆きと苦しみの果て」


 揚羽さんに答えるように麻斗さんはうなづいた。


「作られた者の、本当の命になる……か。僕は構わないが、息子はどうかな? いるんだろ翔琉、入ってきたらどうだ」


 揚羽さんの声に答えるように開かれたドア。

 翔琉君が立っている。

 彼のうしろにいるのは紫音さん。


「思ったとおり、揚羽の仕業だったんだ」


 翔琉君の呟きに揚羽さんの『そう』と言う声が重なった。


「ひかりがいなくなったって、キリエの騒ぎっぷりときたら」

「僕が気づかなければ、執事と共に立ち聞きを続けてた。お子様らしからぬ行動だ」

「誰がお子様だ」


 近づいてくる翔琉君を麻斗さんは見つめている。驚きと戸惑い、不安に混じる喜び……綺麗な顔に浮かぶ複雑な感情おもい


「揚羽の行動は読めないものばかりだ。よけいな話をされたばかりか、本物の来栖麻斗を蘇らせるなんて」

「翔琉のためを思ってのことだよ。僕は翔琉をほっておけない」


 私達のそばで眼鏡を外した翔琉君。

 琉架によく似た目が、麻斗さんを見上げ細められていく。


「悪いけど、あなたをお父さんとは呼べない」

「翔琉君? 何を言って」

「ひかりは黙っててよ。来栖麻斗は……こいつは、僕と母さんを焼き殺した」

「でも、麻斗さんも苦しんで」

「いいんだ、ひかりさん」


 麻斗さんは微笑んだ。

 穏やかな顔を私に向けて。


「許されないことはわかってる。だから……いいんだ」


 麻斗さんの声が私の心をえぐる。

 許されないことをした、それでも息子を前に笑っている。彼の目に宿る愛しげな光。


「翔琉君、麻斗さんは」

「黙ってろって言っただろ‼︎ 何をしてる揚羽、早く」

「もうひとりの来栖麻斗。父親を彼の命に変えてしまう。本当にいいのか? 翔琉」

「それがこの人の望みなんだ。……叶えてやるさ」

「ありがとう、翔琉。僕の……愛しい子」


 麻斗さんの優しい声。

 翔琉君の体が弾かれるように揺れた。

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