動かざること火神林 昼
もし自分が「この世界」の人間ではなかったら。そう考えることがある。
点数は87。数学は一番の得意科目だが、テストの時の手ごたえから察するに、他の教科も似たり寄ったりの点数だろう。林にとってはまあまあの結果という感じだった。前の席の
かつての担任、一年の頃プリントを送ってくれたり、「施設」まで出向いて簡易テストをしてくれた男性教師は、林にこんなことを言った。今は苦しくても、とにかく勉強をしなさい。そして、良い大学に入りなさい。そうすればいずれは自分だけの力で、自分のやりたいことが出来るようになる。
良い大学に入れという言葉は他の教師もしょっちゅう口にするが、担任は当時の林の状態に真摯に向き合った上で、そんな言葉を掛けてくれたのだと、林は今でも思っている。当時の林はその言葉を受け止め、持てる時間で必死に勉強をした。その結果、また高校に通学することが出来るようになった。
しかし、と林は微積分の計算ミスを横目に思案する。良い成績を取り、良い大学に入ったとする。それが出来たところで、本当に自分は好きなことがやれるのだろうか? 今の状態から何か変わることがあるのだろうか?
何も変わらない。少なくとも、水源が枯れない限りは。林は答案用紙を二つに折って、机の脇に置いた。
もし自分が今いるこの世界ではなく、別の世界で生きていたらどうなっていただろう? 林は窓の外を眺める。
別の世界とは、自分のマッチ棒を燃やせる世界だ。その火を消す水源の存在しない世界だ。
お姫様と魔物が出てくる世界。自分は魔法使いになり、炎の魔法を唱える。
蒸気機関と歯車で作られた世界。自分は技術者になり、石炭を燃焼させて動く機械を操る。
武士達が命を賭けて戦う世界。自分は忍者になり、敵方の城に火をかける。
民衆が仕事に励み、全ての国が通信で繋がった世界。自分は暗い美術室の中、アルコールランプの光を浴びて、大きな絵を描く。
全ては幻だ。世界は一つしかない。それが、自分をいくら痛めつける世界だとしても、人はその世界で生き、その世界で死ぬしかない。
……それでも、いや、だからこそ、人は異世界に思いを馳せるのではないだろうか。マッチ棒の炎が激しく燃える、命ある世界を。
「──以上。次は体育だから遅れんなよ」
数学教師の声を聞いて、林の思考は異世界旅行から帰宅する。
『また二人で一緒に、ちゃんとした絵を描きたい』
まどかの声がした。前の席のまどかは教科書を仕舞っている最中だ。
頭の中のまどかが、先程の言葉をもう一度口にした。
……今の世界でのことを考えなくてはいけない。
林はリュックから体操袋を取り出すと、教室から出た。
教室と同じ階の女子トイレの個室。一人でジャージに着替え終えた林は、グラウンドへ向かう。教室から他の生徒が出てくる気配はない。数学教師の忠告虚しく、クラスメイト達はおしゃべりに夢中になっているみたいだ。無常。
階段を降り、下駄箱まで来たところで、林はジャージ姿のまどかを見つけた。自分の友達はずいぶん素直なようだと考えていると、彼女が困った顔をしていることに気付いた。
「アオヤギちゃん、どうしたの?」
「あ、林ちゃん。いや髪ゴムが切れちゃってさぁ……予備も持ってないしどうしようか」
まどかは教室にいた時と同様、後ろ髪を流したままだった。手には端が切れた青い髪ゴムを載せている。林の高校では体育の時間、髪の長い女子はゴムでまとめるように決められている。林は少し考え、あることを思い出した。
「授業まであとどんくらい?」
「え? ……5分くらい?」
「じゃあ間に合うかな。先グラウンド出てて」
「えっ、林ちゃん!?」
林は来た道を逆に戻り出した。階段で教室にいたクラスメイト達とすれ違う。授業がはじまる時間を把握した上でおしゃべりをし、時間ギリギリで教室を出ているのだろう。林は大したもんだと感心する。
教室に入る。誰も残っていない。自分の机まで歩いていき、リュックの底をまさぐる。そして目的のものを取り出すと、駆け足で教室を出た。
グラウンドに着くと、他の生徒はみんな体育座りで教師の話を聞いていた。遅刻してしまったかなと思ったが、時刻はまだ2分前くらいで、教師も他愛のない話をしているだけのようだ。時折笑い声も聞こえる。
林はしれっと生徒達の中に入っていき、まどかの隣に座った。まどかは後ろ髪を雑に結んでまとめている。
「お待たせ」
「あ! もう授業始まるよ林ちゃん。何してたの?」
林はジャージのポケットから「あるもの」を取り出し、まどかに手渡した。
「それ。あげるよ」
「え……」
まどかは渡されたものを見つめた。それは濃い赤色をした髪ゴムだった。
「これ、林ちゃんの?」
「わたしの……用に買ったものだったけど、結局使わずじまいだったからさ。あげる」
林が「施設」にいた頃、林の診察を担当していた女医が、髪の長い人物だった。髪をゴムで真後ろにまとめ、きびきびと働く姿が、林にはとてもスタイリッシュで、恰好よく見えた。いずれは彼女のように、自分も髪を伸ばして、ゴムでまとめよう。そう考え、残り少なかった小遣いを使い、自分が好きな赤色の髪ゴムを購入した。
髪を自由に伸ばすことが出来る環境と、出来ない環境があるということに気付いたのは、「施設」を退所してすぐのことだった。
その後、林の「いずれ」はリュックの底に沈んだ。
「アオヤギちゃんの好みじゃなかったらあれだけど」
「いや、うれしいよ! 本当にこれ貰っていいの?」
「どーぞどーぞ」
まどかは「ありがとう!」と返事をすると、結んでいた髪を解いてそれをゴムでまとめた。まどかの持つ小物は寒色系のものが多いため、赤い髪ゴムというのは変だったかと林は思ったが、まどかは特に気にする様子もなく、うれしそうに束ねた髪を振っている。
「…………」
林が扱えなかった「いずれ」を、臆することなく使っている。
「青柳、
体育教師が二人を注意した。まどかが「あっすいません!」と慌てて頭を下げ、林も続けて下げた。まどかは林の方を見ると、口パクで「ありがとう」ともう一度言った。
その姿を見て、林の中である考えがまとまりつつあった。
「──でぇ!
まどかが右手に持った箸をぶんぶん振った。林とまどかは互いの机の正面をくっつけて、共に昼食を食べている。まどかは家から持ってきた弁当で、林は購買の惣菜パンだ。林が家から弁当を持ってきたことは一度もない。
まどかは髪を、赤い髪ゴムでまとめたままだ。外すのを忘れているのだろうか。
「……ふう、さて」
弁当を食べ終わり、まどかが箸を置いた。話す方ばかりに気を遣うので、まどかは食べるのが遅い。昼休み終了まであと15分。
「それで来週の放課後だけど、さっき話したこと以外で林ちゃんがやりたいことあるかな?」
「そうだね……」
林はパンの包みを畳み、机の脇に置いた。
「……アオヤギちゃんは、自分の画材を持ってる?」
「……へ?」
まどかがポカンと口を開ける。
「自分用の絵具とか、筆。あとはキャンバスとか……」
「……いやぁ、ごめん。持ってないかな。部活では美術室にあるものを使わせてもらってるから……」
「そう……美術室の道具は、借りれたよね」
「う、うん。部活で使ってるやつは部費で補充してるものだから、持ち出しは自由だよ」
よく知っている。その部費というもので、林は美術室に居れなくなったのだから。
「……林ちゃん?」
「…………」
林は数秒間言葉を止めた。
今ならまだ、ただの雑談にできるかもしれない。
さっきまでに済ませていたはずの覚悟が、今になって揺らいでいる。
水源の音がする。ぽちゃりぽちゃりと、火を消す恐ろしい水音が聴こえる。
体温が下がる感覚がする。口の中の水分が無くなって、舌が貼りつく。
これ以上待つと、声が出せなくなると思った。その間に昼休みは終わってしまう。
前を見た。自分を心配する友達の顔が目に入った。彼女の髪と一緒に揺れる、赤い髪ゴムが見えた。
「……画材を、借りて欲しい。補修工事になる前に」
「っ! それって……」
マッチ棒に火を点けた。
「絵が描きたい」
まどかが立ち上がった。近くにいた男子生徒がこっちを振り向いたが、すぐ顔を戻した。
「……描けるの?」
小さい声だった。まどかは、慎重に、何かを確かめるように、そう聞いた。
「描くよ」
林ははっきりと答えた。
まどかがゆっくりと席に着く。林から目を逸らし、下を向く。
「……朝に私が言ったこと、聴こえてた?」
「聴こえてた」
まどかを真っ直ぐ見据えながら、林が返す。
ちら、とまどかの目が、林の顔を伺うように動いた。
「……私のために、描こうとしてないよね? それなら……」
林は微笑んだ。
「わたしが描きたいんだよ。わたしがアオヤギちゃんと一緒に描きたい」
「…………わかった!」
まどかが顔を上げた。まどかも笑っていた。
「私は美術部の副部長さまだよ! 美術室中の画材という画材を林ちゃんの前に置いてあげよう!」
「そんな大量にはいらないよ。……その代わりね」
林は、その必要がまるでないのに、まどかに耳打ちした。
「……描いた絵は、できればアオヤギちゃんの方で保管してほしい」
「……わかった」
まどかが頷いた。林の意図は、全て伝わったようだ。
その後は、絵を描く場所、時間を取り決め、机の位置を戻したらチャイムが鳴った。
午後の授業。傍らに二つ折りの答案用紙を置き、林は窓の外を眺めている。
林は落ち着かなかった。先程まどかと取り交わしたことを、頭の中でずっと整理している。今更絵を描こうとしたところで、自分の何が変わるのだろうか。それはただの寄り道で、時間の無駄かもしれない。
しかし──胸の奥底に熱い何かがあった。ここしばらく、林が持つことができなかった何かが。
今は、とにかくその熱さを保っていく。林はそれでいいと思った。お膳立ては、まどかがしてくれる。友達を信じよう。……自分を信じよう。
そして、下校時間がやって来た。
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