第29話 比翼の鳥
「食べたくないと、言っているだろう!」
オスカーの部屋に踏み入った瞬間、怒号が耳を打った。続いて、ガチャンと皿がひっくりかえる音。
「殿下、落ち着いてくださいませ」
そう静かに言ったのは、いつもの絢爛豪華なドレスではなく、メイドとも思える質素な服を着たアリシアだ。
先に入ったアルヴィンが、片手でかばうようにエマを制した。その顔には驚きの表情が浮かんでいる。
無理もない。
ついこの間まで
その上暴れまわったらしく、ベッドテーブルに載せられていた料理はどれも叩き落とされいる。
女官たちが慌てて片づけをする横で、アリシアがそっと手に持っていたグラスを差し出した。
「体がおつらいのはわかりますが、食べなければさらに悪化してしまいますわ。せめて、お水だけでも……」
「いらぬ!」
オスカーが大きく手を振り払う。アリシアの持っていたグラスがはじかれ、水がバシャッと彼女の顔に直撃する。
ぽたぽたと顔からしずくをたらしながら、アリシアが疲れた顔でため息をついた。女官たちが慌ててタオルを持ってくる。
(あれがオスカーさま? なんという……)
エマは絶句した。
オスカーの目は狂人のごとくギラギラと血走り、どう見てもまともに話ができる状況ではない。
足元では、オコジョ姿のシロがシマエナガたちを抱えてぷるぷると震えていた。エマはシロたちをそっと手で押しやり、自分の後ろに隠してやる。
不安になってアルヴィンを見ると、彼も苦い顔をしていた。しかし今更すごすごと退散するわけにもいかないのだろう。
声掛けをためらっているうちに、息を切らせたオスカーの瞳がギラリとエマたちを捉えた。
「アルヴィンか……何の用だ。私の無様な姿を笑いに来たのか!? 知っているんだぞ、父上はお前を次の王太子に指名したらしいな!」
憎悪と嫉妬。その二つの感情が、立ちのぼる煙のようにオスカーを取り巻いている。アルヴィンが痛ましさに目を細めた。
「王太子の件は、断るつもりです。……それに、王位継承権そのものを放棄しようと思っています」
“王位継承権の放棄”。王太子の辞退よりさらに重い言葉に、その場にいる皆がはっとする。オスカーも勢いを削がれたようだった。
「ほう……? その言葉、嘘ではないだろうな」
「嘘をついてどうするのです。兄上もご存じでしょう。私はエマの婚約者だ」
だが婚約者という言葉に込めた意味を、オスカーは違う意味で解釈したらしい。一度は収まりかけていた嫉妬の炎が、再び瞳に揺らめく。
「そうだった、それがあったな! 祖国より雪の女王か! さぞかしい楽しいだろうな!? 母上に虐げられたお前が、選ぶ側に回った気分はどうだ!?」
罵声とも言える言葉に、エマのみならずアルヴィンも顔をしかめた。今の彼には何を言っても逆効果だと、アルヴィンも悟ったのだろう。
「……今のままじゃ
言うなり、アルヴィンはベッドに向かってつかつかと歩き出す。それからオスカーを、敷き詰められたクッションに突き飛ばす。
「っ! 何をするっ!」
「誰か兄上を抑えるのを手伝ってくれ。大事なことなんだ」
言いながら、アルヴィンがオスカーの右腕を抑え込んだ。女官たちがおろおろと顔を見合わせる中、すっくと立ち上がった女性がいた。アリシアだ。
「……手伝いますわ」
「アルヴィン! アリシア! お前たち、一体何のつもりだ!」
オスカーが激高する。それには構わず、アルヴィンがエマを見て言った。
「エマ、兄上に破片は刺さっているか」
エマは急いでオスカーに駆け寄った。それから、じっと瞳を見つめる。
アルヴィンとよく似た青い瞳は、ひりつくほどの怒りと狂気を放っていた。正面から射貫いてくる視線の強さに一瞬たじろぎそうになったが、エマも負けじと踏ん張る。
「これは一体何なのだ! おい! 誰かこいつらを剥がせ!」
(きっと……あるはずよ……この人の中に、最後の破片が……!)
それは祈りにも似た願いだった。あるかないかではなく、あって欲しい。
――そんなエマの願いが聞き入れられたかのように、オスカーの瞳に一瞬だけ斜がかかった。
「姫さま!」
かたわらで見ていたシロが叫ぶ。エマはうなずくと、オスカーに手を差し出した。
たちまち粉雪が、どこからともなく渦を描きだす。そのままフゥッと息を吹きかけると、宙に舞った粉雪はまっすぐオスカーめがけて飛んで行った。
「なっ! 何だこれは! 一体何を……!」
しかし、オスカーの言葉は最後まで続かなかった。粉雪が彼の頭の周りを舞ったと思った瞬間、ふっつりと意識を失ったのだ。
「殿下!?」
アリシアが悲鳴を上げ、オスカーに飛びつく。その前をきらきらとした破片が宙を舞い、粉雪とともにゆっくりとエマの手に収まった。
間違いない。砕けた鏡の、最後の一枚だ。
(これで全部見つかった)
エマがほっと息をつくのと同時に、アルヴィンも安堵したように抑えていた手を放す。
「エマさま、これは一体!? 殿下に何をしたのです!?」
狼狽したアリシアがすがりついてきて、エマは急いで説明した。
「大丈夫です。今、オスカーさまは気絶しているだけ。すぐに目覚めます」
その言葉に、アリシアはほっとしたらしい。エマを掴む手が緩む。
――そんな彼女を、エマは感嘆の思いで見つめていた。
鏡の破片が刺さっていたせいで、この数か月のオスカーは最悪だったはずだ。
事実、アリシアは手ひどい裏切りを受けて婚約破棄され、先ほども看病しているにも関わらずあの仕打ち。
家族ですら見放してもおかしくない状況だと言うのに、彼女は今もオスカーのことを心の底から心配しているのだ。
「う……ん……。……アリシア……?」
そうしているうちに、オスカーがゆっくりと目を開けた。すぐさまアリシアが駆け寄る。
「殿下!」
皆が見守る中、オスカーがゆっくりと体を起こした。その顔は相変わらずげっそりとしているが、瞳から先ほどの狂気じみた光は消えている。
「私は一体、どうしたんだ……。なんだか悪い夢を見ていた気がする……」
「殿下、大丈夫ですか!? ご気分は!? お体は!?」
「体は相変わらずだが、気分はとても穏やかだ。ついさっきまで、怒りや悲しみではち切れそうなほどだったのに……。一体、何があったんだ?」
オスカーが額に手を当てながら、まっすぐこちらを見る。エマはぎゅっと手を握ると、一歩前に踏み出た。
「……わたくしの、魔法の鏡のせいです。オスカーさまもアリシアさまも、迷惑をかけてしまって本当にごめんなさい」
言って、エマは深く頭を下げた。
魔法の鏡が割れたのは事故であり、誰かが悪いせいではない。
だがエマが魔法の鏡を持ってこなければ、そもそも事故は起きなかったのだ。一時とは言え、アリシアとオスカーを引き裂いたのには鏡が大きく関わっている。
魔法の鏡を所持する者として、エマは心から謝った。
オスカーが、別人のように穏やかな瞳で口を開く。
「……気にしなくていい。もう済んだことだ」
それから、うっと口元を抑える。
アリシアがすぐさま洗面桶を差し出すと、オスカーはそこへ胃液を嘔吐した。
ハンカチで口元を拭ってもらいながら、彼は力なく笑う。
「きっと、その鏡とやらも含めて罰が当たったのだろう。私は……とても傲慢だったから」
アリシアと同じ言葉を言う横顔はさみしげで、風が吹けばすぐにでも消えてしまいそうだった。
アリシアが慌てて、彼がどこへも飛んでいかないよう強く手を握る。
「そんなことはありませんわ! 殿下はいつも務めを果たそうとご立派でした! 王太子として厳しい判断を下されることもありましたが、それも全て民のためだと私は知っています。あなたは決して傲慢などではありません……!」
「アリシア……」
すっかり細くなってしまったオスカーの手が、アリシアの頬を撫でる。
「君にもずいぶんつらい思いをさせてしまったね……。それでも私を見捨てないでいてくれて、心より嬉しく思う」
「殿下……!」
けれど次の瞬間、オスカーは痛みをこらえるような、突き放すような口調で言った。
「……だが、今後は私のためではなく、自分のために生きろ。見ての通り、私は持って一ヶ月だと言われている。君はまだ若い、新しい人生を始めるんだ」
「そんなの、嫌ですわ!」
アリシアは叫んだ。
心からの叫びだった。
「私はあなたのために生きているのです! 幼い頃の誓いを忘れたのですか? 王など関係ありません! 私たちは
「わかってくれアリシア。私はもう君には何もしてあげられない。命が燃え尽きるのを、待つことしかできないんだ」
「それでも嫌です!」
ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、アリシアはまっすぐオスカーを見る。
「あなたの命が尽きる時は、すなわち私の命も尽きる時! はじめからあなたなしの世界で生きていくつもりなどありません! オスカーさま、どうかお願いです。あなたがこの世を去ると言うのなら、私もお供させてください……。暗く寂しい道を、決して一人では歩かせませんわ……!」
わっと、アリシアがオスカーにすがりついて泣いた。その頭を優しくなでながら、オスカーが悲しそうな、それでいてどこか嬉しそうな顔をする。
「……私はなんて情けない男なのだろうな。愛する女性を突き放さなければいけないのに、ともについてきてくれるという君の言葉を、とても嬉しく思っているんだ」
オスカーの目も、涙で濡れていた。彼のやせ細ってしまった手に、アリシアが愛おしそうに頬をこすりつける。
「それでいいのです。あなたは私の命。何があっても、私はオスカーさまを一人にはいたしませんわ……」
「アリシア……」
甘えるように、オスカーがかすれた声でアリシアに乞う。
「アリシア、歌を歌ってくれないか。久しぶりに君の歌声が聞きたい」
「まあ……。こんな時に、何をおっしゃるのです」
「頼むよ、アリシア。私に、最後の思い出を」
「……わかりましたわ。それがオスカーさまの頼みなら」
微笑んでから、アリシアがゆっくりと口を開いた。
それは、心洗われる美しい歌だった。愛しい人とともに、夜空の月を見上げる穏やかな歌。
アリシアの透き通る声が、きらきらと光る音の粒を刻む。悲しくも甘い旋律は、その場にいる者たちの心に強く、優しく語り掛けてくる。
オスカーが愛しい、と。
切ない声に誘われるように、エマの目から涙が落ちた。
(……わたくし、泣いているの?)
驚いて顔を上げると、アルヴィンが静かにこちらを見つめていた。長い指が、そっと涙をすくいとっていく。
見渡せば、エマだけではない。女官たちも皆、目元を抑えてすすり泣いていた。
――愛する人のためなら、自分の命も惜しくない。
アリシアの強い気持ちに胸を打たれ、その場にいる誰もが嗚咽を抑えられなかったのだ。エマの頬を、はらはらと涙が伝う。
(なんて激しく……美しいのでしょう)
母が注いでくれた優しくあたたかな愛とは違う、命を燃やすほどの激しい愛。初めて見る愛の形は、エマの心を深く揺さぶった。
横になって目をつぶっていたオスカーが微笑む。
「……月が綺麗だね」
アリシアが嬉しそうにうなずく。
それはささやかな、けれど心に染み入るような、美しい光景。
言葉もなく見つめていると、アルヴィンがそっと囁いた。
「……行こう、今は、二人きりにしてあげよう」
うなずいて部屋を出る直前、エマはもう一度部屋の中を見た。
遠い東の国に伝わる、“比翼の鳥”。どんなに遠くにいても固く心が結ばれた伝説の鳥のように、アリシアとオスカーは静かに寄り添っていた。
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