動かざること火神林 朝
ヒビの入った鏡を覗くと、そこには素晴らしい顔が映っている。
ファッションチェックを終えると、
林は行ってきますの代わりに心の中でこう唱える。せいぜいずっと寝ているがいい。どうせなら帰った後も。次の朝も。
錆び付いた階段を降り、築何十年のクラシカルアパートメントを飛び出す。飛び出してしまえば、クラシカルアパートメントはただの背景になる。林はもうそこの住人ではない。
林は学校ではなく、家の目の前の河川敷に向かう。リュックを下ろして土手に座り、おもむろに小さな長方形の箱を取り出す。マッチ箱だ。表側にどこかの居酒屋の店名が印刷されていて、裏側には住所や電話番号が書かれている。林は箱のデザインになど興味を示さない。中からマッチ棒を1本引き抜き、慣れた手つきで火を点けた。シュボッ。メラッ。
朝の冷たい風に揺らぐ赤い火を、林はじっと見つめる。林は火を見るのが好きだ。火は熱を持っていて、常に形を変える。これは一つの生命体だ。火を見ているとき、林は命というものを感じることができる。それは、あの背景の建物の一室に横たわる人間よりも、確かな命だ。
火が消えると、林は新しいマッチ棒を擦る。シュボッ。メラッ。林はマッチ売りの少女を馬鹿だと思う。何故マッチを売る必要がある? 売るほどたくさんのマッチを持っているなら、それで十分だろうに。家の中で、マッチ箱に囲まれて、その中でマッチ棒を擦って火を見る。自分だったらそれだけで満ち足りるのに。
マッチ棒を10本程燃やし尽くすと、林は燃えカスを持って川沿いまで行き、それを流した。火と言っても、林はガスバーナーみたいな青い火は嫌いだ。ガスが供給される限り、激しく燃え続ける。その様子がまるで、外部の力によって無理矢理生かされているように見えるからだ。だから林はマッチ棒で火を起こす。マッチ棒の火は自然のままに燃え、自然のままに消えていく。生きることを、誰にも干渉されることはない。
土手まで戻る。リュックのサイドポケットからスマートフォンを取り出し、時刻を見た。今なら学校に向かっても、用務員のおっさんに「今日も早いね」と言われるくらいの時間だ。林はリュックを背負い、通学路に就いた。そして心の中でこう唱えた。
下校時間が、一生訪れませんように。
時刻は8時20分。林の高校は8時30分から始まるので、教室はそれなりの賑わいを見せている。クラスは2年C組。林は毎日、誰よりも先にこの教室の席に座っている。そんな林に、話しかけるクラスメイトは居ない。大抵は他の友人達とおしゃべりをしているか、林と目が合っても、知らない振りをして各々のことを始めたりするかだ。林はそのことに関して、特段怒りを覚えたりはしない。
林は教室内の会話に耳を傾ける。昨日見たTV番組の話、先週の中間テストの話、ソーシャルゲームの話、下ネタや下世話な話。
林は彼ら彼女らを妬ましいとは思わない。羨ましいと思う。
彼ら彼女らは、一人ひとりが赤く燃えるマッチ棒の火だ。人生を楽しみ、あるいは苦しみ、酸いも甘いも味わって、命を赤く輝かせている。
そして、この教室で唯一火が点いていないマッチ棒がある。加々見林という名のマッチ棒だ。このマッチ棒には、他のマッチ棒のように火が起きる要因がない。他のマッチ棒から譲り受けられる火もない。仮に火が点いたとしても、片っ端から「誰か」に水をぶっかけられ、その火を消される。水をかけられるのは苦痛だ。林は水をかけられたくない。だから意識的に火を点けない。本当は火を点けたくてたまらないのに、水を被る苦痛には代えがたい。
マッチ棒に火を点けるにはどうすればいいのか。火を消す水源が枯れればいい。林はそれを待っている。干ばつが訪れるのをずっと待っている。
「林ちゃん。おはよ」
聞き慣れた声がして、林の思考は2年C組に戻された。前を見ると、青いフレームの眼鏡を掛けた、長髪の少女が微笑んでいる。
同級生の
「……アオヤギちゃんか。おはよう」
「今日も一番だったみたいだね。林ちゃんはすごいねぇ」
そう言いながら、まどかは前の席の椅子を180度回転させて、林の正面に座った。林は、まどかの言葉に眉をひそめる。
「わたしはなんもすごくないよ」
「いやいやいやぁ、私なんか朝全然起きれないもん。昨日なんて遅刻ギリギリだよ?」
「でも遅刻したことないでしょアオヤギちゃん。それでいいじゃん。早く来たところで別に勉強してるわけじゃないし」
「私はすごいと思うけどなぁ、一番に来るってのは」
まどか自身何がすごいのか分かってないようだが、とにかく自分を褒めようとしているように林は感じた。林はまどかに微笑み返した。
青柳まどか。林と彼女が友人関係になったのは高校二年に上がった頃からだ。
一年の頃は仲良くなかった、ということではない。高校一年の頃、林は「訳あって」ほとんど学校に来られなかったのだ。担任教師の計らいで、授業のプリントを貰ったり、簡易テストを受けたりできたため、進学自体はなんとかなったものの、ほとんど家と「施設」に縛り付けだった林は、同級生達とまともにコミュニケーションを取ることができなかった。「施設」の判断で、二年から学校に通うことができるようになったが、既に同級生達には一定の友人グループが出来上がっていて、林は孤立した状態で学園生活をスタートした。
まどかとは、そんなタイミングで知り合った。どこの何が通じ合ったのか、気が付けば連絡先を交換し、毎日話すような間柄になっていた。何故あのような状態からこの子と仲良くなれたのか林は今でも不思議に思っているが、知り合えたきっかけは覚えている。
林とまどかは共に美術部の部員だった。二人とも入った時期は一年の頃だが、まどかだけ
林の高校の美術部では、月に一度作品を部活内で発表して、それを講評し合うという活動をしている。復帰して最初の活動で、林はまどかの作品が目につき、自分なりの高評価を告げた。まどかにはそれがうれしかったのか、部活が終わった後、目を輝かせながら林に話しかけてきた。
林が幽霊部員の加々見林だということを知ったまどかは、驚いた顔をした。まどかが美術部に入った理由は、林が描き残していた絵を見たからだというのだ。それを聞いた林も目を丸くし、その後美術室の中で暗くなるまでおしゃべりをした。美術部顧問にはこっぴどく叱られてしまった。
それからすぐ、あるいはそのタイミングで、林とまどかは友達になった。その後林は「訳あって」美術部を辞めてしまったが、まどかは変わらず林に接してくれている。
「……調子はどう?」
まどかが小さい声で聞く。
「……どうもないね」
林は普通の声で返す。
聞く前から答えは分かるようなものだが、それでもまどかは同じことを毎日のように聞いてくる。自分のことを心配しての発言なのか、それとも友人同士の他愛もないやりとりなのか、と林はたまに思案する。中学の時はどうだったろうか? あの頃は何をしていたんだっけ。
ふと、林はまどかの目線に注目した。彼女の眼は、自分の左頬を捉えている。そこには絆創膏が貼ってある。昨日は貼ってなかった、真新しい絆創膏が。
どうしてこういうところに気付けるんだろうな、と林は苦笑した。
「怪我をすることは別に嫌いじゃないんだ」
左頬を手で撫でながら林は言う。
「いや、痛いのは嫌だよ? 虫歯にならないように歯はちゃんと磨いてるし、体育の前に準備運動は欠かさない。でも……怪我が『治っていく』のを見るのは好き。怪我が治るのは、自分の身体が生きようとしてるから。『命』があるから。それを感じることができるから、好き」
「……そうだね」
まどかが本心で同意したとは思わなかったが、絆創膏の件にはそれ以上触れないでくれるようだった。人の気持ちを察するのが上手い子なのだ。
その後、二人で他愛もない話をする。美術部の一年生がコンクールに入選したこと。中間テストのヤマが当たったこと。世界史の先生に子供が出来たこと。校舎の補修工事があるから、一部の部活が来週の間休みになること。
「美術室も補修するらしいから、うちも休みだってさ」
「へえ、パレットに固まった絵具でも取ってくれるのかね」
「それはいいねぇ! あ、それでなんだけどね」
まどかがずい、と身を乗り出した。
「来週の放課後、集まって何かしない? 喫茶店とか市民会館とかでさ」
「え? ……うん、いいよ?」
なんだその気のない返事はと林は心の中の自分をビンタした。
内心、林はうれしくてしょうがなかった。極力「学校から出たくない」と考えている林にとって、放課後ほど時間を持て余すものはない。図書室に居座ったりしたこともあったが、図書委員の学生には変な目で見られるし、興味を引くような本があまり置いていないのもあって、結局長居は出来なかった。あの自伝小説の異様なラインナップはなんだ。
そんな時間を友達と一緒に過ごせるのであれば、学校の外でも問題はない。まどかは「やったぁ!」と手を叩いた。近くにいた男子生徒がこっちを振り向いたが、すぐ顔を戻した。
「スケッチブックとか持ってくるからさ! 何かお題出し合ってイラスト描こうよ!」
「シャーペンよりもボールペンの方がいいかな。消しカス出すと喫茶店の人嫌な顔するし。こすると消えるボールペンみたいなのもあるっけ?」
「あとは同じ紙に二人で構図描いてさ! 色鉛筆とか使ったりしてそれで……」
急に、まどかが表情を暗くした。その後、小さくぽそっ、と何かを呟いた。
教室の前の入り口から担任が入ってくるのが見えた。
「……じゃ! 詳しい計画はお昼休みに詰めよう! よろしく!」
まどかはそう言って再び椅子を180度回転させ、前の方を向いた。
その後、朝のホームルームが始まったが、林はその内容をほとんど聞いてなかった。
まどかが最後に呟いたこと。独り言だったのか、それとも林に聞かせるつもりだったのか、その言葉を、林は頭の中でずっと繰り返していた。
『また二人で一緒に、ちゃんとした絵を描きたい』
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