動かざること火神林 夜

 帰りたくない。

 下校中はとにかくその一心だ。

 しかし、「あの女」より早く帰らなくてはならない。「あの女」の待つ家に戻るというのが一番の苦痛だ。先に家に戻って「あの女」を待ち構える方がまだマシである。

 学校を出たリンは、ものの数分で家の近くの河川敷まで来ていた。呆れるほどあっという間だ。まどかは学校から家まで、電車を使っても片道1時間はかかるらしい。その時間を取り換えて欲しい、という気持ちが林に沸いてくる。

 いや、これは自分の問題なのだ。解答者は自分だけの問題。まどかに解かせる道理はない。

 林は土手に立ち、そこから見える忌まわしい背景を睨みつける。息を吐き、気持ちの整理をつけると、林は背景の中に入り込んでいった。

 背景は、自分を包み込むおぞましい現実に変わり、見慣れた、見飽きた、見たくもない、目を逸らしたい、築何十年のクラシカルアパートメントが目の前に現れる。錆び付いた階段を上がる。林はここの住人に戻る。顔面をぺたぺたと触ってくるような、生暖かい風が前から吹いてくる。

 林はある一室の前で止まる。表札には細く切ったコピー用紙が入っていて、マジックペンで、雑に、何の面白みも無く「加々見」と書かれている。リュックから簡素な鍵を取り出し、鍵穴に通す。呼び鈴など無駄だ。もし仮に「あの女」が中に居たとしても、顔の絆創膏の数が増えるだけである。まどかに要らぬ心配は掛けられない。

 扉を開け、林は部屋に入った。中に住人は居なかった。当然だ。林はそのために帰りたくもない帰路を速足で進んだのだ。電気を点けると、何のサプライズもプライスもない部屋が明るみに出る。自分がこの部屋の住人なのだと、林は信じたくない。

 林は、いつもはやらない行動をした。手を胸に当てる。目を瞑り、その奥にあるものを確かめる。

 さっき自分に着火した炎は……まだ残っている。

 それで十分だった。

 林は部屋の中に進んでいくと、リュックを床に置いて、中からノート一冊と筆箱を取り出した。そして制服から着替えることも忘れ、鉛筆でノートに線を引く。

 林の右手が素早く動き、ノートに次々と線が引かれていく。何の意味も持たない線が繋がり、集まり、何かを形作っていく。3分もしない内に一つのデッサンが出来上がった。そこには「ゾウ」のような生き物が描かれている。鼻が極端に長く、それを身体全体に巻き込んで、空中に浮いている、架空の生き物。林はしばらくそれを見つめると、ノートをめくり、次のページに再び線を引き出した。

 ページをめくる度に、新しい生き物が形作られていく。林がやっているのはリハビリテーションだ。絵を描くという動きの、リハビリテーション。来週に向けての練習であり、同時に来週描く絵のモチーフ探しでもある。林は現実をモチーフにしない。彼女が描き出すのは自分の心の内にあるものだけか、現実の物を過剰に改変したものだけだ。林の絵の中には必ず何かしらの「生き物」と「火」が描かれる。まどか曰く、「自分には絶対に描けない世界」とのことだ。

 無我夢中で描き続け、ふと、林は思い出したように時計を見た。部屋に入ってから結構な時間が経過している。林は自分の格好を見て、頭を掻いた。少し落ち着きが足りなかったらしい。休憩を兼ねて、制服から着替えようと林は立ち上がった。


 同時に、扉の開く音がした。


 林は耳を疑った。早すぎる。「あいつ」が帰ってくるまで、まだ2時間はかかるはずなのに。

 扉の外から、ぬうっ、と黒い塊が入り込んできた。それは酷く痛み、伸ばしっ放しになった髪の毛だった。

 それを見た瞬間、林はノートと鉛筆、筆箱をリュックの底に押し込んだ。林が出来たのはそれぐらいだった。

 扉が完全に開かれ、「そいつ」は部屋に入ってくる。ゆらり、ゆらりと大きな身体を揺らし、苛立たしいくらいに遅い足取りで、確実に林に近付いていく。過剰なほど厚く、白く塗られた顔。目を覆いたくなるような極彩色のドレス。化学実験に失敗した臭いの香水。その怪物は、林の目の前に立ち、口をゆっくりと開けた。

「……親が帰ったのに、ただいまも言えないの?」

 加々見麻耶カガミマヤと出会ってしまった。


「…………」

 林は何も答えず、麻耶のことを見る。麻耶が普段よりも遅く帰るということは多々ある。むしろ遅く帰る日が多いくらいなので、普段という感覚はとっくの昔に狂っている。しかし今は、普段よりも早すぎる戻りだ。そして麻耶の様子。嫌な予感が、予感では済まないだろうということを林は察した。

「何か言いなさいよ」

 麻耶が再び聞く。林は心の中で反吐を吐いた。

「……こんなに早いと思わなかった」

 林の小さな返事を聞き、麻耶が鼻で笑った。

「だから制服のまま? 早いといっても学校が終わってからずいぶん経つけど?」

 そして麻耶が一歩踏み出し、

 林を殴った。

「っ……う……」

 林が床に倒れる。麻耶がケタケタと笑う。

「最近の女子高生は意識が高いのねぇ? そんなのを着て、まだ学校にいるつもり?」

 麻耶の顔から、すっ、と笑みが消える。

「脱ぎなさい。ここは家よ」

「…………」

「脱げ!」

 返事をしない林を麻耶が蹴った。腹部のあたりを狙われたが、林は腕でガードする。両腕に鈍い衝撃が走り、口からうめき声が漏れる。麻耶はそんな林を、観察するように見下ろしている。このまま林が何もしなければ、すぐさま二撃目を打ち込んでくるのだろう。林はおぼつかない足取りで立ち上がり、制服のボタンに手を伸ばした。

「……何よ、アレ」

 麻耶のその言葉に、林はハッとした。麻耶の眼が、林のリュックを捉えている。

「それは……!」

 林の言葉を待たず、麻耶が乱暴にリュックを掴み取り、片手を突っ込んで中身を漁り出す。そして、一冊のノートを取り出した。さっきまで林がデッサンに使っていたノートだ。

 麻耶が無表情のままノートを眺め、やがてそれをめくり出した。

 麻耶の瞳が大きく開いた。

「…………どういうこと?」

 麻耶がデッサンのページを開き、林に突き出した。林は自分の心臓が握られているような感覚に襲われる。心拍数が上がっていく。

「お前は……絵を辞めたはずよね? わたしがお前によぉく、あんな無駄な部活からさよならさせた……そうだったわよね?」

 ノートを持つ麻耶の手に力が入る。ノートにシワが寄っていく。

「答えなさい。これはなに?」

「……う……」

「答えろ!」

 麻耶が怒鳴るが、林はなおも答えようとしない。答えられるはずがない。そのノートは林が抱える炎の一端なのだ。それだけは、この女に知られてはいけない。

「答えなさい!! なに!?」

「ぐぅ……ぅぅぅうっ」

 麻耶が迫る。林は口を閉じ、その隙間から妙な音を出すだけだ。麻耶がギリィと大きな音を立て、歯を軋ませた。

「……っぁああああああああ!!」


 麻耶が叫び声を上げて、林のノートを破った。

 林の胸に激痛が走る。頭の中が白く明滅する。

 床に散らばるノートの切れ端が、自分の内臓のように見えた。


「…………どうして……」

「……あぁ?」

 林は、いつもやっているように、努めて冷静さを保とうとした。

 麻耶に何かを言ったところで、事態が好転することなど、今まで一度も無かったのだから。

 しかし、それは出来なかった。林の喉が火炎放射器のように言葉を吐き出した。

「どうして! どうしてあんたは! わたしがやることをなにもかも邪魔するの!?」

「…………」

「そんなことをしてあんた一体なにがしたいの!? わたしを殴って蹴って弄ってあなたの何になるっていうの!?」

「…………」

「なんで黙るの……答えて、答えてよ! あんたこそ答えてよ! こっちを見てよ!」

「……………………?」

 麻耶が林に背を向けたまま言った。林は次の言葉が出るのを待った。いつまでも待った。


 次の瞬間、麻耶の右手が林の首を掴んだ。


「……がっ……」

 とてつもない力が林の首に掛かる。林の足が床から浮いていき、爪が皮膚に食い込んで血が滲み出る。

「……お前に、よ、よくお前にそんなことが言えたわね……よりによって!! お前に!!」

 林が今まで聞いたことのない怒声だった。両手で麻耶の右手をどかそうとするが、岩を押しているみたいにびくともしない。段々呼吸が出来なくなっていく。林は麻耶の顔を見た。


 絶句した。

 麻耶は泣いている。しかも、歯をガチガチと振るわせて。

 襲われている林ではなく、襲っている麻耶の方が、「恐怖」で顔を歪ませているのだ。


 麻耶が叫んだ。

「お前は! わたしと同じはずだ! 小せぇ頃に父親に逃げられ! 母親からは暴力を振るわれ! やることなすことすべてを否定される! だからわたしと同じ運命を歩んで当然のはずだ!! そうだろ!? そうだと言え!!」

 林の首にかかる力がさらに増す。林は足をばたつかせる。呼吸がいよいよ出来なくなる。

「なのに……! どうしてお前は……! 父親に逃げられたら保険金が入り! 暴力を振るわれたら児童相談所に助けられ! 学校を休めば教師に勉強を教えられ! 学校に通えば友人が出来る! なんでお前だけがこんなにも恵まれている!? なんでお前だけが……前に進むことが出来る!!」

 麻耶は林を壁に叩きつけた。部屋全体に衝撃が走る。鏡が倒れ、割れて破片が床に散乱する。

 林は麻耶の手から解放されるが、痛みで身体を動かすことができない。言葉の代わりに、ゴホッゴホッと唾交じりの咳が出る。

「……生まれた時代が、悪かったというの……?」

 麻耶はなおも喋る。叫び続けた反動で声は枯れ、髪も服も顔も滅茶苦茶になっている。

「この恵まれた時代に生まれたかったことが悪かったというの? ええ……どうなんだい! この時代のお姫様ぁ!!」

「…………ぅ」

 林は、手を使って身体を起こそうとするが、バランスを崩してすぐ倒れ込んでしまう。


 林には全て分かった。むしろ今までの17年間で気付かなかったのが不思議だと思った。

 加々見麻耶という女の正体は──火のつかないマッチ棒の成れの果てなのだ。

 誰も麻耶の火を点けようとせず、麻耶自身火を点けようと努力しても水を掛けられ、いつまでも湿気った状態のまま大人になったのが、この化け物なのだ。

 その化け物に育てられた自分に火が点かなかったのは、当然のことだったのだ。

 ……だけど、もう自分はこの化け物とは違う。なぜなら、わたしには……。


 麻耶が林に近付き、蹴りを入れようと足を上げた。林は腕を身体の前にやって防御の姿勢を取った。

「…………?」

 蹴りは飛んでこなかった。林は訝しんで、麻耶の顔を見た。

 笑っている。

 先程まで顔をぐしゃぐしゃに歪ませていた女が、なぜか笑っている。

 ……なぜ?

「……あー。そうかそうか。わたし分かったよ。お前をいくら痛めつけたところで、何の意味もなかったわ。そういう選択肢があったわ」

 麻耶は林に背を向け、不気味なくらい遅い足取りで歩き出す。麻耶は、玄関に向かっている。


「お前の友達を殺しちゃえばいいんだ」


「…………え……?」

 林の頭が真っ白になる。今なんと言ったんだ? 誰をどうすると言ったんだ?

「お前がいつまでもしつこく夢見る乙女でいられるのは、一緒に夢見る友達がいるからでしょぉ? そいつが居なくなってしまえばお前は独りだ。それでやっとわたしと一緒になってくれる」

「…………やめて」

 林は、手を使って身体を起こそうとするが、バランスを崩してすぐ倒れ込んでしまう。

「やめませーん。生意気な子供を躾けるのは親の務めだからねぇ? 親として悪い友達とはさよならさせなきゃ」

「……やめ……て……」

 林は、手を使って身体を起こそうとするが、バランスを崩してすぐ倒れ込んでしまう。

 麻耶が林の友達──青柳アオヤギまどかを知るはずがない。林が彼女のことを麻耶に教えるわけがないし、まどかが林の家に遊びに来たこともない。こんな家に誘うわけがない。麻耶が言っていることはただのハッタリなのだ。林に謝罪をさせるか、林を恐がらせるために言っているハッタリ。そうでなければ……湿気ったマッチ棒の戯言だ。


 普段の林ならそう考えられたかもしれない。

 しかし、怪我をしたせいか、麻耶の気に当てられたせいか、林は冷静さを失っていた。


 行かせてはならない。ここで止めなくてはならない。


 立ち上がろうと伸ばした林の手に、何かが触れた。

 それは、先程割れた鏡の破片だった。


 あの子の下に行かせない。あの子の火を消させない。


 林は破片を握る。皮膚が切れて、血が流れる。

 十分な鋭さだ。


 わたしの火を消させない。消させない。消さしてなるものか──!


 林は麻耶に向かって飛び出した。

 麻耶が振り返った。



『また二人で一緒に、ちゃんとした絵を描きたい』

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