詠み人知らずのウォール・マイン 前
両手は耳に。
臭いは無臭。
愛は労わり。
数は不変。
ひし形モニター「タブレーザー」の点滅が赤から青に変わり、朝の宣誓が承認されたのを確かめると、ウォール・マインは業務を始めた。
ウォールの仕事は、国家図書館の司書である。
彼以外の従業員はいない。その仕事は、一人分の労働力があれば事足りるのだ。
ウォールは「タブレーザー」に検索ワードを打ち込む。
何桁にも及ぶ検索結果の中から、「タブレーザー」が自動でデータを絞り込む。ウォールは書籍のある場所を確認すると、「タブレーザー」から離れて図書館の奥へ歩き出す。
図書館は広大だ。1つのフロアの広さは、スポーツスタジアム1個分に相当し、フロア数は500を超える。
しかしウォールは迷いのない足取りでフロアを歩いていき、数十分後には目的の本棚へ到着した。ウォールは本棚を見上げる。彼の頭より遥かに高く、頂上は黒い闇に隠れていて視認できない。
ウォールは備え付けの梯子を十数メートルほど上り、本棚から一冊の分厚い本を取り出した。茶色い革表紙の本で、中央に小さくタイトルが振られている。
ウォールはパラパラと素早く本を捲り出した。読み飛ばしているように見えるが、彼は1ページ1ページの文字や図説を一瞬で読み取り、それらを理解している。
数十秒後。本を読み終えたウォールは、本を持ったまま梯子を下っていき、本棚近くに設置されている小型焼却炉に本を入れた。
瞬く間に小型焼却炉内部で高温無臭のガスが発生し、ウォールの入れた本を跡形もなく燃焼させた。本の燃えカスや炭すら残らない。
本が消えたのを確認すると、ウォールは再び数十分掛けてフロアを歩き、「タブレーザー」のある場所まで戻ってきた。
そして、「タブレーザー」のデータベースを開き、図書館の所蔵数から1つだけ数を引いた。
これがウォールの仕事のすべてである。
図書館には、国家が今まで収集した、世界の情報が所蔵されている。
情報は一応整理整頓の体裁を保ってはいるが、その量が膨大かつ内容の細かさ故に「不備」が多少なりとも生じる可能性がある。そのため、区画毎の情報を精査し、「不備」と判断されたものは廃棄して情報の正確さを保たなくてはいけない。
と、ウォールはこの仕事に就く際そのような説明を受けたのだが、彼は早々にこの説明がまったく意味のないことだと理解した。
ウォールが司書になったばかりの頃の情報の合計所蔵量は27垓3784京6521兆1101億9852万6357。現在の所蔵量は27垓3784京6521兆1101億9852万6357。
数は不変。国家四宣誓の一つで、尚且つ国家の基本とされる言葉。
完全たるシステムを構築している完全たる国家が、元より間違った情報を図書館に保管するはずがないのだ。
ウォールが今まで10000以上もの本を小型焼却炉に入れたことが事実だとしても、情報の所蔵量は、図書館が建立された頃から変化していないのである。
……だからこそ、ウォールは自分の仕事に、大きな矛盾を抱えている。
ウォールが小型焼却炉に入れてきた本は【存在しない】情報である。元より【存在しない】ものを知ることは、原則的に有り得ない。それにも関わらず、ウォールは今まで焼いてきた「【存在しない】はずの情報」を、一つたりとも忘れていない。
そうだ。何故【存在しない】情報を、私は忘れていないのだろう。
【存在しない】はずの情報は、日を増すごとに頭に蓄積されていく。それに比例するように、ウォールの抱える矛盾も膨れていく。
自分は、この矛盾を抑え込まなくてはいけない。この矛盾に意味はなく、国家にとっても好ましいものではない。ウォールはそう考えている。
その後、数十冊の本を小型焼却炉に入れて、午前の業務が終わった。ウォールは「タブレーザー」のデータを確認する。図書館の合計所蔵量は27垓3784京6521兆1101億9852万6283。建立時より変化なし。
ウォールは両手を両耳に当て、休息の体勢を取る。普段ならそのまま数分間の仮眠を摂るのだが、その日のウォールの頭は冴えていて、先程とはまた違うことを考えていた。
これも【存在しない】情報だが……図書館とは、元々国家が所持するものだけではなく、市井の人達が運営する簡易的なものもあったらしい。そして、基本的にどの図書館も、主に利用するのは国家直属の係員ではなく、市井の人達なのだという。
しかし、ウォールが図書館の司書になってから……図書館が建立されたその時から、この図書館に「利用客」というものは入ったことがない。
図書館はあくまで国家の情報保管庫であり、市井の人達が利用する理由など何もないだ。
しかし、実を言えば、国家は図書館に入場規制を別段設けてはいない。原則的に、ここには誰でも入ることが出来る上、本を借りることも認められている。
だから、今ウォールの目の前にいる女は何の違反も侵してはいないことになるわけだが、それでもウォールは動揺した。
この図書館に、初めて「利用客」が訪れたのだから。
「こんにちは」
女に話しかけられ、ウォールは慌てて両耳から両手を離した。
若い女だった。黒い髪は長く伸びていて、ヴィンテージワインのような赤いスーツを着ている。格好や化粧こそ、国家の示す規範的なものではあるが、今いる場所の場違い感からか、ウォールにはその女がどこか【現実離れ】した美女に思えた。
いや、落ち着こう。【現実離れ】という単語は【存在しない】。
「本を探しているのだけれど、教えていただいても?」
「あ……ああ」
再度、女が話しかけてきたので、ウォールは返事をしなくてはならなかった。もう何日も人と会話をしていなかったので、ウォール自身、自分の声を聞いたのは久しぶりだった。
「……何の本を?」
「ビルディングについて。私、建築家なの。国家の依頼で新しい建物を考えないといけないのだけれど、新しいものを作るには、まず今までのものを知る必要があるじゃない?」
ウォールはしばらく固まっていたが、「タブレーザー」に検索ワードを打ち込み始めた。
女の言っていることは別段間違ってはいないとウォールも思ったが、それでも疑問は尽きなかった。ただ単に建物の情報を知りたいのであれば、各住宅に備え付けてある「タブレーザー」を使って調べれば済む話だ。何故わざわざ国家図書館に来る必要がある?
「タブレーザー」におびただしい数の検索結果が表示される。建築物に関係ある本だけでも、ここには相当な所蔵量があるのだ。
しかし、女はウォールの後ろから「タブレーザー」を覗き込み、迷いない手つきで画面をスライドする。
「これね」
女はそう言って一つのデータをタップした。本の情報と保管場所が画面に表示される。
「これはどこにあるの?」女が聞いた。
「あ、ああ……D65297842棚。フロア13のところだな」ウォールが答えた。
「どれくらいかかる?」
「……ここからだと、30分くらいだ」
女はニコッ、と笑うと、ウォールに背を向けて歩き出した。
ウォールはそれを呆然と眺めていたが、女が立ち止まって、またウォールの方を見た。
「ついてきてくれますわよね?」
ウォールはどうにか言い訳して女の提案を断りたかったが、運悪く仕事が一段落付いていたことを思い出し、諦めて女の背を追った。
「リューズ・サークル」
10分ほど歩いたところで、女がそう言った。
「……は?」
「名前よ。私の名前。貴方は何というの?」
そう言われて、ウォールは一方的に自己紹介を迫られていることを知った。
さっきから随分と勝手な女だな、と思いつつ、ウォールは渋々答えた。
「……ウォール・マイン」
「へぇ? 素敵! 見かけによらず格好いいわ」
「見かけが何だって?」
「新しい建物のアイディアなんだけど」
ウォールの言葉を遮ってリューズが新しい話題を始めた。
「国家にまつわる建物はすべからず『ひし形』になることが決められている。それはご存じよね?」
「……当然」
何を当たり前のことを聞くのだといった風にウォールは返した。
「そう。だから首領官邸からZ区画民の住居に至るまで、全てがひし形で統一されてるわ。材料は合金から鉄屑の廃材まで【多種多様】ですけど」
リューズの発言にウォールはぴく、と眉を動かした。
「国家で使われている建材は、一つの例外もなくアンスメリウムかその化合物だろう。鉄は野山にしか【存在しない】自然物だ。あと【多種多様】という言葉は……」
「それは『真実』?」
リューズの吐いた言葉にウォールは目を丸くした。
真実。
ウォールの反応を無視してリューズは続ける。
「Z区画の、【錆び付いて穴の開いた住居】を見たことがある? U区画の、【藻に覆われ一部は腐食した水域観測施設】を見たことがある? 私は全部見たわ。あれらが全て国家の誇るアンスメリウムで出来ているなんて、【可笑しな】『真実』だこと」
「待て、キミの言葉にはいくつもの問題が……」
「貴方には全部分かっているのではなくて?」
リューズの発言を止めようとしたウォールだったが、逆にその言葉で口を閉ざしてしまった。
建材に関する【存在しない】本を、ウォールは今まで何十冊も読んだことがある。それらの内容は一冊一冊が違うものだったが、一つだけ共通していることがあった。
アンスメリウムなどという金属は、存在しないということが。
……しかし、リューズの言っていることが本当に「真実」だとしても、それを口にすることに何の意味があるというのだろう。
国家が「これは存在する」と決めればそれは存在し、【存在しない】と決めれば無臭のガスに消える。そんな簡単なことが、リューズには分からないのだろうか。
やはりこの女の口をすぐにでも閉ざすべきかとウォールが思った時には、リューズが10メートルも先を歩いていた。ウォールは慌てて追うしかなかった。
ウォールの頭に、「ある違和感」が渦巻き始めていた。
さらに歩くこと20分。二人は時間通りに目的の棚へ辿り着いた。
リューズが微笑みながらウォールのことを見た。取ってこいというのだろう。ウォールは頭を一度だけ掻くと、すぐに備え付けの梯子を上って天井の闇に潜り込む。
階段をしばらく上がってから目的の段まで来たのを確認すると、ウォールは胸ポケットからペン型のライトを取り出した。棚に照らし、本を探す。
リューズの指さした本はすぐ見つかった。が、表紙はひどい日焼けで茶色く変色し、紙の状態も芳しいとは言えない。ウォールが以前に見た【存在しない】本にはもっとひどい状態のものもあったが、果たしてこんな本が、リューズの求めるものなのだろうか。
ウォールは本を取り出すと、無駄の少ない動きで梯子降りた。その様子を見てリューズがすごいわと拍手した。ウォールは少しも嬉しくなかった。
「拝見するわね」
そう言うなりリューズがウォールの手から本をひったくると、それをめくり出した。静寂を保たれた図書館に、ぱら、ぱら、と小さな音が響く。
そう言えば今は何時だろうか。午後の業務に間に合うだろうかとウォールは時間の心配をし出した。
「……やっぱり。【過去】の建物には直方体もあるし錐型もある。むしろひし形の方が珍しいわ」
そんな独り言を呟くリューズを見ながら、ウォールはある確信を覚えていた。
近い将来、この女は【存在しなくなる】だろう。
国家の決まりに反することを声高に言うような輩は、遅かれ早かれいずれは【存在しなくなる】のだ。ウォールの友人達の中にも、そうして【存在しなくなった】【存在しない】者が幾人もいる。
もちろん、ウォールの友人の数は不変だ。だが、ウォールは全てを覚えているのだ。
だからこそ、ウォールの頭に生まれた「ある違和感」は、その時になって決定的な「疑問」に変わった。
リューズの──この女の背中から溢れ出るようなこの圧倒的「自信」は何だ?
この女には【恐怖】というものが無いのか? いや【恐怖】というものは誰にも【存在しない】が、隣で話を聴くだけでも危険だと感じる情報を、何の制約も持たぬと言った顔でこの女は次々と口にする。
自分が消えないという確信があるのか? しかし、その確信の源がまるで分からない──。
ウォールは段々と嫌な気分になってきた。
それを見計らったようなタイミングでリューズが口を開いた。
「これで大丈夫! さっそく貸し出してくださいな」
「あ、ああ」
「それと一つ」
そう言うと、リューズがウォールの横に立ち、今までの声とは打って変わって、低く小さく呟いた。
「歩く先の目的地に意味が無いのなら、そこに着くまでの道中に意味を持たせるのが幸福だと思わない?」
ウォールはリューズの方を見た。
「……それはどういう意味だ?」
「さあ? 目的は果たしたわ。帰りましょ」
リューズがまた一方的に話を切り、来た道を逆に歩き出した。
ウォールはそれを追うしかなかった。
戻るまでの30分。二人の間に会話は無かった。
リューズが去ってから2時間。ウォールは一見何事も無く午後の業務をこなしていた。
しかし、リューズに会ってから別れるまでの1時間にも満たない体験。ウォールはそれをずっと頭に引き摺っていた。
彼女が口にした言葉には、危険だと判断される単語がいくつも含まれている。そのため、ウォールは先程のことを一刻も早く忘れたいと思っている。
……だが、それと同じくらい「忘れてはいけない」とも思っている。
ウォールは、何故自分がそんなことを思うのか、自分で理解が出来なかった。
気分は悪くなる一方だ。
「……次の本で業務は終了だ」
ウォールは「タブレーザー」にワードを打ち込み、膨大な結果から目的のものを絞り込む。エリア13、D65297842棚。
「よし…………あ、え?」
ウォールは「タブレーザー」を凝視した。打ち込みミスはあり得ない。「タブレーザー」の故障はさらにあり得ない。「タブレーザー」が「それ」を導き出したということは、それが該当する本だということなのだ。
フロア13、D65297842棚。
「…………【冗談】だろう……」
ウォールは【存在しない】単語で呟いた。
【存在しない】はずのその本は、今日という日が終わってもリューズ・サークルという市民の手の中に在り続ける。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます