第32話

 紗羅ちゃんと一緒にティーカップのカケラを拾っていく。床を拭こうとバケツとぞうきんを持ってきたキリエさんだったけど。


「ああっ‼︎ すっすみませんっ‼︎」


 羅衣羅さんにぶつかるなりバケツをひっくり返してしまった。『まったくもう』と呟きながら、紗羅ちゃんはカケラ拾いに徹している。どうやら見ないフリを決めちゃったみたい。


「キリエさん、大丈夫かい? 困ったねぇ、ぞうきんが1枚じゃどうにもならないよ」


 たたんだテーブルクロスを手に困惑気味な羅衣羅さん。


「わわっ私としたことが‼︎ ひ、ひとりで掃除するつもりで……ああっ‼︎」

「キリエさん、ぞうきんを持ってきましょう。僕も一緒に行きますから」

「はははっはい‼︎」


 麻斗さんと肩を並べ、キリエさんが食堂から出て行った。あとに続いたのは羅衣羅さん。ドアが閉められ、室内に響くのはカケラを拾う音。


「紗羅ちゃん、怪我しないよう気をつけて」

「うん。羅衣羅さん、テーブルクロスを洗ってくれるみたいだね」


 私と顔を見合わせ、にっこりと笑った紗羅ちゃん。


「楽しみだね、ひかりさん。新しい住人が増えた。ココアが来たのもびっくりだけど、天使が来るとは思わなかったな」

「あんなにちっちゃい子が餓鬼の中に。怖かっただろうね」

「地獄はもっと怖い所だよ。あの人の優しさなんだろうね、螺子を守るためにそうするしかなかったんだと思う」


 揚羽さんと螺子君はどこで出会ったんだろう。

 事故に遭い、漆黒の化け物に捕まった。揚羽さんと天使に接点があるとは思えないけど。


「紫音から聞いたことがあるんだ、地獄に堕ちた人達のこと。彼らを待つのは火炙りや水責めの刑。そのあとどうなると思う?」

「なんだろう。1度だけ、生まれ変わりのチャンスがもらえるとか」

「長い間氷の中に閉じ込められて、餓鬼の餌になるのを待つ。犯した罪の記憶、魂……全部が餓鬼に食い尽くされるんだって」

「そんな……酷い」


 揚羽さんが魂を呼び覚まさなければ。

 来栖麻斗もいつかは、餓鬼に喰いつくされていた。


「古井戸のまわりを彷徨う餓鬼は罪の味に飽きた者達。違うものを味わいたくて地獄から這い出してくる。この世界で楽しめるのは絶望と苦しみの味。それはね……翔琉様に喰われた人達が感じたものと」

「翔琉君が感じ続けてたもの」

「うん、ひかりさんはちゃんとわかってくれてるね」


 もしも……何も願わずに死んでいたら。

 私の魂も餓鬼に喰われていたのかな。私がここに来たから来栖麻斗の魂は喰われなかった。


 運命の巡りって不思議。


 いたずらや不条理が、思わぬ形で幸せを呼び寄せる。

 優しさやまごころが、思わぬ形で不幸を呼び寄せる。


 揚羽さんが翔琉君と出会っていなければ。

 揚羽さんが私達に興味を持たずにいたら。


 運命は巡る。

 喜びと恐怖、希望と絶望を絡ませて。



「ひかりさん、持ってきましたよ」


 ドアが開く音と麻斗さんの声。

 カケラが乗せられたトレーを前に『さて』と呟いた紗羅ちゃん。


「みんなで掃除終わらせようか。これから騒がしくなるねひかりさん。私達の世界は、楽しいことでいっぱいになっていくの」











 螺子君が私達の世界に馴染むことに時間はかからなかった。ココアと一緒にいたずらをしては紗羅ちゃんに怒鳴られる。『ごめんなさい』と謝りながらも楽しそうな螺子君。お気に入りのおやつはキリエさんが作ってくれるドーナツ。ココアと半分こしながら食べるのが楽しみみたい。


「聞いてよひかりさん、螺子ったら」


 書庫室に入ってくるなり大声を出した紗羅ちゃん。

 本を読んでいた麻斗さんが『どうしました?』と声をかけた。


「今度はバケツに変装。キリエが腰を抜かしちゃって、紫音が代わりに掃除してるの」


 螺子君には力がある。

 何にでも変装出来る力が。

 食べ物や家具に変装して、みんなを驚かせたり悲しませたり。切ろうとした南瓜が、螺子君に変わった時の羅衣羅さんの落ち込みようったら。


 ——パンプキンサラダ、食べられないのかい? まいったねぇ、スイーツの代わりにいっぱい食べようと思ったのに。


 がっくりと肩を落とす羅衣羅さんのそばで考えたこと。

 もうすぐやって来るクリスマスイヴ。螺子君がサンタクロースに変装して、揚羽さんがプレゼントを準備してくれる。私が叶えてほしいことに、みんなが賛成してくれるなら。





 揚羽さんが私にだけ教えてくれたこと。

 それは私に見せた過去のことと、それに繋がる螺子君との出会い。


 ——死を前に掴もうとした羽根。それは僕が親しくしてる天使のものさ。名前は鳴沙めいさ


 包帯が巻かれた顔。

 それでも私を見る金色の目は温かい光を宿していた。


 ——僕は子供の頃から、人には見えないものが見えていたんだ。幽霊や悪魔と呼ばれる者。死を迎えた人間の、魂を導くために降りてくる天使達。鳴沙とは中学生の時に出会った。母さんの魂を……天界に導くために降りてきた。


 お母さんを亡くしていたことに驚いた。

 揚羽さんが優しいのは、悲しみや苦しみを誰よりもわかっているからなんだ。


 ——やめてっ‼︎ 母さんを連れて行かないで‼︎


 ——君には、私が見えるのね?


 叫び声を前に微笑んだ天使。

 白い光に包まれた、綺麗な女性ひとだと揚羽さんは笑った。


 ——人は、死から逃れることは出来ないのよ。だけど、何度でも生まれ変わることが出来るわ。魂は天界で……新たな命に落とされるのを待つの。


 以来、鳴沙は揚羽さんの前に何度も現れた。揚羽さんが知りたいことを、自分が知るだけのことを話してくれた鳴沙。


 ——鳴沙は優しかった。天界の仲間達を想い、僕みたいな奴を気にかけてくれる。僕は死ぬことが怖くなかったんだ。鳴沙が迎えに来る、鳴沙に見守られ生まれ変われると……信じてたから。


 男の子を助けるために事故に遭った。

 躊躇いなく動けたのは鳴沙への信頼があったから。だけど揚羽さんは……漆黒の化け物に捕まった。


 ——事故に遭った時、僕に見えたのは鳴沙だけだった。鳴沙と一緒に向かうはずだった天界。鳴沙の目の前で漆黒の化け物に捕まった。……螺子を知ったのは、鳴沙の嘆きを聞いたからだ。『天界に現れた異端の子、私ひとりでは守ることが出来ない』と。


 天界の住人が嫌い、遠ざけようとした黒い翼を持つ天使。鳴沙だけは、螺子君を気にかけていた。


 ——鳴沙は僕の前に現れた。眠る螺子を胸に抱いて。『私の代わりに……この子を守って』と。人の運命を闇から解放する。それは、鳴沙の優しさに触れていたからこその決断だった。そうでなきゃ……運命を呪い、人を傷つけることに徹していただろう。僕が地獄を住処とするのは機会を見極めるため。魂を呼び覚まし、天界に導くことが出来ないかと。


『ククッ』と笑いシルクハットで顔を隠した揚羽さん。

 人の運命を闇から解放する。

 それは、ひとりの天使に出会わなければなかった選択。

 鳴沙、光輝く天使。

 私も天界に行けてたら、会えたかもしれないんだ。



 ——螺子もここに住めるようになったし、しばらくはここから離れるとしようか。地獄と人間界を行き来する旅の再開だ。旅を名目に探すんだよ、僕が救えるはずの運命をね。


 揚羽さんの旅を誰も止めることは出来ない。

 だけど私には叶えてほしいことがある、

 勝手なことだとわかってる。それでもひとつだけは叶えてほしい。

 だから私は、揚羽さんを引き止めた。



 クリスマスイヴ。

 この時までは……ここにいてほしいと。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る