第10話 アルヴィンの白うさぎ ★

(いやいやいやいや! 勘弁してくれ!)


 ただでさえ女嫌いなのに、その上相手はさきほど皆の前で婚約を発表したばかりの女。

 こんな現場を誰かに見られたら、傷つくのは彼女の外聞だけではない。アルヴィンの評判だってガタ落ちだ。下手すると責任をとらされて結婚までありえる。


「……はは、どうやら酔っておられるようだ。そうに違いない。さ、お水を持ってくるのでどいてください」


 アルヴィンはすぐさま令嬢を押しのけようとした。だが相手も負けていない。アルヴィンの拒否を悟ると、なんと自分のドレスを胸元からビリビリと破き始めたのだ。


「なっ……!」


 アルヴィンは絶句した。幸い下着までは破れず、見えては困るものは目に入らなかったが、この状況は非常にまずい。


「わたし、本気なんです……! アルヴィンさまがうなずいてくれないなら、今すぐ叫んだっていいんです!」


 なんてわめきながら、令嬢がアルヴィンの胸に飛び込んでくる。かと思うとアルヴィンのボタンを引きちぎり、無理矢理服を脱がせようとしてくるではないか。


(やめろ! 盛った犬ですらもっと理性があるぞ!?)


 本当は罵声を浴びせてやりたいところだが、理性をかき集めなんとかこらえる。ことを荒立てても意味はない。それより解決の糸口を探さなくては。アルヴィンは令嬢を押しとどめながら、必死に頭を働かせようとした。


(どうする!? どうすればいいんだ俺は!)


 と、そこへ、生垣の間からひょっこりと救世主が顔をのぞかせた。


 ――エマだ。


「大丈夫ですか」


 彼女は無表情のまま、淡々と尋ねた。


 折り重なった一組の男女。片方は葉っぱにまみれ胸元がはだけた状態で押し倒され、片方は胸元がビリビリに破れた状態で押し倒している。……どう見ても大丈夫ではないのだが、エマはいたって平静だった。


「すごい音がしたから見に来たら……転んで破れてしまったんですね。大丈夫です。わたくしなら直せますので」

「いや明らかにそれとは違う状況だと思うけど?」


 思わず本音が出た。


「えっ? そうなのですか? ……じゃあどういう?」


 エマがムッとしたように聞き返すものだから、アルヴィンは思わず吹き出した。


(こいつは一体何なんだ? 普通だったら見なかったふりをして退散するところだろう)


 何かが自分のツボに入ってしまったらしい。考えれば考えるほど笑いが込み上げてきて、アルヴィンは地面に手をついたまま大きな声で笑った。


 隣では令嬢が射殺さんばかりの目でエマをにらんでいるし、エマはエマで途方にくれて立ち尽くしているというのに、一人だけどうしても笑いが止まらない。


(こんなに笑ったのは、久しぶりだな)


 笑いすぎてこぼれた涙を抑えながらアルヴィンは思った。それから令嬢を押しのけ、すっくと立ちあがる。


「そうなんだ、転んだ拍子に彼女の服が破れてしまったみたいで。……君は直せるのか? 裁縫道具でも?」

「はい。任せてください」


 言うなり、エマは意気揚々と一枚の白いハンカチを取り出した。それを令嬢の胸の前に持ってきてつぶやく。


「――祝福を」


 カッと、あたりに閃光が走る。

 アルヴィンはとっさに目を覆いながら、一瞬雪の結晶が舞うのを見た。だが光が落ち着くころには、結晶も消え失せていた。

 気のせいか? と思って辺りを見渡すと、令嬢の服がほぼ元通りに戻っている。ただし胸元の生地だけ、色がピンクから白になっていたが。


「はい。これで大丈夫です。ではわたくしはこれで」


 言うなり、エマはさっさと歩いて行こうとする。


「ちょっと! あなた何なのよ!?」


 そう叫んだのは、先ほどまでアルヴィンに盛っていた令嬢だ。服を直してもらったにも関わらず――もっとも本人はちっとも望んでいなかっただろうが――彼女はすさまじい形相でエマに怒っていた。


「せっかくいい雰囲気だったのに、見てわからないの!? もう少し空気を読んだらどう!?」


(あれのどこがいい雰囲気なんだ……)


 呆れてものが言えない。しかし自分のせいでエマを危険な目に遭わせるわけにはいかないため、アルヴィンがきつく注意しようとしたその時だった。


「先ほどのは、“いい雰囲気”だったのですか!? 申し訳ありません、わたくし勉強不足だったようです。てっきり、あなたが彼の服をはぎ取ろうとしているように見えて……」


 “はぎ取る”。

 まるで追いはぎにでもあったかのような言葉にまた笑いそうになるが、アルヴィンはすぐさま乗っかった。


「それで合っているよ。彼女は服が破れたことに怒ったんだ。――それ以外に理由なんて、ないだろう?」


 微笑みながら鋭い視線を向ければ、令嬢は悔しそうに唇を噛んだ。さすがに『無理矢理思いを遂げるために襲っていました』とは言えないらしい。


「わ、わたしはもう戻ります!」


 言って、ぱたぱたと逃げて行く。その後ろ姿を見ながら、アルヴィンはようやく安堵のため息をついた。それからエマに向かって言う。


「ありがとう。おかげで助かったよ」


 その瞬間、エマがふっと微笑んだ。


 それは幼い少女が浮かべるような、あどけない笑み。

 遠くから怒った顔か仏頂面しか見たことのないアルヴィンの胸が、かつてないほど強く跳ねる。


 蜜に誘われる蜂のように、アルヴィンが一歩踏み出した。


「何か、お礼を――」


 そう言いながら伸ばした手は、けれどエマの細い腕を掴む前にサッとかわされた。


「いえ! 結構ですので!」


 前回同様、強い拒絶の声だ。さきほどまでのやわらかな笑みも消えて、いつもの冷たく凍った顔に戻っている。


 あっけにとられたアルヴィンが返事をする前に、エマはまた信じられない速さでその場から走り去ったのだった。




◆ ◆ ◆




「……ははっ」

「? どうしたのですか」


 エマは怪訝な顔で尋ねた。


 マスネ家の誕生日パーティーに向かう馬車の中、対角線上に座るアルヴィンが忍び笑いをもらしている。


「いや、ちょっと思い出し笑いをしていた。あの時夢見た白うさぎを捕まえられたのが嬉しくてな」

「白うさぎ?」

「ああ。全身真っ白で、ずっと抱きしめていたくなるようなかわいい白うさぎだ」

「それは……よかったですね?」


 なおも笑い続けるアルヴィンを、エマは不思議そうに見つめた。


(そんなに嬉しいなんて、とても動物が好きなのかしら? シロたちのこともすんなり受け入れているし)


 そういうシロは、エマの膝の上で幸せそうに仰向けになっている。アルヴィンの膝の上では、シマエナガたちが思い思いに毛づくろいをしていた。


「ところで、鏡の破片はあとどれくらい必要なんだ?」

「実は、もう大部分は見つけているんです」


 エマは思い出しながら言う。実物は厳重に保管されているが、ぽっかりと欠けた下の部分を除くと鏡はほとんど戻っているのだ。


「大きさ的には、あと二つか三つほどでしょうか」

「意外と少ないな」

「はい。ただ、最後の破片がなかなか見つからなくて……。マスネ家も何人かリストに載っていたので、見つかるとよいのですが」


 考え込むエマに、アルヴィンがうなずいた。


「わかった。俺も気を付けて見てみよう。それともうひとつ、アリシア嬢から“証言者”を聞き出せるかどうかだが……こっちは教えてくれない可能性が高い」

「えっ! そうなのですか?」


 アルヴィンの言葉に思わず眉をしかめる。


「この間の出来事で、俺とお前が恋仲だとバレただろう。敵に手のひら見せるようなお人よしは、まあいないだろうからな」


(……じゃあ何のために行くのかしら)


 エマがじとっとした目で見ていると、彼がまた楽しそうに笑う。


「その顔、『じゃあ何のために行くんだ』とか思っているだろう」

「いえ、そんなわけでは」


(ばれている)


 エマはさっと目を逸らした。またアルヴィンがくつくつと笑う声が聞こえる。


「みんなお前のことを怖いと言うが、案外わかりやすい」


 そんなことはない、とエマが否定する前に、気持ちよさそうに伸びをしながらシロが言った。


「さすがアルヴィン殿下、よく見ておられますねぇ。姫さまは意外と顔にでるんですよ」


『そう! 姫さまは素直なんだ!』

『わかりやすいとも言うよね~』

『実はバレバレなの~ぷぷぷ~』


(そうだったの……?)


 声には出さず密かにショックを受けていると、アルヴィンが「ほら、今度は落ち込んでいる」なんて言って笑う。

 エマがむっすりと顔をしかめたところで、馬車が音を立てて止まった。


「着いたようだ」


 アルヴィンが窓の外を確認して立ち上がる。それから先に馬車を降りると、うやうやしく手を差し出した。婚約者として、エスコートしてくれるつもりらしい。


 けれど、エマはそれを突っぱねた。


「手はだめです」

「エスコートするだけだぞ?」

「それでも、手はだめなのです!」


 エマは真っ青になって否定した。

 心臓がドクドクと暴れ、じんわり汗がにじんでくる。後ろでポンッと音がしたかと思うと、三つ編みの侍女に扮したシロが慌てて顔を覗かせた。


「アルヴィン殿下っ! ここはどうぞご容赦を! 姫さまは男性恐怖症ですが、その中でも特に男性の手が苦手なんでございます!」

「そうなのか? ……わかった。なら俺はやめておこう。シロ、頼めるか」

「はいッ! わたくしめにお任せをッ!」


 飛び出すように降りたシロの小さな手を、エマは掴んだ。まだ心臓がドキドキしている。


――自分でもわからない。たかが手ごときで、なぜこんなに震えるのか。


 ただ覚えているのだ。エマに向かって手を差し出す男の子の姿を。


(あの男の子が、どうしてこんなにも怖いのかしら……)


 その子の顔を思い出そうとすると、吹雪が視界を覆うように、いつもエマの頭は真っ白になってしまう。


「大丈夫か? 馬車の中も近かったからな……。無理はしなくていい。怖いなら俺だけ先に行こう」


 アルヴィンの声に顔を上げると、彼は心配そうな顔でこちらを見ていた。エマがぐっと拳を握り締める。


(……いいえ、強くならねば。男性に怯えている場合ではないわ)


 アルヴィンの提案を受け入れた以上、すぐには無理でも少しずつ男性恐怖症を克服していきたかった。


「大丈夫です。その、人ひとり分ぐらいの距離をあけてもらえれば」

「これくらいか?」


 言いながら、アルヴィンが距離をあける。そこにはちょうど、人ひとりが入れそうな空間が開いていた。


「いえ、もっと。どちらかというと人ひとり寝そべれそうなほどの距離でお願いします」

「思ったより遠いな!」


 すかさず突っ込んでくるアルヴィンに、エマはフフッと笑う。隣にいるシロが、エマの顔を見て「んまぁッ!」と声をあげた。

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