第9話

 顔をこわばらせ、翔琉君はあとずさる。

 麻斗さんから離れる体がガタガタと震えだした。


「翔琉君? どうしたの?」

「なんでもない」


 震えを止めようと、翔琉君は両手で自分を抱え込む。


「顔色が」

「気にするなよ、ひかり」


 声を震わせながら、翔琉君は私を睨みつけた。


「ひかりにわかるもんか、僕がどれだけこの人を……来栖麻斗を憎んできたか」

「ならどうして麻斗さんを作ったの? この世界だって、翔琉君はひとりが怖いから」

「うるさいな、黙れっ‼︎」


 たぶん、翔琉君は戸惑ってる。いだき続けた憎しみと、父親への憧れと思慕。現れるはずがなかった父親を前に、どうすればいいのかわからないんだ。


「揚羽もひかりも、よけいなことを」


 黒く溶けだした翔琉君の顔。ひとつだけの目がギョロリと私達を睨む。人の形を崩し、塊になっていく翔琉君を、紫音さんが背後から抱きしめた。


「落ち着いてください、翔琉坊っちゃま」 

「坊っちゃまはやめろって言ってるだろっ‼︎ 僕は子供じゃない、お前達の主人なんだ‼︎」


 塊が紫音さんを飲み込んでいく。黒く染まっていく髪と体。だけど紫音さんは離れずに翔琉君を抱き続けている。


「僕はずっとそばにいます。君は大切な主人なのだから。寂しさも怖いものも……僕が遠ざけるから」


 形を歪ませた大きな目から、透明な雫が流れ落ちた。紫音さんを飲み込んだまま、塊は動きを止め目を閉じていく。


「翔琉君?」


 返ってくる声がない。

 気を……失ってる?


「ひかりさん」 


 麻斗さんが私を呼んだ。

 向けられた柔らかな笑みは、もうひとりの麻斗さんを思わせる。遠い過去、琉架に見せていた笑み。許されない恋、それでも麻斗さんは幸せだったんだ……心から。


「そのドレス、君によく似合っている」

「そっそんなこと……ないです」


 心臓が跳ね私を動揺させる。

 まさか、麻斗さんからこんなことを言われるなんて思わなかった。


「嘘はやめてください」

「僕は本当のことしか言わない。ひかりさん、君に託したいものがある。受け取ってくれるだろうか」


 なんだろう。

 まさか、頭蓋骨とは言わないよね。


「僕の記憶を、君の中に留めてほしい」

「……記憶?」

「もうひとりの僕に託すことは出来ない。彼には彼の紡いでいく未来があるから」


 この世界で紡ぐ未来もの

 何が待っているかわからない。それでもたどり着ける何かがあるなら。彼の記憶が、私を変えていくきっかけになるなら。


「勝手に話を進めるとは」


 揚羽さんの声が響く。揚羽さんの手の上で、燃え消えていくスケッチ画。


「君達は、僕がなんでも出来ると思ってるのか?」


 揚羽さんの問いかけに不安がよぎる。麻斗さんが言ったこと、出来ないなんて言わないよね。


「揚羽さん、出来ますよね? このままじゃ麻斗さんが」

「魂を呼び覚ますよりは簡単だ。……しかし」


 揚羽さんが指を鳴らし、麻斗さんの体を包み込んだ真っ白な光。


「驚いたな、記憶を彼女に託そうとは」

「彼女の中で僕と琉架は生き続ける。記憶という、限られたものでも……僕達の想いはずっと」

 

 光の中、琉架の頭蓋骨がひび割れていく。手を掴まれ、麻斗さんに引き寄せられるまま光の中に飛び込んだ。




 私に溶け込む記憶。

 幼い頃からそばにいて笑い合っていた兄妹。

 慕い、惹かれ、互いを求め合うようになった。

 琉架と肌を重ね愛を語ったひと時と、両親に知られ責められる絶望と苦しみの時。

 精神こころを壊され、地獄に堕ちることを願った。

 両親と召使いをあやめ、琉架と共にたどり着いた地獄への入り口。


 ——琉架、僕達は堕ちていく。許されないままに……地獄へ。


 火に焼かれながら抱き合った。だけど琉架が願ったのは、宿した命に与えられる未来。生まれることを許されなかった命。

 それでも愛し守ろうとした。


 母親として。



 ひとり地獄に堕ちながら、麻斗さんが願ったこと。



 ——いつか、琉架と同じ世界へ……




「麻斗さん……琉架?」


 麻斗さんの顔に浮かんだ笑み。

 粉々になった頭蓋骨と琉架の幻。


 ふたりが体を寄せ合い、長い髪が絡みあう。


 光の中、溶け崩れたふたりが見えなくなって……



 ——神様が見捨てた世界。


 記憶の奥底から響く琉架の声。


 ——永遠とわに続く許されない旅路。


 何も怖くない。

 ただ……幸せ。


 時を巡り、時を彷徨って、許されないままだとしても。

 ふたりなら怖くない。


 愛した人と堕ちていく地獄なら。











「……様。ひかり様ってば」


 紗羅ちゃんが私を呼んでる。

 どうして紗羅ちゃんがいるんだろう。私は地下室ここで麻斗さんと一緒にいたはずなのに。

 麻斗さんの記憶が私の中を巡る。琉架の大切なクマのぬいぐるみ。

 それは麻斗さんが誕生日に渡したプレゼント。

 驚いたな、誕生日にもらったことまで私と同じだなんて。


「起きて、ひかり様」


 紗羅ちゃんの大声と白い天井。

 私を包むミルクティーの匂い。

 体を起こし見えた、紗羅ちゃんの笑顔と私の部屋。


「よかった、やっと起きた」


 どうやって戻ってきたんだろう。麻斗さんに手を引かれ、飛び込んだ光の中。受け取った麻斗さんの記憶と溶け崩れ消えていったふたり。


「びっくりしたよ、いきなり消えちゃうなんて。キリエに聞いた時は、何を言ってるのか全然わからなかったけど」


 簡単に想像出来るのキリエさんに悪いかな。慌てて喋るキリエさんと呆れた顔で見てる紗羅ちゃん。『何言ってるの?』って言われて、キリエさんの慌てっぷりに歯車がかかるところまで見えてくる。


「ごめんなさい、心配かけちゃって」

「いいよ、怪我はないんでしょ? 部屋ここにはね、あの人が連れてきたみたいだけど」


 紗羅ちゃんの目を追い見えたのは、私達から離れ立つ揚羽さん。

 白い部屋の中、赤と黒の服が華やかに見える。


「しばらく屋敷にいるみたいなの。……私ね」


 紗羅ちゃんは眉をひそめる。顔を近づけてきて


「あの人が苦手なんだ、勝手に翔琉様と仲良しだと思ってるし」


 私の耳元でぽつり。


「ひかり様はどう思う? 男のくせに化粧まで」

「化粧が何かな? 召使いさん」


 揚羽さんの声に紗羅ちゃんは『ひっ‼︎』と声を上げ体をビクつかせた。小声で話したことが聞こえてる、もしかして、揚羽さんは地獄耳なんじゃ。


「化粧だけではわからないだろう? 僕が本当に男かどうかは」


 赤い髪をなぞる細い指。

 よく見ると黒いマニキュアが塗られている。化粧といい耳飾りといい、男の人じゃないのかも。だけど凛とした低い声。


「僕が男か女かは、君達の想像に任せるとして。話は出来そうかな? 三嶋ひかりさん」

「ひかり様は起きたばかりなの。話なんていつでも出来るじゃない」

「僕の分のミルクティー、君にあげるから話の許可を」

「わっ私を飲み物で釣ろうなんて」

「翔琉が淹れるミルクティー、飲みたくないのかい? 乙女な召使いさん?」


 揚羽さんの手の動きに合わせ、宙を舞いだしたティーカップ。駆け寄り、手を伸ばした紗羅ちゃんを見て揚羽さんは愉快そうに笑う。

 揺れるティーカップを前に、悲鳴を上げる慌てっぷり。本当に、紗羅ちゃんはわかりやすい。


「ちょっとやめてよ。こぼれたらどうするのよっ‼︎」

「掃除をすればいいだけだ。慌てると危ないよ、召使いさん」

「揺らすのわざとでしょ‼︎ 翔琉様に言いつけるから、意地悪っ‼︎」

「やれやれ。怖いものだ、恋する乙女というものは」


 紗羅ちゃんの手に乗せられたティーカップ。ほっとする紗羅ちゃんとすれ違い、揚羽さんが近づいてきた。


「あの、麻斗さんは」

「もうひとりの来栖麻斗、彼の命になった。地下室の中、生き続けていた来栖琉架への愛と共に」

「そう……ですか」

「浮かない顔だな、気に入らないか? 彼の選択が」

「……いえ」


 私の中を巡る寂しさはなんだろう。

 託された記憶がそうさせるのか、感じ取った彼の優しさが私を惑わせるのか。


「翔琉に作られた命は失われ、彼は本物の命を手に入れた。さて、ここからが本題だが」


 ミルクティーを飲む紗羅ちゃんと目が合った。

 嬉しそうな笑みを前に浮かぶ記憶。

 琉架が淹れ、家族と飲んでいたミルクティー。翔琉君は琉架のお腹の中で夢見てたんだ、一緒に飲みながら笑い合える日を。飲むことが叶わなかった母の味を、翔琉君はずっと……宝物のように。


「君はどうするつもりだ? 翔琉の目的を知った今」


 翔琉君が見続けた家族の夢。

 私を母親役に選び、父親役にと麻斗さんを作りだした。


「僕は地獄に堕ちた者を呼び覚ますことが出来る。琉架が地獄に堕ちていたなら、僕の力で翔琉の夢を叶えることが出来た。思いどおりにならないものは、人間と同じだな」


 ふたりが一緒に呼び覚まされていれば、翔琉君は本当の家族と過ごすことが出来た。許されない血の繋がり、その苦しみを受け入れながらでも。


「三嶋ひかりさん。翔琉の夢を僕が叶えてたら、君はどうなってたと思う?」

「え?」

「僕は言った。君が選ばれた理由はぬいぐるみだと。翔琉が家族を手に入れていたら。……君の願いは、どんな形で叶えられたか? ということだ」


 揚羽さんの問いかけを前に、浮かんだのは初恋の男の子とかつての同級生、木瀬正樹君のことだった。

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