最終章

第31話 雪の女王の涙

 エマの質問に、アルヴィンが悲しげに笑った。


「そりゃ、助けられるならもちろん助けたい。……だがもう諦めるしかないんだ」


 聞けばこの一週間、アルヴィンはオスカーが助かる術がないか探し回っていたという。

 王宮にいる医師や魔法使いに片っ端から連絡をとり、自ら膨大な図書室の本も読み漁ったのだとか。


 だが誰一人として、オスカーを助けられる者はいなかった。


(……けれど)


 アルヴィンの話を聞いて、エマはぎゅっと口を結んだ。


(わたくしならば)


 心の内で呟いて、静かに顔を上げる。

 心臓がドキドキと鳴った。それは希望と恐れが入り混じった音。


「わたくしなら、オスカーさまを助けられるかもしれません」

「……お前が?」


 アルヴィンの瞳に一瞬光が差し込む。

 だが次の瞬間、それをさえぎるものがいた。


「いけませんよ! 姫さま!」


――シロだ。


 シロは全身の毛を逆立て、いつになく険しい顔でエマを見据えていた。

 そんな姿を初めて見るのだろう。アルヴィンが驚いた顔をする。


「シロ?」

「姫さまが何を言おうとしているのかわかります! でも! それは駄目です! わたくしめが全力でお止めいたします!」


 わけがわからないといった顔で、アルヴィンがエマとシロを交互に見た。

 エマはシロを見つめたまま、ゆっくり言う。


「……これはイルネージュ王国の民にすら知られていないことですが、我が国には“雪の女王の涙”と呼ばれる秘薬があります」

「雪の女王の涙……?」


 それは、雪の女王最大の秘密。


「その秘薬には、万病を治す効果があります。目が見えない者には光をもたらし、足が不自由な者を立たせ――死の床に就こうとしているものには、新たな命を与えると」


 アルヴィンにも隠してきた、エマの秘密。


「……賢者の石のことか?」

「そう呼ばれることもあるようです。ただし不老不死の力はありません。あくまで病を治し、命を長らえるだけ」


 そこで一度言葉を切ると、エマはゆっくりとまばたきした。それからアルヴィンを見据えて、言う。


「それを、わたくしは作れます」


 アルヴィンが息を呑む音がした。


 だが彼はすぐに思い出したようにシロを見る。

 オコジョは相変わらず目を三角に吊り上げ、威嚇するように両手をハの字に突き出していた。


 ヂヂヂ! と聞いたことない激しい声でシロが鳴く。


「確かに、“涙”は作れます。――ですが!」


 シロが叫ぶ。


「姫さまはまだ雪の女王としては未熟! ファスキナーティオさまにも、涙の製造は固く禁じられているのをお忘れですか!?」


 それは事実だった。

 エマが目をつむる。


――雪の女王は、生涯に一人しか子供を産まない。


 女王の後継ぎとなるべく生まれる子は必ず女児であり、その身には半神半人とも言われる尋常ではない生命力を宿している。

 そのため病気にかかることはなく、また寿命も、全盛期の姿を保っていられる期間も異常に長い。


 そしてその生命力を、“涙”に変えることで他の人にも分け与えられる――それが雪の女王の最も大事で、最も知られてはいけない秘密だった。


 シロが厳しい顔で続ける。


「前に“涙”を作ろうとしてどうなったか、姫さまも覚えておられるでしょう!?」


 エマは顔を逸らした。


 以前、母が見守る中、エマは“雪の女王”としての資格を得るため、涙を作ろうとしたことがあった。


 だが魔力の制御がうまくいかず、大量の生命力をいたずらに放出させてしまったのだ。

 それ以来エマは病気になることこそないが、寒さにめっきり弱くなってしまった。


(――けれど)


 エマは負けじと、シロを見返す。


「お母さまに禁止されているのは事実です。でも、あれからもう一年は経っているわ。わたくしだってその間何もしなかったわけではありません。修行を重ねた今ならきっと……!」

「なりません!」


 ぴしゃりとシロが言葉を叩きつけた。


「姫さまが努力家なのはよく理解しています。ですが、そもそも姫さまの魔力は歴代女王の中でも格別。その分何かあった時の反動も大きく、だからこそ禁止されているのですよ。……どうかわかってください、姫さま」


 懇願するようにシロが手を合わせた。エマがぐっと唇を噛む。


 そこへ、アルヴィンが控えめに口を開く。


「――ならばエマの母親、現雪の女王に頼むことはできないのか? オルブライト王国の王太子を助けることは、王国に大きな恩を売ることになる。政治的な路線で話を進めることは?」


 その提案に、エマは力なく首を振る。


「残念ながら、母にとっては意味を成さないでしょう。昔、どこからか嗅ぎ付けた他の王族に同じことを頼まれたことがあるそうです。ですが『そんなものはない』と言い捨てて、相手にもしなかったそうです」


 女王としての母は容赦なく、また徹底的に利己的だ。母にとって利がないなら、夫の故郷であっても容赦なく見捨てるだろう。


 やはり、エマがやるしかないのだ。


(シロが駄目だと言うのなら……)


 エマが、すがるようにアルヴィンを見る。


「アルヴィンさま。オスカーさまを助けるためには、わたくしの“涙”しかないのです。アルヴィンさまも、そう思いませんか」


 彼なら、エマを助けてくれるのではないだろうか。

 彼なら、シロを説得するのに協力してくれるのではないだろうか。

――彼なら、エマの気持ちを分かってくれるのではないだろうか。


 けれどエマの淡い期待に反して、アルヴィンはゆっくりと首を横に振った。


「……駄目だ。お前を危険にさらすわけにはいかない」


「どうしてっ……!」


 叫びそうになって、エマは唇を噛んだ。


――わかっているのだ。アルヴィンもシロも、意地悪をしたくて言っているわけではない。純粋にエマのことを案じてくれているのだと。


だが。


「……わたくしがやらねば、オスカーさまも……いいえ、アリシアさまも、お二人の命が失われることになるのに……!」


 アリシアの愛は眩いほどに美しく、同時に恐ろしいほど危うい。

 このままオスカーを亡くせば、恐らく遠くない未来に、アリシアもそちらに行ってしまうのだろうとわかるくらいに。


(アルヴィンさまなら、わかってくれると思ったのに……!)


 泣きそうになるのをこらえていると、アルヴィンがぽつりと漏らした。


「兄を見捨てる薄情な男だと罵ってくれていい。……だが、俺はお前を失う方が怖いんだ」


 つい、と長い指がエマの頬に触れる。


 釣られるように見上げた先で、アルヴィンが苦しげにこちらを見ていた。

 切なく揺れる青い瞳には、はっきりと訴えかけている。お前エマが大事なんだと。


 その瞳に、エマはぎゅっと掴まれたような痛みを胸に感じた。


 今まで、アルヴィンは幾度となく笑いかけてきてくれた。

 いたずらを企むような笑み、少し意地の悪い笑み、それから――エマのことを心底大事に思っている、優しい笑み。


 こんな切羽詰まった顔の彼を見るのは初めてだった。


(――そうだ、この人はずっと、わたくしのことを大事にしてくれた)


 エマは思い出す。

 婚約の時、半ば罠にはめるような方法で迫られて、なんという人だろうと顔をしかめたこともある。


 だがそれ以降、アルヴィンはずっとエマを支えてくれたのだ。

 男性恐怖症であるエマのために気遣い、走り、時には裏で手を回してくれたことも。


 そうして気が付けば、アルヴィンはエマの心の一番深いところに入り込んでいた。彼だけは、エマのことをわかってくれると思うほどに。


(ならば、わたくしがやらなければいけないことは……泣くことではない)


 目頭にぐっと力を入れて、涙をこらえる。


 エマは顔を上げると正面からアルヴィンを見た。背筋を伸ばし、決意を込めて口を開く。


「アルヴィンさま。それからシロ。二人がわたくしのことを心配してくれているのはよくわかりました。ですがオスカーさまを見捨てろという話は、聞けません」


 すぐさま二人が何か言いかける。エマはそれを手で制した。


「……制御しきれないほどの、膨大な魔力。それは事実です。ですが遅かれ早かれ、わたくしはいつかそれを“雪の女王”として制さなければいけません。――ならば、今こそその時なのではありませんか」


 ゆらりと、エマの中で炎が燃え立つ。青くて冷たい、氷の炎だ。


「わたくしは制してみます。わたくしの魔力と、オスカーさまたちの運命を。……定められた命を捻じ曲げる。それはなんと傲慢なのでしょう。でも構いません。――だってわたくし、悪女でございますから」


 そう言ってエマは微笑んだ。


(死神から全てを守ることは無理でも、目の前にある命を理不尽に刈り取らせはしない。わたくしには、その力があるのだから)


 譲る気のないエマに、アルヴィンがふぅとため息をついた。

 非難されるのを覚悟して肩をすくめそうになるが、すぐに挑むように睨み返す。


「は、反対されたとしても、やります! わたくしは悪女なので、二人の話だって聞きませんから……!」

「わかった、そこまで言うならやろう」

「え……?」


 あっさりと認めたアルヴィンに、今度はエマが面食らう番だった。


 まったく、とぼやきながら彼が続ける。


「お前を無理矢理抑えることも、やろうと思えばできる。……だが、それだとお前は一生後悔するのだろう。救える二人を救えなかったと」


 そばで話を聞いていたシロが、ぎゅっと手を握ってうつむく。


「俺のお姫さまに、後悔を抱えたまま人生を送らせるわけにいかないからな。それに、どのみちいつかはその涙とやらを作らないといけないのだろう?」


 アルヴィンの言葉に、エマはうなずいた。


 “雪の女王の涙”を作ることは、女王就任のためには欠かせない必須条件。避けては通れない道なのだ。


「ならば、資格を得るために“涙”を作って、兄上の病気も治せば一石二鳥だよな?」


 そこまでいたずらっぽく言ってから、アルヴィンは真剣な表情になった。


「――その代わり、ひとつだけ約束してくれ」

「約束?」

「今後、もう二度と“雪の女王の涙”は作るな。誰が死にかけていようとも、決して作らないでくれ。それが約束できるなら俺は賛成する」


 アルヴィンの言葉に、エマが一瞬たじろぐ。


「誰でも……? それは、リュセットさまやシスネさまたちが死にかけていてもということですか?」

「そうだ」

「では、お母さまやシロや……あなたが死にかけていても?」


 エマが切羽詰まった顔で聞けば、アルヴィンがふっと笑った。


「例え俺が死にかけていても、だ」


 すぐには答えられず、エマが黙り込む。

 そんなエマに、アルヴィンが言った。


「――お前の使命が女王として民を守ることならば、俺の役割はそんなお前を守ることだ」


 青い瞳が、泣きたくなるほど優しく、切ない光を湛えている。


「“雪の女王の涙”は、作れば作るほどお前の命を削るのだろう? お前はお人よしだからな。俺が厳しく管理しておかないと、乱発してあっという間に干からびるぞ」

「そ、そんなことは……」

「そうですよ姫さま! アルヴィン殿下の言う通りですッ! わたくしめも、アルヴィン殿下に賛成です!」


 勢いを取り戻したシロが拳を振り回す。どうやらシロは、アルヴィンの案に乗ることにしたらしい。


 エマはしばし考えてから、観念したように言った。


「――わかりました。今後、涙は作りません。これが最初で最後です」


 自分でもわかっている。

 制限がなかったら、きっとエマは彼の言う通り乱発してしまうだろう。それを見越して、アルヴィンが先回りしてエマを守ってくれているのだ。


 エマの返事に、アルヴィンが「よし」とうなずく。


「それなら、包み隠さず教えろ」

「教える? 何をですか?」

「雪の女王の秘密、涙の全てをだ。作る時、生命力とやらはどう漏れる? 魔力とやらはどう暴発する? 考えられる限りのことを全て俺に話せ」


――その代わり、俺が、お前を守ってみせるから。


 強く輝く瞳がそう言った気がして、エマは一瞬泣きそうになった。それをぐっとこらえてうなずく。


「はい。全てを……あなたに教えます」

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