第33話 あの日の少年
羽毛のように柔らかな雪が、日の光を受けてきらきらと輝いている。
まだ曖昧な意識の中で、エマはゆっくり辺りを見渡した。
目の前ではサクサクと、
(……たしか、大雪が降った次の日だった……)
これはずっとヴェールに覆い隠されていたエマの記憶。
(この頃は、まだわたくしも寒さにとても強くて……)
羽織っていた外套を脱ぎ捨てて、薄いワンピース一枚で跳ねまわっているのは幼き日のエマだ。
(わたくし、昔オルブライト王国に来ていたのだわ……)
霧が晴れていくように、エマは少しずつ思い出していた。
――母に「しばらくゲルダ伯母さまのところで暮らすように」と放り出されたこの年。思えばこれも、母の言う“留学”だったのかもしれない。
(それで、伯母さまにどこかに連れていかれて……)
あれはどこだったか。だが当時のエマは場所より大雪に夢中で、さっぱり思い出せない。
そうしているうちにザクッザクッと、誰かが雪を踏む音がした。視線の先にいたのは、エマより少し年上の少年。
柔らかそうな髪は真夜中の空の色、澄んだ瞳はサファイアをはめ込んだかのよう。
胸がどきどきするような、とても美しい男の子だった。
「おまえ、寒くないのか?」
声変わり前の高い声。
鼻を真っ赤にして、幼き頃の彼は言った。
「寒くない。わたくし、寒いの大好き!」
幼い自分の声はびっくりするほど高くて。
「変なやつ。みんな寒くて死にそうな顔してるのに、おまえだけだぞ。そんなにはしゃいでるの」
「だって楽しいよ! ほら、あなたも来て!」
「うわっ!」
小さなエマが、強引に彼を引っ張った。そのまま、二人して雪の中に倒れこむ。
「おまえっ! 何するんだよ! ぶっ!」
ぷんすかと怒る彼の顔に、雪玉がぶつけられる。それから笑うエマの声。
ぶるぶると雪を払ってから、彼は不敵に笑った。その顔には、今の彼の面影がある。
「おまえ……やったな!」
たちまち、二人の雪合戦が始まった。
白うさぎだと思うほど敏捷に跳ねまわるエマはすばしっこく、彼は顔を真っ赤にして追いかけまわす。
思い出が、光を受けて輝く朝露の如くきらめいている。
(これは、わたくしが五歳の時の記憶)
エマは思い出していた。この日のことも、彼のことも、そしてすべてを忘れた瞬間も。
幼い二人は散々走り回った後で、息を切らしてごろんと雪の上に寝転がった。ぶ厚くてやわらかい雪が、二人の体を受け止める。
「おまえ、この辺りじゃ見ない顔だな。誰だ?」
「わたくしはエマ!」
ぴょんと、小さなエマが跳ね上がる。
慣れない土地に、慣れない暮らし。最近は無意識のうちにふさぎ込んでいたのだが、こんなに笑ったのは久しぶりだった。
「あなたは?」
エマの問いに、少年が少し恥ずかしそうに手を差しだした。握手を求めているのだ。
「おれは、アルヴィン」
はにかんだ笑顔は、胸がむずむずするほど素敵で。エマは一瞬でこの少年のことが好きになっていた。
嬉しくなって、ぱっと手を握る。
つないだ手は冷たいのに、心はぽかぽかとあたたかい。
――その不思議な感覚は、エマの中の何かを揺り起こした。
大きな力が湧き出たかと思うと、力は止める間もなく瞬く間にエマの中で膨れ上がり――次の瞬間、破裂した。
「えっ」
その声はどちらのものだったのか。
エマの手を伝って、パキパキと音を立てて生じた氷が、アルヴィンめがけて真っすぐにほとばしっていく。
驚きに満ちた青い瞳。
一瞬ののち、彼は全身を分厚く輝く氷に包まれていた。
氷の壁の向こうに見える、驚愕の表情を浮かべたままのアルヴィン。
何が起きたのかわからず、エマは焦って体を引いた。すると、そこだけ氷に包まれずに残ったアルヴィンの指先から、パラパラと氷の破片が落ちる。
エマは悟った。
――これは
悲鳴が、細い喉からほとばしった。
◆ ◆ ◆
「エマ! 大丈夫か! エマ!」
アルヴィンの焦った声が聞こえる。
エマは薄く目を開けて、ゆっくり辺りを見渡した。
ハラハラと雪が舞う部屋の中。エマはアルヴィンの腕に抱かれていた。どうやら、しばらく気を失っていたらしい。
「シロ! エマは大丈夫なのか! 魔力は抑えたと思ったのに……!」
「いえ、大丈夫ですアルヴィンさま。わたくしめも確認しておりましたが、姫さまの生命力は漏れていないはずです!」
「ならなぜ……! おい、大丈夫か!」
なおもアルヴィンが心配そうに呼びかけている。エマは頬に添えられているアルヴィンの手に、ゆっくりと自分の手を這わせた。
「……大丈夫です。わたくし、しばらく夢を見ていたようです」
「夢?」
「ええ、幼い頃の夢を……」
五歳の冬。エマはオルブライト王国に来ていた。そして大雪が降った次の日に、アルヴィンと出会っていたのだ。場所は恐らく王宮だろう。
だが幸か不幸か、アルヴィンと握手した瞬間に力が目覚めてしまう。力はそばにいた彼に真っ先に襲い掛かり、結果氷漬けに。
その衝撃でエマは七日七晩寝込み、起きた頃には全てを忘れていた。アルヴィンのことも、彼を氷漬けにしたことも。
その代わり、残ったのは恐れだけ。初めての友達を氷漬けにしてしまった恐怖だけが、エマの記憶に深く刻まれたのだ。
「あの子は、アルヴィンさまだったのですね……」
彼の指に自分の指を絡めながら、エマがぼんやりと言う。
「あの子? 一体何のことだ? それより手を触って平気なのか……?」
質問には答えず、エマは静かに続けた。
「アルヴィンさまは覚えていませんか? 幼い頃に、わたくしに会ったことを」
「お前に……? そんなことあったか……?」
彼が覚えていなくても無理はない。昔のことで、それに彼は氷漬けにされた張本人だ。エマと同様、記憶が飛んでいても何も不思議ではない。
だがしばらく考えてから、アルヴィンがすっと目を細めた。
「……いや、待てよ。うっすら記憶があるな。ずっと夢かと思っていたんだが、氷の妖精に凍らされたのは夢ではなく現実だったのか……?」
「その妖精の服を覚えていますか?」
「確か……すごく雪が積もっていたのに、薄いワンピース一枚だった。おまけにすごく小さくて裸足で、だから妖精だと思ったんだ」
エマは今度こそ笑った。
「それ、わたくしです」
「お前が?」
驚くアルヴィンの顔に、エマが微笑みながら手を伸ばす。初めて触れる彼の肌はなめらかで、少しひんやりしていた。
「わたくし……どうやら昔あなたに会って、氷漬けにしてしまったみたいなのです。……それが原因で男性恐怖症に」
エマが白状すると、アルヴィンが一瞬目を丸くしてから――にやりと笑った。記憶の中のアルヴィンと、今のアルヴィンの顔が重なる。
「それは……俺にとっては嬉しい誤算だな」
「どうしてですか? 氷漬けにされたのですよ? 怖かったでしょう」
「夢かと思うぐらい、昔のことだ。それよりお前の心の傷の原因が、自分だったことの方が嬉しい」
その言葉にエマは首をかしげた。なぜ彼が喜んでいるのか、さっぱり理解できなかったのだ。
「……なぜ?」
「他の男がお前を傷つけるのは許せない。お前を大事にするのも守るのも――傷つけるのすら、全部俺であって欲しいんだ」
「その発言は、少し怖いです」
エマはむっすりと顔をしかめた。守るのはともかく、傷つけるのはやめてほしい。
エマの反応に、アルヴィンがくつくつ笑う。
「俺は厄介な男だからな。今さら後悔しても遅い」
「しませんよ。後悔なんて。――あなたでよかったと、思っていますから」
言って、ふいと顔を背ける。自分で言っておきながら、途方もなく恥ずかしくなってきてしまった。バクバクと心臓が暴れまわる。
アルヴィンはしばらく無言だった。それに不安を感じてもう一度見上げれば、彼は微笑んでいた。まるでエマのすべてを許し、包み込んでくれているような――そんな錯覚を覚えるほど、優しく穏やかな笑み。
「……男性恐怖症はもう治ったのか?」
「は、はい」
「なら、これも許してくれるか?」
彼の大きな手がエマの顎を優しく持ち上げる。どきんと心臓が跳ねて、けれどエマはそっと目をつむった。
くちびるに触れる、やわらかな感触。
初めての口づけは、ほんのり冷たくて、ほんのり甘かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます