詠み人知らずのウォール・マイン 後
リューズ・サークルが国家図書館を訪れてから5日。ウォールは【不安】と【恐怖】と【焦燥】を合わせた感情を頭に抱えたまま業務をこなしていた。
所蔵量は27垓3784京6521兆1101億9852万5812。
建立時より変化なし……本当に? ウォールはそれを信じることが困難になっていた。
「あの日」に存在しなくなるはずだった本が、まだ国家に存在するということを、ウォールは「確信」してしまっているからだ。
それがどんなに危険なことかを、ウォールは【狂い】そうになるほど理解している。
彼が今望んでいることは、リューズが【存在しない】本を返しに来ることだ。リューズが本さえ持ってくれば、それをすぐさまひったくり、小型焼却炉にぶち込む。それが出来れば、今頭に巣食う苦痛が消え去ってくれるはずなのだ。
国家図書館の本の貸出期間は、原則7日間が最大となっている。だから、遅くともあと2日以内にはリューズと再会できるはずだ。
……彼女は2日以内に来るのか。いや、来てもらわなくてはならない。
ウォールは両手を耳に当てながら、休息時間中ずっとその思考を繰り返している。仮眠はもう何日も摂っていない。
不意に、自分に向かって誰かが歩いてきていることにウォールは気付いた。耳から両手を離した。
リューズ?
「誰だねそれは」
相手の返事を聴いて、自分が彼女の名を口に出していたのを知ったウォールは、相手の顔を見て急ぎ姿勢を正した。
「し、失礼いたしました。館長」
目の前にいたのは、国家図書館館長のズーム・ベイクだった。
館長と言っても、ウォールはこの男にほとんど会ったことがない。普段どんな業務をこなしているかも知らない。施設の管理者というのは、ズームに限らず素性の知れない人間が多いのだ。
そのズームが、何故このような時に? ウォールは顔に汗を浮かべないよう意識した。
「疲れているのかね? それにしては、休息時間中に仮眠も摂らないみたいだが」
「申し訳ございません」
「まあ、いい。業務の方は滞りなさそうだな」
コツ、コツと靴を鳴らしながらズームは近付いてきた。
「ところで、ここに利用客が来たことはあるかね?」
ウォールの思考が一瞬白く染まった。ズームが、まったく予想外のことを訪ねてきた。
利用客? そんなこと、今まで一度も聞いてきたことがないのに、何故、今になって?
「それは……」
「まあ、いい。『タブレーザー』で調べれば済むことだ」
言うなり、ズームが備え付け「タブレーザー」を機械的な早さで操作する。ウォールは危うくそれを腕ずくで止めるという考えに襲われたが、限界のところで冷静さが身体を止めた。
一方のズームは、ほんの一瞬で国家図書館のデータを網羅し、「タブレーザー」を閉じた。
そして、ウォールに、笑みを向けた。
「言いよどむことないじゃないか。利用者は今日の今日まで【存在しない】」
「────」
その言葉を聴いて、ウォールは完全に理解した。
もう、全てが終わったということを。
「キミの普段の働きぶりには頭が上がらない」
ズームがわざとらしく頭を振りながら言った。
ウォールは喋らない。
「その姿、まさに国家に捧げる『愛』だ。私は管理者として、その愛に報わねばならない」
ズームがわざとらしく胸を親指で突いて言った。
ウォールは喋らない。
「今こそ、キミの愛を労わろう。そう遅い時間にならないことを保障する」
ズームがわざとらしく微笑み、わざとらしくウォールの肩を叩いた。
ウォールは喋れない。
そして言いたいことは全て言い尽くしたとばかりに、ズームが国家図書館を去っていった。
国家図書館には、普段のようにウォール一人が取り残された。
愛は労わり。
国家四宣誓の一つであるこの言葉を、市民は一日一度必ず口にするだろうが、それを他者から言われたという者は【存在しない】だろう。
愛が労われるのは、労働者の働きぶりが「十分」だと判断された時だけだ。
しかし、今日までに愛を労われるまでに至った労働者は【存在しない】。
……そして、これからもそうだろう。
ウォールは「タブレーザー」を点けず、両手を耳に当てもせず、ただ執務椅子に腰掛けていた。
今のウォールは、もはや業務を行う必要がない。働きは「十分」だと認められた。
そして、誰かを待っているわけでもない。【待ち焦がれた】人物がもうここに来ることはないだろう。おそらく、既に【存在しない】のだ。
「……【存在しない】」
ウォールには両親が【存在しない】。7歳の頃までは、一緒に暮らしていた記憶がある。しかし、【国家ラジオ局】の話し手を務めていた父はある日の放送を境に【存在しなくなり】、数日の内に母も【存在しなくなった】。母が何をしていたのかは最後まで知らなかった。
そして、ウォールのように親が【存在しない】者には、往々にして相応しい仕事が充てられる。社会にとって、居ても居なくても何ら影響のない者に相応しい仕事が。
ウォールが国家図書館司書候補に選ばれたのは12歳の冬。それから30年以上を訓練と業務だけに費やした。
最後に愛を労われるには然るべきか。
自分は初めから、こうなることが決定づけられていたのだろうか。
【歩く先の目的地に意味が無いのなら、そこに着くまでの道中に意味を持たせるのが幸福だと思わない?】
ウォールは不意に、【存在しない】女の言った言葉を思い出した。
彼女は、己の愛が労われることを知っていたから、あんなことを言ったのか?
それとも、ウォールが遅かれ早かれこういう結末を迎えることを、彼女には見えていたのか?
【歩く先の目的地に意味が無いのなら、そこに着くまでの道中に意味を持たせるのが幸福だと思わない?】
「……まだ道中にいる」
呟くと、ウォールは「タブレーザー」を見た。
そして、電源を点けようと手を伸ばし、その手を直前で止めた。
こんなもの必要ない。
どの分類の本が、どのエリアのどの棚にあるか。
それぐらいは、司書になった1年目の内に把握している。
ウォールの中に膨らむ矛盾が、破裂した。
立ち上がる勢いは凄まじかった。
振動で「タブレーザー」が倒れて床に落下し、強烈な音と共にモニターが割れる。
それを確認しなければいけない司書は、既に図書館奥の暗がりに走り去っている。
ウォールの足に迷いはない。迷うはずがない。向かうのは、この業務を始めてからウォールが最も多くの本を焼いた棚。
フロア101、2114076棚。
そこに所蔵されるのは、【馬鹿げて】いて、【荒唐無稽】で、何故国家図書館で保管されているのかウォールには理解出来なかった本達。だからこそウォールが一番危険だと判断し、記憶の奥底に仕舞っていた本達。
今それをウォールは【心】の中で取り出し、吟味する。
やはり。今の状況を打破できる情報ではない。ただ……!
2時間は走っただろうか。ウォールももう若くない。常に全力疾走とはいかず、加速減速を何度も繰り返しここまで来た。それも【限界】が近い。
だが、もう着く。着いてしまえば体力は使わない。本を読むことなら、呼吸と同様に出来る。着いてしまえば──。
不意に感じた「熱さ」で、ウォールは激しい【不安】に襲われた。この熱さは、走行による体温上昇からくるものではない。この空間全体が、熱い空気に包まれている。
次第に、視界が
「……【馬鹿】な……!」
フロア101が、巨大な炎に包まれていた。
所蔵されている膨大な数の本が、何冊も同時に燃え尽きて、塵になっていく。
空間を包む熱さの正体は、フロア101の火災から生じる熱波だったのだ。
「小型焼却炉はどうしたんだ!? 国家四宣誓の臭いは無臭はどうしたんだ! 誰が火を放ったんだ!!」
炎が激しさを増す。このペースで燃え続ければ、数分もしない内にフロア全体を焼き尽くすだろう。
「っ…………ぉおおお!」
ウォールは声を上げた。人生でこんなに大きな声を出すという経験は、片手で数え切れるくらいしか覚えていない。
その全てが、親が【亡くなる】前の記憶だった。
ウォールは火炎の中に突入した。
配給の業務服に火が燃え移り、ジリ、ジリと徐々に肌が焼けていく。
今のウォールを動かすのは、愛の労わりからの逃避でも、明日を何事もなく生きていきたいという生存欲でもない。
自分が歩いてきた道中に何かを残したいという【一心】。その何かが、今【悪意】の炎に消えようとしている。
【国家の倒し方】が【存在しなくなる】前に、救い出さなくてはならない──!
炎の壁を突破して、火の及ばない空間に出る。ひどい高温だ。しかしウォールは止まらない。
手を伸ばす。本を掴む。しかし本は炭化していて、ウォールの手から崩れ落ちる。
手を伸ばす。本を掴む。しかし本は炭化していて、ウォールの手から崩れ落ちる。
手を伸ばす。本を掴む。しかし本は炭化していて、ウォールの手から崩れ落ちる。
手を伸ばそうとした棚が、棚ごと倒れ砕け散る。
ウォールは崩壊から逃れる。すぐに立ち上がり次の棚に走る。
あるはずだ! きっとあるはずなんだ! まだ火の及んでいない本があるはずなんだ!
【神】よ! 【仏】よ! 【死んでいった】【友人達】! 【リューズ】……! 私に【希望】を与えてくれ!
私に時間を与えてくれ!
『やり直したいですか?』
「──っ」
突如、聞こえた声にウォールは足を止めた。
『やり直したいのであれば、誓約書にサインを』
「【リューズ】……?」
自分で口にしておきながら、そんな訳がないとウォールはすぐに否定した。
彼女はもう【死んでしまった】し、この声はリューズとは全く違う女の声だ。
『やり直したいのであれば、誓約書にサインを』
そこで、ウォールは自分の前方に、何かが浮かんでいることに気付いた。
それは紙だった。国家で一般的に使われる用紙に近いが、質はこちらの方が遥かに良く見える。
そして紙は【黄金色】に輝いていた。
「…………」
ウォールは言葉が出なかった。
足下に水滴が落ちる。
ウォールは、泣いていた。
「…………ぅ…………」
本に関わる業務を始めてから30年以上。今まで何冊もの本を「選んで」きた。
しかし今──逆に本から呼びかけられた。自分は本から「選ばれた」。ウォールはそう感じた。
涙を堪えることが出来なかった。それが悲しみからくるものなのか、喜びからくるものなのか、ウォールにも分からなかった。
『やり直したいのであれば、誓約書にサインを』
言葉を最後まで聞く前に、ウォールは前に歩き出していた。
そして、手が紙に触れた瞬間。
「おお……────」
ウォールが、光に包まれた。
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