第25話 アリシア・バシュレの苦悩
「きっと私に、罰が当たったのでしょう」
深い悲しみを孕んだ声だった。
「私は嘘の情報に踊らされて、あなたの名誉をいたずらに汚しました。その罰を下したのが、神ではなくオスカー殿下だったというだけの話です」
そう言いながら、いく筋もの涙がとめどなく彼女のこけた頬を伝う。
『――アリシア嬢が、兄上から婚約を破棄された』
家を出る直前、そう教えてくれたのはアルヴィンだった。
いわく、婚約者である第一王子オスカーは、アリシアがエマを糾弾した件をきっかけに彼女とずっと揉めていたらしい。というよりも、みっともない振る舞いをしたと、オスカーが一方的に怒っていたようだ。
その結果、アリシアは婚約を破棄された。
さらにそれだけでは飽き足らず、オスカーはなんとアリシアの友であり、エマを陥れたマリーと新たに婚約までしたのだ。
それもこれも全て、マリーが実は裏でオスカーにアリシアの悪口を吹き込んでいたからだと言う。
アリシアに対する全ての嫌がらせも、アルヴィンの調査によるとほぼまちがいなくマリーの仕業。
それをエマに擦り付けた上でアリシアに嘘を吹き込み、アリシアにエマを断罪させた。
もちろん、オスカーがそういう
結果、狙い通りオスカーはアリシアに失望し、婚約破棄をしたところをマリーが横からかすめとった。
――それが今回の真相だった。
(だからこの方も……落ち度はあるとは言え、被害者なんだわ)
アリシアは婚約者に捨てられた挙句、友達にも騙されている。彼女のやつれ様から見て、エマよりよほど重傷を負っていた。
流れる涙を拭いもせずアリシアが続ける。
「無様な姿をお見せしてしまい申し訳ありません。巷に流れている噂は全て事実ですわ。私はオスカー殿下に婚約破棄されました。どうぞ、存分に
「あなたを笑ったりなどしません。騙されていただけで、あなたの怒りは正当なものです」
エマが言えば、アリシアがうっすらと笑った。悲しみに包まれた、痛々しい笑顔だ。
「あなたはどこまでも優しいのですね……。怒りに我を忘れて見抜けなかった自分が、本当に愚かですわ」
「アリシアさま……」
これ以上なんと言葉をかけていいかわからなかった。
エマの肩に誰かの手が触れる。見ればアルヴィンが首を横に振っていた。もう、これ以上ここにいてもできることはないのだろう。
エマはうなずき返すと、アルヴィンとともに静かに部屋から出た。扉の向こうではシスネがアリシアの肩を抱いている。
この場でアリシアを心から慰められる者がいるとすれば、それはシスネだけだった。
「……ひとまず断罪回避には成功しましたが、ちっとも心が晴れないです」
帰りの馬車の中、暗い顔でエマは言った。
心配したシマエナガたちが、肩に乗ってすりすりとくちばしをこすりつけてくる。膝の上のシロも、心配そうな顔でこちらを見ていた。
「そうだな。少なくともマリーを野放しにはしておけない。兄上の新しい婚約者だろうが関係ない。俺の掴んだ証拠で、彼女には正しい裁きを受けてもらう」
逃げ切れると思うなよ。そう呟いたアルヴィンの瞳がぎらりと輝いた。
「……でも、マリーさまの悪事が明るみになったとして、アリシアさまのお心は晴れるのでしょうか。オスカーさまと、仲直りできるのでしょうか?」
「それは……」
アルヴィンが言葉に詰まった。それから、何かを探るようにゆっくりと続ける。
「……通常であれば、無理だろうな。一度失った信頼はそう簡単に戻るものではない。……だが気にかかることがあるんだ」
「気にかかること?」
「最近の兄上だ。以前、俺は聞いたことがあっただろう? 『そのリストの中に、兄上の名はあったか?』と」
「そういえば、そんなこともありましたね」
それはエマがアルヴィンに問い詰められて、色々明かした日のことだ。出席者名簿について話した時、確かにアルヴィンから聞かれていた。
「もしかして、オスカーさまに何かが?」
「……兄上は元々気が強く苛烈ではあったが、どんなに厳しくとも情だけは忘れるような人じゃなかった。だが最近は行き過ぎている気がする。冷酷とも呼べるほどだ」
その言葉に、エマが身を乗り出す。
「まさか、鏡の破片が? 以前お話しした出席者リストにオスカーさまの名前はなかったはずですが……」
それを聞いていたシロがピン! と尻尾を伸ばした。それから急いで立ち上がる。
「その件なのですが、実はわたくしめも念のため再度リストを調べたのですよ! その中に“オスカー・ワイズ・オルブライト”殿下のお名前は確かになかったのですが……一人だけ、身元不明の使用人が混じっていたことが判明しましたッ」
「そうなのですか? ……なら、その方が実はオスカーさまだったという可能性は?」
聞きながら、エマはアルヴィンを見る。彼は口に手をあて、じっと考え込んでいた。
「……兄上は、もともと仕事熱心な方だ。偽名と変装で正体を偽り、実態を探りにいくこともある」
エマがごくりと息を呑む。
最後の破片がどこにあるのか、急速に答えが見え始めようとしていた。
「ならばオスカーさまの破片を取り除けば、アリシアさまとの仲が復活できるかもしれないと言うことですね?」
「まだ本当に破片が刺さっていると確定したわけではない。……だが、その可能性はある」
アルヴィンが考え込むように言う。
「最近の兄上は部屋に籠りきりでめったに人前に姿を見せなくなってしまったが、エマを紹介すると言えばきっと喰いついてくるはずだ」
アルヴィンの言葉に、エマが瞳を輝かせた。
(うまくいけば、すべて元通りになるかもしれない。そうすればアリシアさまも、きっと元気になるわ)
オスカーに婚約破棄されて、すっかりやつれてしまったアリシアの姿が焼き付いて離れない。
エマは失恋どころか、恋というものすらよくわかっていないた。
だがアリシアのやつれぶりを目の当たりにして、愛を失うというのがどれほどのことか見せつけられた気がする。
人によっては、失恋が原因で命を絶ってしまうことすらあると言う。それだけ怖く、つらいことなのだろう。
そこまで考えて、エマはちらりとアルヴィンを見た。
(……わたくしたちは婚約者だけど、もしわたくしが婚約を破棄したら、アルヴィンさまはどう思うのかしら……。いいえ、もしわたくしがアルヴィンさまに婚約を破棄されたら……)
エマとアルヴィンの婚約は、お互い利己的な目的のために始まった、いわば契約結婚にも近しいもの。
破棄されたところでデメリットは生じるものの、アリシアのようにひどいダメージを負うことはない。
……そう思っていた。
(でも、本当に? もし婚約を破棄されていたら、わたくしは本当に平気でいられるのかしら……?)
アルヴィンがエマの婚約者ではなくなる。
それは、彼がエマのそばから消えるということ。
ざわ、と心の奥底で、感じたことのない不安が巻き上がる。
(……いいえ、わたくしたちは利点が一致している。だから、婚約破棄なんてされない)
そう思うのに、なぜか心のざわつきは消えなかった。
ぶるぶると首を振り、急いで頭を切り替える。
(それより今はオスカーさまのことよ。彼に埋まっている鏡の破片を取り除けば、事態は全て良い方向に変わるはず……!)
そう心を奮い立たせて、力強く顔を上げる。マリーはアルヴィンが決して逃がさないだろうし、オスカーの破片を取り除けばきっとアリシアと仲直りしてくれるはず。
それらが片付けば、エマの破片探しも、断罪回避も本当の意味で終わりだと言えるのだ。そのために、もう少しだけ頑張ればいい。
だがエマがそう決意した頃、王城では人知れず恐ろしい事態に見舞われていた。
――第一王子であり王太子であるオスカーが、不治の病に倒れたのだ。
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