ふたりの麻斗
第7話
「おっお客様っ‼︎」
私達に気づくなり、キリエさんが大声を出した。客室の前、ティーカップを乗せたトレーを持ったまま。
「はははっ早く‼︎ ドアを開けて頂きたいのですがっ」
肩を揺らし顔をひきつらせてる。
麻斗さんがドアを開けると、キリエさんはほっとしたように息を吐きだした。
「きき、気を使わせてしまいました。溢したらと思うと、こっ怖いばかりで」
「ありがとう、テーブルに運んでくれますか?」
「はははっ、はい」
トレーが揺れガチャガチャと音を立てるティーカップ。お茶菓子を一緒に頼むのは、紗羅ちゃんか莉亜さんがいいみたい。
「召使いとして恥ずかしいです。こっこのようなこと……だだっ誰かに知られでもしたら」
「大丈夫ですよ、僕達は誰にも言いません。ひかりさん、早く」
麻斗さんに言われるままテーブルへと急ぐ。ティーカップを並べ終え、トレーを抱えたキリエさんが私と向き合った。溢さなかったことにほっとしたのか、うっすらと涙を浮かべている。トレーじゃなくてワゴンを使えばいいだけなのに。
「おおお、お淹れしたのはカモミールティーです。かかっ鴨が見るティー……」
「キリエさん。もしかして、駄洒落を言ってるの?」
「わわっ私はなんてことを‼︎ おおお、お客様を前に駄洒落など。ああっ‼︎」
キリエさんの体がぐらぐらと揺れる。滑り落ちたトレーが床の上で大きな音を立てた。
「キリエさん、大丈夫?」
「すすっすみませんっ‼︎ すぐ拾いますので‼︎」
しゃがみ込み、トレーに手を伸ばしたキリエさん。なんだろうあれ、手の平にある真っ黒な……
「キリエさん、それ」
「はい? ななっなんでしょう?」
「怪我をしてるの? 黒いものが」
「お、お客様? 何を……言ってるんです?」
「だから、これ」
手を握り、黒いものを指差した。こんなにはっきりしてるのに見えないはずがない。
「これは、君にだけ見えればいい」
誰かが囁いた。
凛とした低い声で。
「僕からの闇への
聞き慣れない男の人の声。
顔を上げ見えたのは赤い髪と知らない顔。赤と黒の奇術師を思わせる服と、赤い唇を引き立てた
この人……誰?
「キリエさん?」
「召使いはここだよ。彼女の体を借りて君と話している。僕は
細まった金色の目と、目の前に伸ばされた手のひら。
痣のようなものが大きくなっている。黒いものが動きだし手のひらから
似てる。
私を喰った化け物に。
どうして……こんなものが?
ドレスに落ちた黒いものが、這いずりながら床に流れ濡らしていく。
「……これ」
「言っただろう? 闇への誘いだと」
ひび割れていく彼の顔と溶けだした赤い髪。私の体も溶けだして
「さぁ、君を案内するよ」
体が闇に溶け込んでいく。
漆黒の闇が、私を捕まえた。
「麻斗さん? キリエさん」
返ってくる声はなく、沈黙だけが私を包む。ねっとりとした生温かい空気。
何も見えない。
「麻斗さん、どこ?」
子供の頃の記憶が脳裏をよぎる。
夜の訪れとぬいぐるみとの別れ。
「いないの?」
緊張と不安が私を包む。
ひとりになることがこんなに怖いなんて。
友達がいなかった日々、ひとりでいることに慣れてたはずなのに。
「麻斗さん」
もしもぬいぐるみに心があったなら。
私がいなくなった闇の中は、どれだけの不安と怖さに包まれた世界だったろう。私の迎えを待ちながら闇に飲まれたぬいぐるみ。化け物に喰われ、思わぬ形で巡り合えた大切なもの。
言葉を交わし心を通わせ、近づいた距離。
彼が向けてくれる優しさが、ぬいぐるみが秘めていた優しさだったとしたら。
「……私を」
暗闇の中で願う。
私を包む優しさが離れていかないように。
ひとりにしないで。
ずっと、離れずに。
——……。
「何?」
声が聞こえる。
穏やかで、悲しげな響き。
——……。
「誰? 何を言ってるの?」
暗闇の中、耳を傾ける。
——琉架。
琉架?
ノートに書かれてた名前だ。
もしかしてこれ。
——僕の琉架。
写真で見た人の声なんじゃ。
遠い過去、取り壊された屋敷に住んでいた。
来栖麻斗。
彼の声なの?
——琉架、僕達は堕ちていく。許されないままに……地獄へ。
暗闇が砕け、私を包んだ空気が色味を帯びていく。
見えてきたのは床に落ちた何枚ものスケッチ画。描かれてるのは写真で見た
黒いドレスと長く艶やかな髪。幸せそうな笑顔だけが描かれている。1枚のスケッチ画に書かれた琉架という名前。
やっぱり、彼女の名前は来栖琉架なんだ。
「……これ」
1枚のスケッチ画が私の目を止めた。
琉架が持つクマのぬいぐるみ、私のものに似てる。耳の形はちょっと違うけど、大きな目と首にかけられたリボン。
こんなことってあるんだな。
色々なぬいぐるみがある中で、そっくりなものを見つけるなんて。
——僕からの、闇への誘いだ。
揚羽と名乗った彼は何者なんだろう。
キリエさんの体を借りたってどうやって?
なんのためにここに連れてきたんだろう。窓がない壁だらけの部屋に。
……窓?
「どうして、窓がないの?」
灰色の壁と天井が感じさせる息苦しさ。
シーツが乱れたベット。床に転がる鉛筆とひび割れたワインボトル。
「ここは?」
「わからないか? 屋敷の地下室だ」
体中がどくりと音を立てた。
地下室、翔琉君に近づくなと言われた場所。本当に……ここが?
灰色の壁から滲みだした赤と黒。
人影を作りだし現れたのは、揚羽と名乗った……
「翔琉の夢、そして苦しみが隠された場所」
赤い髪を細い指がなぞる。
金色の目が細まり、唇に笑みが浮かんだ。
「あなた……誰?」
「名乗ったはずだよ、揚羽だと」
「名前じゃなくて」
「僕が何者かを知りたいか? 翔琉と同じ、漆黒の化け物に生みだされた者。と言っても、
揚羽さんはスケッチ画を拾い、『ふむ』と興味深げに息を漏らした。
「
「……地獄」
「僕は人間界と地獄を行き来している。いくつもの自滅を見届けてきた」
揚羽さんの手の中で、1枚のスケッチ画が燃えた。鮮やかな紅い焔……それは黒い灰となって床に落ちていく。ゆっくりと、落ち消えることを恐れるように。
「君はどう思う? 彼が遺したもの、すべてを焼き尽くしたら消えるだろうか。彼の罪と嘆き、
「愛が……生きて?」
「そう、来栖麻斗が遺した愛は今も生きている。お子様な翔琉は気づきもしないだろうが」
「あなたは、翔琉君とどんな関係が」
「家族のようなものさ。与えられた
翔琉君と同じことを言ってる。
死なないって……本当に?
「さて、三嶋ひかりさん。君は疑問に思わないのか? この世界に住むことになったのはなぜなのか」
「それは……でも」
考えてもどうにもならない。体を喰われ、帰る場所を無くしちゃったんだから。麻斗さんのそはで、逃げる方法を考える以外出来ることなんて。
「思わないならわからないままだろうな。だから教えてやるよ、翔琉は君を利用している」
「どういうこと?」
「お子様が夢見る家族の物語にさ。君に母親を演じさせようと考えている。来栖麻斗の息子として生まれていたら、生まれることが許されたなら……翔琉という化け物は現れはしなかった」
家族?
母親?
揚羽さんは何を言ってるの?
来栖麻斗が……翔琉君のお父さん?
「翔琉は生まれることなく闇に落とされた。来栖麻斗が自ら命を絶った道連れに。だが……彼が死を選ばすとも、翔琉が産声を上げることは許されないものだった。なぜなら」
聞くのが怖い。
聞いたら……私はどうなるの?
「翔親の母親は、来栖麻斗の実の妹……琉架」
妹?
血が繋がった?
ありえない……そんなこと。
「……嘘」
「なぜ嘘だと決めつける? 僕の善意を否定するのか」
揚羽さんの口から『ククッ』と笑いが漏れる。形のいい唇を歪ませて。
「翔琉は話そうとはしないだろう。だから教えてやろうと思ったのに。僕が信じられないなら来栖麻斗に聞けばいい」
揚羽さんが指差したのは私のうしろ。
何をしてるの?
ここにいるのは、私と揚羽さんだけなのに。
指先が黒く染まっていく。
溶けだし、雫になったものが床に落ちて生き物のように跳ねる。
カンッ
ココンッ
何かが音をたてた。
重く硬い、石のような響き。
振り向いて見えたのは焼け焦げた天井と床。それと
「……骨?」
ふたつの頭蓋骨と骨の群れ。
どうして、こんなものが。
「屋敷が取り壊される前に見つかったものだ。来栖麻斗と来栖琉架の亡き骸。命を絶って地獄に堕ちた。……そうだろう? 来栖麻斗」
揚羽さんの声に答えるように揺れ落ちた頭蓋骨。
骨の群れが崩れ、カラカラと音をたてる中頭蓋骨が転がってくる。
あとずさり、離れようとする私に近づくように。
「地獄に堕ちた者の魂を、僕は呼び覚ますことが出来る。君のために麻斗を目覚めさせたよ、三嶋ひかりさん」
ドレスに足を取られソファに倒れ込んだ。体を起こそうとした私の前に現れた人影。
襟元のボタンが外された白いシャツと黒く長い髪。麻斗さんと同じ顔が私を見つめている。
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