第3話

 張り詰めた空気が私を支配する。

 逃げなきゃ……化け物がいない所へ。だけど行ける所も帰る場所も奪われた。


「さぁ、どうする? 彼を愛するか、一緒に消滅するか。ひかりの選択肢はふたつ」


 人の形を崩し、溶けだした翔琉君の体。どす黒いものになって体を這いずってくる。生臭さに飲まれていくミルクティーの匂い。

 本当に翔琉君は化け物なんだ。私を潰したものがここにいる。


「消えたくはないだろう? ひかりは麻斗とは違う。生きる喜びも、死への恐怖も知ってるんだからさ」


 喜びなんて考えたこともなかった。なんの夢も叶えられなかったし、まわりにいる人達が妬ましい日々が続いただけ。


「心の底から求めなよ、来栖麻斗という存在をさ」


 そんなこと、受け入れられっこない。

 私の話を聞いてくれたひとつだけの友達。大切に思う気持ちは愛することとは違うんだから。


「どうしたの? 消えることを選ぶのか? 答えなよ、ひかり」


 塊はゴボゴボと音を立てながら、強い力で絞めつけてくる。

 苦しい。

 気を失ったら……私は。


「やめて……離して」

「ふうん? ひかりはご主人様に命令するのか」

「違う、私は」


 死ぬのは嫌。

 だから願ったの、運命の人に会いたいって。

 幸せになりたい。

 いっぱいの夢を叶えて、愛する人と笑いあえたら。美夜ちゃんと透君のように、互いを強く信じあって。

 私だけを見て、そばにいてくれる人に会いたかった。

 だけど麻斗さんは違う。

 作られた出会いなんていらないの。


「消滅を選ぶんだね。さよならだ、ひかり」


 塊の中で、大きな目がギラリと輝いた。

 消滅。

 何も出来ないまま……死ぬ。


 嫌。

 嫌。


 死ぬのは嫌。

 どうしたらいい? 

 助かるために出来ること。それは


「……する」

「何? 聞こえないよ、ひかり」

「翔琉君の言うとおりにする。私は、麻斗さんを」

「じゃあ、行動で示してよ」


 私から離れ蠢くもの

 ひとつだけの大きな目が、私を脅すようにギョロギョロと動く。

 痺れが体中を巡る、それでも動かなきゃ。

 麻斗さんに近づいていく。綺麗な顔立ちと髪を束ねる青いリボン。時を止めた彼に重なる、可愛らしいぬいぐるみの残像。

 しゃがみ込み触れた温かい頬。


「あなたを」


 虚しさを呼び寄せる掠れた声。

 ときめきも喜びもない。こんなことを始めることになるなんて。


「愛したい。ずっと……あなたと一緒に」


 目を閉じて言い聞かせる。

 これは、生きるための選択。私を守るために必要なことなのだと。


「あなたのすべてが……ほしい」


 体を引き寄せ、閉ざされた唇に口づけた。

 柔らかな感触と、私の首すじをなぞる髪のしなやかさ。ぬいぐるみとは違う体の重み。




「いいよひかり、上出来な恋の始まりだ」


 翔琉君の弾む声と手を叩く音。

 人の姿になって笑ってる。私を消そうとしたくせに、あんなふうに笑えるなんて。


「どうしたの? 助かったんじゃないか。嬉しくないの?」

「喜べっこない、こんな」

「素直じゃないねひかりは。そんなことで、麻斗と上手くやっていけるの?」


 子供の無邪気さと化け物の残酷さ。 

 とんでもないものに捕まった。逃げなくちゃ、このままじゃおもちゃにされるだけ。考えるんだ、この世界を知り出て行く方法を。


「教えてくれる? 作った世界ってどういうこと?」

「ミルクティーを飲んだら教えてあげるよ。僕が淹れるものは絶品なんだから」


 ティーカップを手に翔琉君は目を細める。


「僕に逆らえばどうなるかわかったろ? 早くしなよ、ひかり」


 ご主人様だと翔琉君は言った。

 家来にも奴隷にもなるのは嫌。だけど今は言うとおりにするしかない。

 麻斗さんから離れ翔琉君に近づいた。ティーカップを受け取りひとくち飲む。翔琉君は満足げにうなづいた。


「闇は閉ざされた世界ものでも無限の広さを持つ世界でもある。この世界はねひかり、闇と同化した僕が作りだしたものなんだ。僕の思念と命が世界の源さ」

「翔琉君が死んだら、この世界はどうなるの?」

「僕は死なないよ。闇と同化した命には老いも寿命もない。死を願っても叶わないんだから」

「死なないって……本当に?」

「嘘を言ってどうするのさ。僕は死なないし、この世界も終わらないよ。僕には夢がある。この世界は、夢を叶えるために作ったものなんだ」


 ——僕の夢を叶えてもらおうか。


 私がここに連れてこられたのは、翔琉君が叶えたい夢のため。


「翔琉君の夢って」

「秘密。知りたいなら、僕の信用を得て聞きだすことだね」


 翔琉君はテーブルから離れ窓の前に立った。開かれたカーテンと大きな窓、見えるのは漆黒の闇。

 この世界にも朝は来るのかな。お母さんの料理がなんだか恋しい。オープンした喫茶店、はるかと行く約束叶えられなくなっちゃった。お父さん、いつまで帰りが遅いんだろ。何日も残業が続いてる、体を壊さなきゃいいけど。

 

「ひとつだけヒントをあげようかな。それは僕が主人あるじを演じるこの屋敷だ。遠い過去、現世から姿を消したもの。屋敷が取り壊されたあと、作られたのはあの公園さ」


 透君が言ってたな。

 公園には化け物が棲みついてるって。化け物は夜の訪れと同時に目を覚ます。

 取り壊された屋敷、主人を演じる化け物。


「君達はここに住まわせてあげるよ。困ったことがあれば執事と召使いに言えばいい。ルールはないって言ったけど、ひとつだけ守ってほしいことがある。地下室には絶対に近づかないこと」

「地下室? 何があるの?」

「近づくなって言ってるのになんで興味を持つのさ」


 翔琉君の呆れたような声。地下室があるなんて黙ってればわからないのに。


「この部屋は気に入った? 麻斗と一緒に過ごしてもらおうか……冗談だよ、麻斗の部屋は召使いに用意させるから。怒んないでよ、ひかり」


 開け放たれた窓、翔琉君の体が闇に溶けていく。


「さてと、闇の散策に戻ろうかな」

「待って、ひとつだけ」

「僕の話聞いてた? 執事か召使いに言えって」

「教えて、この世界には朝が来るの?」

「残念だけど、この世界にあるのは闇だけだ。闇は光を前に消滅する。現世が朝を迎え夜が訪れるまで、僕もこの世界も眠りにつく」

「それじゃぁ、昼の景色も夕焼けも」

「見れないよ。ひかりは、この世界の住人になったんだ」

「……そんな」


 あたりまえのように見ていたものがもう見られない。子供の頃の家族旅行が懐かしい。お父さんが撮った写真、いっぱい見とけばよかったな。


「そんな顔しないでくれる? 僕が悪者みたいじゃないか。ほら、麻斗が心配してるよ?」


 振り向くと、麻斗さんが私を見つめている。綺麗な顔に浮かぶ戸惑いと困惑。


「ひかりさん、僕は眠ってたんですか?」

「え?」

「君が僕に触れた。僕がほしいと……君は」


 体が熱を帯び、緊張が巡る。

 時が止まってたはずなのに。それとも翔琉君は、麻斗さんの動きを止めてただけなの? 言ったことも口づけたことも……麻斗さんは。


「今のは、夢だったんでしょうか」

「それは……その、翔琉君が」


 翔琉君に迫られた選択と私が決めたこと。


「彼はいない、闇の中に消えた」


 翔琉君がいなくなったふたりきりの部屋。沈黙の中、麻斗さんが近づいてくる。


「ひかりさん、君は」

「夢じゃ……ない」


 私は決めたんだから。

 生きるために、彼を愛すると。


「夢じゃないんです。麻斗さんは眠ってなかったし」


 作られた出会い。

 それでも受け入れると決めた。


「麻斗さん、私を」

「なんです?」


 ゴクリと息を飲み込んだ。こんなことを、私が言う時がくるなんて。


「私を……愛してくれますか?」


 体中が熱い。

 言ったことは取り消せない。

 もう、あとには戻れない。


「私は、麻斗さんに……愛されたいです」

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