第30話 オスカーとアルヴィンの思い出 ★

「困りました。泣くのは久しぶりすぎて、涙が止まりません」


 アルヴィンの目の前で、エマがはらはらと涙をこぼしながら言った。

 そんなエマの頬に、アルヴィンが優しくハンカチを押し当てる。


――ここは、王宮にあるアルヴィンの部屋だ。


 泣いているエマをそのまま返すためにはいかないため、急遽自室に招き入れたのだ。


「気にしなくていい。泣きたい時に泣けばいいんだ。……それにお前が泣いてくれると、俺も救われる気がする」

「アルヴィンさまが救われる? なぜ?」


 エマが不思議そうに尋ねた。

 二人の足元では、白く丸いおててで目元を押さえたシロがぼろぼろと涙をこぼしている。


「すっすみませんッ! わたくしめとしたことが! お慰めしなければいけないというのに、涙腺のコントロールができなくッ!」


 ふわふわの毛並みが、今は涙でぐっしょりと濡れていた。

 シマエナガたちも、言葉もなくピィピィと泣いている。そんな彼らを、アルヴィンが順番に撫でていく。


 アルヴィンはしばらく考え、それからゆっくりと口を開いた。


「――十歳の時、唯一俺に優しかった乳母が他界したんだ」





 例年よりも冬の訪れが早い、冷たい風の吹く年だった。


 風邪をこじらせた乳母がそのまま儚く亡くなり、アルヴィンは絶望の淵にいた。

 あまりの喪失感に泣くこともできず、ぼーっと虚空を見つめていると、そこへ一人の人物がやってくる。


 アルヴィンの継母である、王妃だ。


 数か月ぶりに顔を見たその人はアルヴィンを慰めるでもなく、ただ一緒に連れてきた従者に早口で指示を出すだけ。


 彼女が何をしようとしているのか気づいたときには、部屋の家具はほとんど外へと運び出された後だった。


 いつも絵本を読んでくれていた長椅子も、毎日二人でご飯を食べた机も、全てが跡形もなく運び出されている。


 それだけでは飽き足らず、王妃はさらにアルヴィンに言った。


「お前は今日から離宮で暮らしなさい。あの口うるさい乳母もいなくなったし、もうここに残っている理由もないでしょう」

「っ……!」


 アルヴィンはとっさに顔を上げた。


 この部屋には、唯一アルヴィンに優しくしてくれ、かばってくれた乳母との思い出が詰まっている。それを突然捨てろだなんて、あまりにもひどいと思ったのだ。


「それとも、何か言いたいことがおあり?」


 だが王妃に睨まれると、途端に何も言えなくなる。

 王妃の視線は鋭く冷たく、その瞳には『命があるだけましだと思ってちょうだい』とありありと書かれていた。


「……いいえ」


 後ろ盾を持たないアルヴィンが、逆らえるわけもない。


 諦めてうなだれたその時だった。


「母上、何をしているのです?」


 力強い足音とともに、堂々とした立ち振る舞いで現れたのはオスカーだ。


 当時彼は十四歳。だが既に王族たる貫禄が備わっており、それは実の母ですら黙らせるほど。


 たちまち王妃の表情がやわらかくなり、彼女は言い訳がましく言った。


「違うのよ、オスカー。その……アルヴィンは体が弱いでしょう? だから離宮のように静かなところで養生するのがいいと思うのよ」

「離宮に? ご冗談を。あそこは静かだが、日当たりが悪くかび臭い。そもそも罪人を幽閉するための塔なんだ。……母上、あなたはアルヴィンを追い出そうとしていませんか?」


 追及するオスカーに、王妃の顔がこわばる。


「な、何を言うの……」


 そんな王妃には構わず、オスカーはアルヴィンの方へと向き直った。


「アルヴィン」

「……はい」


 挫折を知らない、強い力を宿らせた瞳がまっすぐアルヴィンを見る。


「お前は、離宮に行きたいのか」


 正面から見つめられ、アルヴィンは目をそらした。隣では、王妃が険しい目でアルヴィンをにらんでいる。


「……はい。王妃さまが、望んでいるので」

「母上の意見を聞いているのではない。お前はどうしたいんだ」


 容赦ない追及に、アルヴィンが顔を伏せる。


「ぼくは……」


 言葉が、詰まる。


――本当は、ここから離れたくなどない。


 誰もかれもがアルヴィンに冷たい王宮の中で、ばあやだけはいつどんな時でもアルヴィンに優しかった。


 残飯のようなみじめったらしい食事しか支給されなくても、ばあやがこっそりと育てた野菜でスープを作ってくれた。多少見た目は悪いが、具沢山であたたかい、おいしいスープだ。


 風呂のための湯が用意されなくても、ばあやがやかんでお湯をわかしてくれた。たらいが小さくて、寒い寒いと文句を言うアルヴィンの体を、ばあやが笑いながら洗ってくれたのだ。


 放っておかれたアルヴィンに、文字やいろんなことを教えてくれたのもばあやだった。

 踊り子であった頃の母がどんなに美しく輝いていたかを、アルヴィンはばあやから何度も聞いたものだ。


 そして母が好きだった花を、毎年一緒に育てて母に手向ける。


 ここには、そんなばあやとの思い出が詰まっていた。

 世界でここだけが、アルヴィンの安らげる場だった。


 今はもういない、ばあやとの思い出が胸をふさぐ。

 言葉よりも先に涙があふれた。


「ぼ、ぼくは……ここに、いたい、です。ここにはばあやが育てていた野菜が……あります。り、りんごの木も……すっぱいけど、一緒に食べるって約束を……」


 ぼろぼろと、涙がこぼれおちる。

 目の前に立つオスカーは、それをじっと見つめていた。


「だから……ぼくはここにいたい……。もうぼくしか、ばあやのお花に水をあげられないから……」

「……わかった」


 オスカーがゆっくりとうなずく。


 その表情は厳しく、アルヴィンは一瞬やっぱり追い出されるのだろうと思った。

 だが彼が次に言ったのは、正反対の言葉。


「母上、アルヴィンはこのままここに住まわせる」

「何を言うのです!? 彼は――」


 反論しようとする王妃に、オスカーは上から言葉をかぶせた。


「アルヴィンは私の弟だ」


 それから有無を言わさぬ強い口調で言う。


「たとえ半分しか血がつながっていなくても、父上の子です。あなたにアルヴィンを追い出す権利はない。今まで黙ってきましたが、さすがにやりすぎだ。父上はアルヴィンの現状を知らないのでしょう?」


 国王の名を出した途端、王妃の顔がひるむ。それからくっと顔を歪めたかと思うと、大きなため息をついた。


「……まさかあなたがこの子をかばうとはね。いいでしょう。どうせいてもいなくても変わらない存在。追い出したとなれば外聞も悪いでしょうし、ここに捨て置いても同じことだわ」

「それから彼に適切な生活環境を。……王の子が餓死したなんて醜聞、国を揺るがしかねませんからね」


 オスカーの指摘に、王妃が悔しそうに顔を歪めた。愛する我が子に、牙をむかれるとは思っていなかったのだろう。


「……わかったわよ。お前たち! さっさともう一度家具を運び入れなさい!」


 使用人たちに八つ当たりをすると、王妃は肩を怒らせて部屋を出て行った。


 残されたのは、オスカーとアルヴィンの二人。アルヴィンはおずおずと進み出た。


「あの……ありがとうございます。……オスカーさま」

「オスカーさまとはなんだ。兄上と呼べ。私はお前の兄だ」


 ぎろりと睨まれて、アルヴィンが身を縮こまらせる。


「あ、兄上」

「それでいい。……それからアルヴィン」


 ずいっとオスカーが一歩アルヴィンに詰め寄った。怒られる、と思ったアルヴィンがとっさに肩をすくめる。


 だが、降ってきたのは思いのほか優しい声だった。


「私は王太子ゆえ、これ以上お前に構うのは難しいだろう。だが、一人でも強く生きろ。いつかやりたいことが見つかった時、自分で掴めるような、そんな男になれ」


 アルヴィンは息を呑んだ。言い方はぶっきらぼうだが、オスカーは励ましてくれているのだ。


「それからお前、特別な目を持っているらしいな。これ以降は人に話すな。隠せ」

「えっ……」

「黙って言うことを聞け。大きくなればわかるが、それはいつかお前の武器になる。わかったか?」

「は、はい」


 返事をすると、オスカーは満足そうにうなずいた。

 その態度はすごく偉そうであったが、同時に彼なりの不器用な優しさも覗いている。


 アルヴィンはそんな兄を、まぶしそうに見つめていた。





(――それから俺は、兄上の言う通り目のことは隠すようにしたんだ)


 言葉には出さず、ゆっくりと心のうちで呟く。

 目の前ではエマがじっとアルヴィンの言葉に耳を傾けていた。


「……兄上は激しい方だが、いつも堂々として公平な人だった」


 アルヴィンは言った。


「陛下も王妃も俺のことをいない者のように扱うし、弟も悪気なく両親を真似している。だが兄上だけは……とても厳しかったが、俺の母親を気にせず接してくれた。俺が『兄上』と呼ぶことを、唯一許してくれた人だった」


 それから、アルヴィンはふっと目を細める。


 大きなアイスブルーの瞳が、まっすぐアルヴィンを見た。それまで黙っていたエマが、ゆっくりと口を開いた。


「……アルヴィンさまは、オスカーさまに助かって欲しいのですね?」

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