動かざること火神林 そして、朝

 どれほどの時間が経ったか分からなかった。

 リンが意識を取り戻した時、部屋は恐ろしく静かだった。

 林はしばらく動くことが出来なかったが、やがてハッと顔を上げ、立ち上がるために手を伸ばした。

 ぬるり、と何かの液体に触れた。林は手を見た。

 液体は赤かった。赤い液体は、部屋の床中に広がっていた。

 そこで林は、自分の脚に何かが載っていることに気付いた。林は脚を見た。

 加々見麻耶カガミマヤがいた。

 正確には、加々見麻耶「だったもの」がいた。

 「それ」は一切の動きを止めていた。

 「それ」の喉は切り裂かれていて、そこから赤い液体が止めどなく漏れていた。

「…………」

 林は「それ」をどかした。自分の姿を確認する。手と脚は赤い液体で濡れているが、幸い制服への付着は免れたようだ。

 林は洗面所で手を洗い、布巾を湿らせて脚を拭いた。そしてスマートフォンをリュックから取り出す。こういう場合は、どこに掛ければいいのだろう、と林はぼんやりとした頭で思った。学校? 自動相談所? 警察署?

 110番をダイアルし、通話ボタンを押そうとしたところで、林の指が止まった。

 林は自身に起きた大きな変化に気付いた。

 スマートフォンが手から滑り落ち、赤い水溜まりへと落下した。

「……まだあるかな、あれ」

 林は呟くと、玄関まで歩いていき、外に出た。



 数十分後、林は家の近くの河川敷まで下りていた。

 空は白んできており、間もなく日が昇るという時間だ。辺りには林以外の人影は見当たらないが、それが幸か不幸かは林にはどうでもいいことだった。

 林のそばには、一台の古いリヤカーが置いてある。林の住むクラシカルアパートメントの駐輪場にずっと放置されていたもので、誰の物かは分かっていない。リヤカーの荷台は、直近まで何かを積んでいたような跡があり、また赤い液体でうっすらと濡れている。

 そして、林の目の前には、家具、電化製品、雑貨類など、家の中のあらゆる物が山積みになっている。外からは見えないが、中心には「延々と赤い液体を流し続ける珍品」が収められている。

「…………」

 林は懐から小さな長方形の箱を取り出す。マッチ箱だ。中からマッチ棒を1本引き抜き、慣れた手つきで火を点けた。シュボッ。メラッ。

 そして林は、マッチ棒を家具の山に放った。


 マッチ棒の小さい火が、瞬く間に巨大な炎に変わった。


 炎は激しい音と共に、山を燃焼させる。様々な臭いが混ぜ込みになった灰色の煙が、河川敷の上空に登っていく。

「……ふ……ふふ、あは。あはははは、あはははははははははははははは!!」

 林が大きな声で笑った。手を叩き、膝を叩き、腹を抱えて足を踏み鳴らす。

「消えない! もう消えないぞ! もう誰もわたしの火を消さない!! 思う存分酸素を吸い込め! 真っ赤な吐息を吐き出せ! 命を燃やせ!!」

 炎が一際強くなり、林の姿を照らす。河川敷に写った大きな影がダンスを踊る。

「水源を焼き尽くせ! わたしの過去を消し炭にしろ! 今日わたしは生まれたんだ!! 誰にも消せない焔と共に生まれたんだ!! 今日がわたしの誕生日だ! ハッピバースデートゥーユー! ハッピバースデートゥーユゥウ!! あは! あはははは! あはははははははははははははははははは!!」

 炎が燃える間、林は笑い続けた。炎の周りで踊りを踊った。河川敷に寝転んで、バタバタと手足を動かした。


 永遠とも、一瞬とも思える時間が終わった。

 太陽はもうすっかり登り切り、河川敷を明るく照らしている。

 そこにあるのは、どす黒いガラクタの山と、古ぼけたリヤカーと、地面に座った女子高生だけだった。

 林はもう笑ってなかった。リュックからスマートフォンを取り出そうと思ったが、そのどちらも焼いてしまったことを思い出し、ふぅ、と息を吐いた。

 林は立ち上がり、制服に付いた土や草を払った。

「学校行かなきゃ」



 2年C組の教室は騒然としていた。

 誰も林に話しかけようとしないのはいつものことだが、教室内のすべての生徒が、林のことを見ていた。

 林は自分の席に、いつもと同じように座っている。ただ、その出で立ちは昨日とは大きく違う。顔に増えた絆創膏。首と手に巻かれた包帯。シワだらけで、所々に汚れが付いた制服。

 そして何より、林の持つ雰囲気が、昨日とは決定的に違っていた。

 しかし、当の林本人はそのことに無頓着だ。なんか今日は話し声が聞こえないなぁ、と思いながらぼんやりと席に着いている。

「林ちゃん……?」

 聞き慣れた声がして、林はそちらを向いた。青柳アオヤギまどかが立っていた。まどかは、後ろ髪を赤いゴムでまとめている。

「ああ、アオヤギちゃん。おはよう」

 軽い調子で挨拶する林に対し、まどかは暗い表情で、両手を胸に当てている。

「……どうしたの?」

 まどかが小さい声で聞いた。

「……どうもないよ?」

 林は普通の声で返した。

 まどかが黙り込む。何かを林に言おうとしているのだが、使うべき言葉が見つからず困っているという感じだった。

 自分から何かを言うべきかと林が口を開こうとした時、教室の前の入り口から担任が入って来た。

「……なんだお前ら。加々見カガミ以外誰も席に座らんで。ホームルーム始めんぞ」

 担任の言葉を聞き、皆思い出したように各々の席に座り出した。まどかは躊躇ためらいがちに林のことを見ていたが、やがてゆっくりと席に着いた。

「んじゃ、始めるか。今日の日直は……青柳と加々見か」

「あー、先生。それ違います」

 林が手を挙げて言った。

 教室がざわついた。

 まどかが驚いた顔で、林の方を見た。

「……違う? どういうことだ加々見? 出席番号順でお前と青柳……」

「いやだから、『字』ですよ。読みは合ってますけど、わたしの苗字は『それ』じゃない」

「……は?」

 キョトンとする担任を余所に、林は席から立ち、黒板まで歩いていく。周りの生徒が、林の挙動を見つめる。

 黒板まで来た林は、日直の欄の「加々見」という文字を消し、チョークで新たな文字を書き加えた。


火神


「わたしの名前は火神林カガミリンです。どうぞよろしく」

「……何を言っとるんだ……? というかお前その格好……」

「あ、唐突ですけど申し訳ない先生。ここで早退します」

「は? 何言って……おい!? 待て加々見! どこいく!」

 林は教室に背を向け、担任が入って来た入り口から、外に出て行った。

 教室が再び騒然となる。担任が皆を落ち着かせようと声を掛ける。

 騒ぎの中、まどかが一人、胸を抑えていた。



 林は階段を上がり、屋上へ出た。雲一つない青天が林を迎える。

 入口の扉に「生徒立入禁止」という文字があったが、それは今の林を止める力を持っていない。

 林は手摺てすりの方まで歩いていった。学校周辺の町が一望できる。林は腕を広げて深呼吸をし、酸素を大量に取り込む。

 清々しい心地だった。

 今の林は、青天の下で赤々と煌めく一つの炎だ。もはやそれを消す水源は枯れ、誰であろうと彼女の火を消すことは出来ないのだ。

 生まれてから17年以上が経ち、林は初めて「自由」を手に入れたのだ。

「……あー、来てるな」

 しかし、その自由もあとわずかな時間しか続かないことを、林は理解していた。

 林の眼には、遠くの河川敷が写っている。そこには黒い小山と、リヤカーと、パトカーが数台停まっていて、警察官らしき人達が忙しそうに動き回っている。

「いやぁ、朝から申し訳ないね……ほんと」

 林は、河川敷での誕生祭の跡をそのままにして学校に来た。

 クラシカルアパートメントの一室も、赤い液体で満ちたままである。もっとも、それは乾いているかもしれないが。

 もとより林にそうするつもりはなかったが、あれほどの惨状を、林一人で完全に隠蔽するのは不可能だ。あと数時間もしない内に警察は学校に辿り着き、林を連れて行くことだろう。

 それでも林は落ち着いていた。昨日の夜から今に掛けて起きた出来事を、すんなりと受け入れていた。

 わずかな時間ながら、自分の火を燃やすことができた。林はそれで満足だった。

 ……ただ、後悔が一つも無いと言えば、それは嘘になってしまう。

「林ちゃん!」

 扉の開く音と共に、その声は聞こえた。林が振り返ると、まどかが息を切らしていた。

 ……この子は本当に人の気持ちが読めるな、と林は微笑する。

「アオヤギちゃん、ちょうど良かった。申し訳ないけど来週のこと……」

 そう言いながら林は手摺に寄りかかった。


 バキリ、という音と共に、手摺が折れた。


「────え?」

 林には何が起きたか分からなかった。ただ、次の瞬間には、後ろ向きに屋上から落下を始めた。

 手摺が古くなっていたのか。だから立入禁止と書かれていたのか。林にそんなことを考える余裕はなかった。


 なんで。

 わたしの火はやっと燃えだしたのに。

 ほんのちょっとの自由を手に入れたのに。

 そのほんのちょっとの時間さえ、わたしには許されない?


 高速で地面が近づいてくる。林の火が消える瞬間が近づいてくる。


 ──いやだ!!


 林は心の限り叫んだ。


 死にたくない! こんなところで! こんな形で終わりたくない!

 わたしはまだ燃えるんだ! まだ命を燃やして燃やすんだ!

 こんなところで──!

 こんな──


『やり直したいですか?』


 ──っ!?

 声が聞こえた。声の正体はすぐに分かった。

 林の目の前、つまり林の上に、金色に輝くコピー用紙のようなものが浮かんでいた。


『やり直したいのであれば、誓約書にサインを』


 紙は再び何かを言った。だが言葉の意味など林には関係なかった。

 林にとって大事なのは、その紙が空中に「制止」していることだった。

 あれを掴めば助かる──! 林は反射的にそう思った。

 身体が紙からどんどん遠ざかる中、林は必死に手を振り回す。あと少し。あとちょっと!

 そして、手が紙に触れた瞬間。

「う!?────」

 林が、光に包まれた。

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