第36話 アリシアの友
「……あら、ずいぶん遅かったんですね」
王宮の一室。ソファに腰かけていた令嬢が、エマたちを見ておっとりと言った。
座っていたのはマリー・カレンベルク伯爵令嬢。エマとアリシア、二人を陥れようとした事件の黒幕だ。
彼女は今、王宮の特別室に軟禁されていた。理由はもちろんマリーの犯した罪について。
だがことの重大さがわかっているのかいないのか、本人はのんびりと紅茶を楽しんでいる。
ストームグレイの少しくすんだ灰色の瞳は穏やかで、これから断罪されようとしている人の目には見えない。
当事者の一人としてついてきたアリシアが、一瞬ひるんだように立ち止まる。だがすぐに背筋を伸ばして、かつかつと歩み寄った。
「マリー。本当に……あなたがやったんですのね。私のネックレスを壊したのも、私に嫌がらせしたのも、全部あなたが」
アリシアの追及に、マリーがわざとらしくため息をついた。どこかめんどくさがるような態度に、アリシアが声を荒げる。
「答えなさい! マリー・カレンベルク! なぜこんなことをしたの! 私はあなたを一番のお友達だと思っていたのに……!」
「そう声を荒げないで。すぐに熱くなるのはあなたの欠点だわ」
「なっ……!」
「答えは簡単よ。魔が差しただけ」
さもつまらなさそうにマリーが言った。その視線は、けだるげに部屋の窓に向けられている。
「お金がなかったの。持参金は使い果たしてしまったし、当てにしていた婚約者からは婚約破棄されてしまった。そんな時に
酷薄な灰色の目がアリシアをとらえる。くっとアリシアが呻いた。
「マリー、あなた何を言っているの……? そんなことで彼女まで巻き込むなんて、正気じゃないわ……」
「ええ、そうね。わたくしは病気よ」
マリーの声が低くなった。
何の感情も読み取れない無表情で、マリーが他人事のように淡々と続ける。
「自分でもわかっているのよ。こんなの普通じゃないって。……でも、気持ちが抑えられないの。アリシアさまの着ている赤いドレスが欲しい。アリシアさまの履いている赤い靴が欲しい。アリシアさまのような生活を送りたい。……わたくしが、アリシアさまになりたいって」
そう言ったマリーの瞳は、ぞっとするほど暗かった。気圧されたアリシアが一歩後ろに下がる。マリーが微笑んだ。
「本音を言うと、見つけてくれて少しだけほっとしているのよ。話がどんどん大きくなってしまって、もう後戻りできなくなってしまったから。思っていたよりずっと、毎日がつらかったわ。……本当よ」
そう言ってうつむいたマリーの表情は見えない。
もしかしたら、初めは些細な嘘だったのかもしれない。けれど小さな嘘は雪玉のように転がりどんどん膨れてしまった。取り返しがつかないところまで。
しばらくしてマリーは思い直したように立ち上がり、ゆっくりと窓の方に向かって歩き出した。それから大きく窓を開け放ち、遠くを仰ぎ見る。
「アリシアさま。あなたは最後までお友達として信じてくれていたのに……ごめんなさいね」
薄く微笑んだ次の瞬間、マリーのは窓の縁に足をかけた。何をしようとしているのか悟って、アルヴィンが叫ぶ。
「止めろ!」
すぐさま部屋の隅に立つ騎士たちが走り出す。ここは三階、落ちればただではすまない。だが騎士たちとマリーの間は少し距離が空いていた。
そうしている間に騎士が伸ばした手が空振り――マリーの体が窓から消えた。
「マリー!」
アリシアが叫びをあげた。
その横を、エマが猛然と走り抜ける。
「死なせませんよ! シロ!」
エマが素早く放った一筋の雪は、風よりも早くマリーを追いかけていく。
一拍子遅れてエマが窓から身を乗り出せば、そこには地面に倒れたマリー、ではなく、巨大なオコジョに、服を咥えられてぶらんぶらんしているマリーがいた。
『はぁい、わたくしめがキャッチしましたよ~!』
マリーを咥えたまま、塔一つ分ほどの大きさになったシロがふがふがと言う。隣で豆粒のように見えるシマエナガたちもチルチルとさえずった。
『シロ! 早くしないとドレスがやぶれちゃうの!』
『ねえ見て! この人すごい顔してる!』
『シロのこと見えてないもんね~ぷぷぷ~』
外にいる、事情を知らない人たちが悲鳴を上げる。
「なんだなんだ!? 令嬢が浮かんでいるぞ!」
「おい! 誰か助けられないのか!? 魔法使いを呼んで来い!」
精霊の姿に戻っているシロは、他の人には見えないのだ。――エマとアルヴィンを除いては。
満足そうな顔をしているエマの横で、アルヴィンが感心したように呟いた。
「すごいな。あれもシロの能力か」
「はい。巨大化はわたくしが少し力を貸したのですけれど、オコジョは力持ちな上にすばやいですから」
目の前では、シロが大きなふもふの手で、窓からマリーの体をねじ込ませている。どさりと部屋に落とされたマリーは呆然としていた。
それを見下ろして、エマが静かに言う。
「死なせませんよ、マリーさま。あなたは生きて償うべきです。育ててくれた家族のためにも、ずっと友達だと信じてくれたアリシアさまのためにも」
その言葉に、マリーの目が大きく見開かれる。
エマの横をかつかつと誰かが足早に通り過ぎた。
アリシアだ。彼女はマリーの元までくると、思い切り手を振り上げた。
そして、パァンという乾いた音。
目に涙をためたアリシアが、マリーの横っ面をはたいていた。
「マリーのおおばかもの!!!」
激高したアリシアが叫ぶ。
「死に逃げるなんて卑怯よ! いいえ、あなたは卑怯なことばかり……! どうして、どうして……! 私の友達の、明るく美しいマリーはどこへ行ったのよ……!」
マリーは叩かれた頬を押さえながら、気が抜けたように床を見つめていた。
アリシアがしゃくりあげる。
「ひどいわ……。私は許さないわ。私の友達、マリーを奪ったあなたを」
アルヴィンによれば、マリーは修道院送りが決定しているのだという。令嬢という地位をはく奪され、恐らくはそこで一生を過ごすことになる。
それと同時に、アリシアの友達の“マリー・カレンベルク”の貴族籍は消滅し、ただのマリーになるのだ。
しゃくりあげながらアリシアが続ける。
「それと同じぐらい、あなたの異変に気付けなかった自分も許せない……。私があなたを止めていれば、あなたの企みに気づいていれば、もっと別の道もあったかもしれないのに……!」
そう言って泣き崩れるアリシアを抱きとめたのは、エマだった。
青ざめて震えるマリーを見据え、エマがゆっくりと言う。
「……マリーさま、これがあなたの犯した罪の結果です」
それから、静かに瞳を伏せた。
「あなたは弱き人。そして己の悪魔に打ち勝てなかった哀れな人……。もう少し早く出会えていたらと、思わずにはいられません」
アリシアも言っていた通り、罪を犯す前のマリーに出会えていたら――だが全てはもう起こってしまったこと。エマにできるのは、ただ見守ることだけだった。
「生きて、己の罪を償いなさい。何年でも、何十年かかったとしても。……そして決して忘れないで。あなたのために泣いた、アリシアさまのことを」
マリーが成り代わりたいと願ったアリシアは、同時に彼女にとって一番の友達でもあった。
「あ、あぁ……」
マリーの口から、うめきのような泣き声が漏れる。それはすぐに
彼女は今、ようやく自分が失ったものを実感していたのだ。
失われ、もう二度と戻らないかけがえのない日々を。
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