旅立 -2-
陽はすっかり昇り切っており、湖面にはキラキラと白い光が反射している。湖は透き通っていて、中では魚の群れのようなものが泳いでいた。
その生物が魚なのか、あるいは名前のある魔物なのかは、γに判別は付かない。スイジに聞けばある程度を知ることが出来るかもしれないが、γはそうしようとはしない。
さらに言えば、王宮からここに来るまでの数十分間、γとスイジと会話をしていない。
「…………」
湖を虚ろな目で見ながら、γは自分でもどうして「外に出たい」などと言ったのか疑問に感じていた。
それは単に、出来るだけ王宮から離れたいという口実だったのだろうか。
口実? AIの自分が、そんなことを考えられるのか?
それとも行動だけではなく、ついには思考にまで不具合が出始めたのか?
あるいはそうなのかもしれない。今の自分には、自分でも何が起きるのか理解することが出来ないのだから。
「このクライゼル・シュネッケでも魚は獲れるんだけどね」
唐突にスイジが喋った。その声でγの思考は現実に戻った。
「『外』で獲れたものよりは味が落ちるのよねぇ。ここは人と船の往来が激しいから……」
スイジが顔を上に向けて、肩に乗せたγに微笑み掛けた。
「あなたは、お魚は好き?」
「え……」
その手の質問は、γにとって最も答えづらいものだ。そんなことはお構いなしにスイジは続ける。
「あたしがあなたくらいの時は、魚なんて食べなかったわ! 魚どころか野菜もねぇ~。お肉ばっか食べてたわ。そのツケがこのお腹!」
スイジは、程よく飛び出た自分の腹をポン、と叩いた。
γはしばし黙り込んでいたが、ヒトが尋ねてきたのなら、自分は答えなくてはならない。
「……申し訳ありません。ワタシはヒトのように食事を必要としないため、食物に対する味の評価はできません」
「ふーん、あなたのいた世界は随分と変わってるのねぇ」
スイジはその一言で、γの答えをあっさりと受け入れた。深くは考えていないのか、勇士達の世界は特別だと割り切っているのかもしれない。
特別と言っても、γはまだ見た目相応の扱いを受けている。スイジも小さな子供に接するように、気さくに話し掛けてくる。
スイジが続けて言う。
「まあ魚が食べられるようになったからじゃないんだけどね……湖を見るのは、あたしは好きよ。特にこの時間の、白く輝く水面を見るのは」
「そうですか」
γが頷くと、スイジがニッコリと笑った。
「あなたもそうじゃないの?」
「え」
スイジの聞いてきたことが分からず、γは返事が出来ない。
スイジは続ける。
「何か嫌なことを忘れたいから、キレイなものを見に来たんじゃないの?」
「……嫌なことを、忘れたいから」
そう繰り返して、γは目の前の湖を眺めた。
朝の淡い青空を鏡のように映し、陽光がキラキラと宝石のように輝いている。
確かにこの景色は、ヒトが感じるところの「美しい」というものなのかもしれない。しかし、それをAIである自分が、同じように感じられているとは、γには思えなかった。
それでも。
「……そうかもしれません」
γはスイジの言ったことを肯定した。AIらしくもなく、曖昧に。
その言葉を肯定したことには、γ自身が一番驚いていた。
物事を忘れることなど、AIの自分に出来ることではないのに。
近いことと言えば
つまり、究極自分は嘘を吐いたことになるのではないか。
「子供の内は、いっぱい間違えて、いっぱい失敗して、いっぱい泣いちゃえばいいのよ」
γの思考などお構いなしに、スイジは話し掛ける。
「みんなそうやって大人になるの。私なんてまあ悪い子供だったわよ? あなたは全然良い子だわ」
手を口に当て、スイジがクスクスと笑う。
γが申し訳なさげに口を開いた。
「しかし……ワタシが間違いを犯すとヒトに迷惑が……」
「迷惑結構!」
スイジが胸をドンッと叩いた。
「大人が子供の近くに居るのはなんでだと思う? 子供の間違いを正しく飲み込んであげるためよ。どんな失敗をしようと、その子がその子として真っ直ぐに成長できるようにね」
「…………間違いを、正しく飲み込むため……」
言葉を繰り返すγに、スイジは微笑む。
「あなたの近くにも、あなたの失敗を飲み込んでくれる大人がいっぱい居るでしょう? 特にあのウォールさん! 懐が広くて良い男だわ……ま! ダンナには劣るけどね!」
わっはっはっはっとスイジは大きな声で笑った。近くを見回っていた兵士が驚いてこちらに目をやった。
γが返事に窮していると、スイジは声のテンションを戻して言った。
「……まあ、あなたの心がけも勿論大事だけどね。あなたの隣には素敵な大人がいっぱい居ることだし、一度思い切って行動しちゃってもいいと思うわ……あなたのお友達のお姉さんみたいにね!」
「……そう、ですか」
γはまた、曖昧な返事をした。
正しい答えを返すのなら、「自分が行動をすると危険が伴う」と、ハッキリ否定するべきはずだが、γはそれをしなかった。
スイジの言った「お友達のお姉さん」──林のことを思う。
AIのγから見ても、林は「行動のヒト」だ。異世界に来てから……いや、来る前のプラターネとの対話の時から、彼女がまず動くことで物事は変化した。
彼女の行動は、お世辞にも全て正しいとは言えない。実際、彼女が余計なことをしたために
しかし、γはそんな林のことを、どこか羨ましくも見ていた。
彼女の行動の目的は、ヒトを助けることだ。結果として、必ず誰かが助かっている。
それは本来、AIたる自分が担うべき責務のはずだ。にも拘わらず、昨夜に至ってはまず自分が助けられてしまった。
林が羨ましい。ヒトを助けるために行動が出来る、林が。
γは、宝石のように透ける湖の先に、傷だらけの少女の顔を見た。
スイジは片手を上げて、そんなγの頭を優しく撫でた。
「──ウミニーナっ!」
廊下を歩いていたウミニーナは、突然後ろから話し掛けられた。
驚いて振り向くと、そこには林が息を切らして佇んでいた。
「リン!? ま、まさか走って来たのですか!? 怪我は……」
「そんな無茶はしてないよ……右足を上げて左足だけで跳ねながら追いかけただけ」
「それは無茶というものです!!」
ウミニーナは慌てながら林の身体を支える。林は呼吸を整えて、ウミニーナの顔を見た。
「いや……さっきは変なことを言っちゃったからさ。謝りたくて……」
「そんなことのためにわざわざ……」
「友達との間に禍根は残したくないもんでね」
「とっ、友」
ウミニーナは照れて目を逸らした。
「ところで」林が言う。「ガンマちゃんはまだ外かな? そろそろ朝食の時間だけど……いや、あの子食べないけど」
「え……ええ。スイジが付いているので、もうすぐ戻るかと」
ウミニーナは林の方に目線を戻した。
「スイジさんってガンマちゃんに優しいよね。服を着替えさせてくれたり、外に連れて行ってあげたり。ガンマちゃんくらいの子が家にいるのかな?」
林は、何の気なしに笑いながらそんなことを言った。
その言葉を受けて、ウミニーナの表情が固まる。
「……ウミニーナ?」
「……スイジは」
ウミニーナが、低い声で言った。
「元は東の地の出身で、このクライゼル・シュネッケには、夫の仕事の都合で移り住んで来ました。当時の彼女の娘が、ガンマさんと同じくらいの歳でした……活発な子でした」
「……でした?」
林は眉をひそめた。
「……これは『魔王』が現れる前の話で、勇士様達には関わり合いがないかもしれませんが」
ウミニーナが続ける。
「当時、スイジの夫と娘は、湖の畔を散歩していました。夫の仕事は水夫で、荷をクライゼル・シュネッケの外に運ぶついでに、娘を外で遊ばしてあげたかったのでしょう」
ウミニーナが、自分の服の胸元をギュッと握った。
「……そこで、狩りに出た『森人』の一団と鉢合わせました。警備兵が気付いた時には……」
「っ!」
林は息を飲んだ。
ウミニーナは俯き、しばらく黙り込んだ。やがて、ゆっくりと顔を上げて、林の目を真っ直ぐに見た。
「討伐隊を組織し、畔近くから『森人』を撃退したのは母上です。……夫と娘を喪った、スイジを王宮に雇い入れたのも」
「…………」
「リン、母上も一人の人間です。貴方の言う通り、間違いを犯す時がいつかはやってくるかもしれません」
林は黙って、ウミニーナの話を聴く。
「……それでも、私は母上のようになりたい。大いなる哀しみを、力と優しさの両方で打ち砕く彼女のような人間に。そしてそんな彼女を……私は何としても助けたいのです」
「……分かった。ウミニーナ」
林はウミニーナの手を握った。
「わたし達も、絶対にその人を助けてみせるよ。ついでに、魔王も燃やし潰してやろうね!」
「……はい!」
ウミニーナは、林の手にさらに手を重ねた。
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