第15話 悪女エマ

 舞踏会の華やかな空気を切り裂くように、エマの高らかな声が響いた。


「ごきげんよう、マスネ子爵夫人」


 老紳士と談笑していた子爵夫人と、二人の娘が何事かと振り返る。


 彼女たちが見たのは、にこやかで完璧な王子スマイルを浮かべたアルヴィンと、その隣に立つエマの姿。


 髪はいつもより高い場所で結われ、凛とした雰囲気の濃紺のドレスは、きつめの化粧と相まってまさに悪女そのもの――と言うのはシロの言葉だ。


 戸惑いながら、夫人が口を開く。


「ごきげんあそばせ。アルヴィン殿下と……あなたは確か、フィッツクラレンス伯爵家のご令嬢だったかしら?」


 その言葉には多少の嘲りが含まれている。娘たちが無言でカーテシーを披露した。


 そんな視線に負けじと、エマが背筋を伸ばして言う。


「はい。わたくしが“氷の悪女”と呼ばれるエマ・フィッツクラレンスです」

「いや、それは付け加えなくてもいい。――失礼。婚約者殿は、まだ社交界には不慣れなようで」


 アルヴィンがさりげなくフォローを入れた。それを見た夫人は怪訝そうに眉をひそめ、扇子で顔を覆う。


「あらまぁ。ではアルヴィン殿下がこの方と婚約なさったという噂は、本当でしたの?」

「ええ。両家の意向で正式な発表の場は設けないつもりですが、婚約は間違いないですよ」


 すぐさまあちこちから、はあぁぁ……と嘆きのため息が聞こえた。どうやら周りの令嬢や母親たちが、しっかり聞き耳を立てていたらしい。


「それはそれは、残念ですわね……。うちの娘たちも悲しみますわ」

「娘さんたちなら心配ご無用ですよ。皆お美しく、妻にと望む声は多いでしょう。……それに、末娘のリュセット嬢は僕たちを祝福してくださっています」


 さりげなくアルヴィンがリュセットの名を潜り込ませる。途端、夫人の眉がピクリと震えた。


「……アルヴィン殿下はうちの末娘のことをご存じですの?」

「ええ。知っているどころか、僕たちは仲良しなんですよ。――お聞きでない?」

「そ、そうだったんですの……」


 アルヴィンが微笑んで見せれば、夫人が動揺を隠すようにぱたぱたと扇子を仰いだ。


「ちなみに、今日は僕たちがリュセット嬢をエスコートする予定だったんです。――それもお聞きでない?」


 やんわりと、アルヴィンがさらなる追撃をかける。ぱたぱたぱたぱた。夫人の扇子は仰ぐというより、震えているに等しい速さで動いていた。


「お、おほほほ。そうだったんですの。嫌だわ、あの子ったら反抗期かしら。最近母親である私にも秘密ごとが増えて……。でも生憎、ちょっとした事故で来られなくなってしまったんですの。本当に残念で――」

「いえ、来ていますよ」


 誤魔化そうとする夫人を勢いよくぶった切ったのは、エマだ。


「え……? だ、だってドレスを……」


 そこまで言って、夫人は慌てて口を押さえる。


 ちょうどそのタイミングで、客人の来場を知らせるラッパが高らかに鳴り響いた。


 夫人も含めたみんなの視線が、一斉にホールの入り口に集まる。係の者がうやうやしく両開きの扉を開けた先には、一人の女性が立っていた。


 柔らかに結い上げられた、淡く輝くシャンパンゴールドの髪。きらきらと光が舞う化粧を施された顔は、卵型で小さく愛らしい。身にまとったドレスはシンプルでありながら上質な光沢を放ち、レースがその繊細な美しさを引き立てている。

 まるで春の妖精のようだ、と呟いたのは誰だったか。


「ほら、来ました」


 その姿を見て、エマが満足そうに言った。一瞬でホール中の視線を集めてしまった女性の正体は、もちろんリュセットだ。


「まあ! 綺麗! あれ、リュセットじゃない?」

「お母さまご覧になって? とても美しいわ」


 興奮したように囁いたのはリュセットの義姉二人。すぐさまマスネ子爵夫人がぴしゃりと叱りつけた。


「何をのんきなことを! あの子に驚いている場合じゃなく自分の心配をしなさい!」


 怒られて二人が肩をすくめる。エマはその様子を興味深そうに見ていた。


(この方たちはリュセットさまを嫌っているわけではないのかしら? おさがりだけど、デビュー用のドレスもくれたし……)


 今も、彼女たちはリュセットの変身を無邪気に喜んでいるように見える。

 答えを求めてアルヴィンを見ると、彼も同じことを思っていたのだろう。驚いた顔でうなずいていた。


 それからアルヴィンが、周りによく聞こえるはっきりとした声で言う。


「だとすると、リュセット嬢を嫌っておられるのはマスネ子爵夫人だけだったんですね?」


 周りの視線が今度はアルヴィンに集まった。マスネ子爵夫人がぎょっとする。


「と、突然何を言い出しますの! 私があの子を嫌っているなんて、冗談が過ぎますわ!」

「そうなのですか?」


 そこへ勢いよく身を乗り出したのはエマだ。


 そのままじっ……と、マスネ子爵夫人を見つめる。


「な、何ですの……!?」

「いえ……改めてマスネ子爵夫人はすごいなと、感動していたのです」

「すごい? 何がですの?」


 話が呑み込めない夫人に、エマはふっと笑みをこぼした。


 途端、辺りの空気が変わった。


 魔法は使っていないはずなのに、ひやりとした風がどこからともなく吹いてくる。人々はその冷たい気配とエマの笑顔に、一瞬でその場に縫い付けられたように動けなくなった。


 隣に立つアルヴィンがごくりと息を呑む中で、エマがゆっくりと言う。


「――わたくし、悪女でございますので」


 言いながら笑みを深めれば、ますます風は強くなる。マスネ子爵夫人と話していた老紳士がぶるりと身を震わせた。


「日々皆さまには勉強させてもらっておりますが、その中でもマスネ子爵夫人の手腕は本当にお見事でした」


 エマが微笑めば微笑むほど、風は冷たくなる。ガタガタと震えている女性もいるのに、それでも立ち去る気はないらしい。今やこの場にいる誰もが、エマに釘付けになっていた。


「嫌っていないにも関わらず、あの所業。なかなかできるものではありませんよ。そう思いませんか、アルヴィンさま?」


 言いながら微笑みかければ、アルヴィンがとびきり甘い顔でエマを見た。


「ああ、まったくだ。よければ皆に教えてあげるといい」


 彼の反応に満足して、エマがまた夫人の方に向き直る。

 人々が恐れるような、それでいてどこか期待するようにごくりと唾を呑む。その瞳は爛々と輝いていた。


 歌っているかの如くなめらかに、エマが言葉を紡ぐ。


「リュセットさまにお食事を与えなかったり、奴隷のような扱いをしたり、まるでお手本のようないじめっぷり。百点満点です。それからなんといってもやはり今日の出来事! 念願の社交界デビューという期待を持たせてから、目の前でドレスを破るなんて……! 極悪非道過ぎて、悪女のわたくしですら思いつきませんでした。本当に真似したいくらいお見事な手腕です。おかげでリュセットさまの心は、ズタズタになっておられましたね」


 その言葉に、辺りがざわめき立つ。焦った夫人が声をあげようとした。


「な――」


 が、エマは反論を許さず強い声音で続ける。


「それと家令の方に聞いたのですが、リュセットさまに優しくした使用人は片っ端から首にしたそうですね? マスネ子爵は家にいませんから、やりたい放題。まさにあなたの天下です。わたくしも悪女として、ぜひとも悪政の敷き方を見習わなければ」

「ちょっと! 一体何を……!」


 はくはくと、夫人が空気を求めるように口を動かす。周囲の人が、困惑をあらわにした目で夫人を見ていた。


「で、でたらめはやめてちょうだい! これは罠ですわ、我が家を貶める罠です! 皆さま信じないで!」


 慌てふためいて否定する夫人に、アルヴィンがさわやかな笑顔で言った。


「でたらめではありませんよ。証人は腐るほどいる。それにそこにいる君たちも、本当は母親が妹をいじめるのを心苦しく見ていたのだろう?」


 アルヴィンが話しかけたのはリュセットの義姉たちだ。話を振られてはっとしたかと思うと、すぐさま二人そろってうなずきだした。その頬は、アルヴィンの色気にやられて桃色に染まっている。


「お前たち! うなずくんじゃありません!」

「だってお母さまはやりすぎよ。私たちは止めていたのに」

「そうよそうよ」

「それはお前たちのためを思って……!」


 そこまで言ってマスネ子爵夫人ははっとした。


 周囲が、水を打ったようにしずまりかえっていた。先ほどまで彼女と話していた老紳士は、まるで悪魔を見るような目で夫人を見ている。


「継子いじめですって、いやあね……」

「怖いな……。そんなことをする人だったとは」


 ひそひそと、どこからともなくささやかれる声に夫人の顔がカッと赤くなった。ここに来て、もはや言い逃れができないことを悟ったらしい。


「……っ! お前たち! 帰るわよ!」


 半ば怒鳴りながら叫ぶと、夫人は急いで身をひるがえした。二人の娘も、戸惑いながら母親の後ろを追っていく。


 そうして残されたのは、まだざわめき残る聴衆とエマたちだけ。

 夫人たちの姿がすっかり見えなくなってから、エマはふぅと息をついた。途端に緊張の糸が切れ、どっと汗が噴き出す。


「大丈夫か?」

「は、はい! ……アルヴィンさま、わたくし、ちゃんと“悪女”でしたでしょうか!?」


 実は、こんなに“悪女らしく”ふるまうのは初めてだった。今さらながら興奮で顔が赤くなってくる。渡されたハンカチで汗をふきふきしていると、アルヴィンがこらえきれないというように噴き出した。


「……っくく。ああ、立派な“悪女”だったぞ。意外とあんな演技もできるんだな」

「はい、わたくし悪女でございますから、心から悪女になりきることも大事でして」

「よくわからないが、必死に頑張っている姿は可愛かったよ」


 そう言うアルヴィンは、まだ笑っていた。エマがむっすりと顔をしかめる。


「いえ、悪女なので、その、可愛さよりも威厳が欲しいのですが……」

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