夜襲 -2-

 心地よい秋風が頬を撫でた。

 雲一つない青天の下、緑色の草原がサワサワと優しく揺れる。

 その丘の上は自分達の住んでいる町を一望でき、まるで広大なミニチュアを眺めているようだ。

 火神林カガミリンはイーゼルを立てて、カンバスに筆を乗せている。

 描いているのは町の風景。そしてその上空に浮かぶ、巨大な風船のような象。

 林の隣で、同じようにカンバスに向かっている女の子がいる。青柳アオヤギまどかだ。

 この丘は、半年ほど前にまどかと共に見つけた特別な場所だ。林が美術部にいた頃は、よく休みの日にここに絵を描きに出掛けていた。

 この場所にイーゼルを立てるのは、実に久し振りだ。気候が良いからか、それとも、まどかが隣にいるからか、林の筆はスムーズにカンバスを走っていく。

 ある程度の構図が出来上がると、林は一旦筆を止めて、隣の友達を見た。

 まどかはカンバスに顔を向けていて、ここからじゃよく顔が見えない。

 林はまどかに話し掛けてみる。

「アオヤギちゃん。そっちは順調かな?」

「全然進まない……私は林ちゃんと違って筆が遅いから……」

 まどかの弱気な声を聴いて、林はふふっと笑う。

「ゆっくり描けばいいよ。慌てて描いても、良い画は出来上がらないよ」

「描き終わるかな」

「描けるよ。時間はいっぱいあるんだ。のんびりとやろう」

 林は草原に寝転がり、秋の高い空を眺めた。

 自由というものはこういうことなのだろう。自分は今、それを堪能している。

 ここ数年……いや、きっと生まれた時からずっと味わうことの出来なかった自由が、今自分の皿の上によそわれている。自分は誰にも邪魔されず、それを口に運ぶことが出来るのだ。

 ようやく手に入れたんだ。まどかも隣に居てくれる。こうなると分かっていたのなら、もっと早く──

「…………?」

 早く、なんだ? わたしは……なにをしたんだっけ?

 そもそも、わたしは……なにをしていた?

 わたしはいつ、この丘に来た? わたしは学校に来て、その後、屋上から落ちて──

「どうして?」

 まどかのその言葉に、林は顔を上げた。

 まどかは筆を持ったまま俯き、カンバスの前で項垂れている。

「アオヤギちゃん……?」

 林は身体を起こす。

「どうして林ちゃんは、私を置いていったの?」

「なにを言ってるの……?」

 林は立ち上がる。

「どうしてここに……私一人だけが居るの?」

「アオヤギちゃん? わたしはここに──」

 林はまどかに近付いて、その肩に触れようとした。


 手が、まどかの身体を通過した。


「………………え?」

「どうしてっ! 私は……!!」

 まどかは地面に手を付き、声を上げながら泣き出した。

 林は、反射的にまどかの身体を支えようとするが、まどかの手にも、顔にも、髪にも触れることが出来ない。

「アオヤギちゃん! わたしはここに居るよ! アオ……」


「この世界から脱落したお前が、この世界のものに触れられるわけがないじゃない」


 林の足首を、湿った「何か」が掴んだ。

 その瞬間。丘の上の光景が一変する。

 雲一つない青天は、ドス黒い汚れた色に染まり、緑に輝く草原は、血の滴る赤い肉塊の大地に変わった。

 まどかの身体が浮いていく。彼女と、彼女のイーゼル、カンバス、鞄も、一緒に飛んでいく。

「アオヤギちゃん……!? 待って! 行かないで……!」

「その子が飛んでいるんじゃない。お前の身体が沈んでいるのさ」

 林の足首を掴んだ「何か」が再び喋った。

 足首に掛かる圧力が強まる。爪のようなものが食い込み、痛みを感じる。

「何か」が言うように、林の身体は赤い肉塊に段々と沈み込んでいく。林は必死にもがくが、林を引っ張る力は衰えない。

 まどかの姿が遠くなる。林はドス黒い空へその手を伸ばすが、届かない。

「あきらめろ。これが正道なんだ。お前の行く末は」

 側頭部に突き刺さる刃物のように、「何か」が告げた。

 林は、恐怖と絶望に身体を震わせながら、自分の足を掴む「何か」を見た。


 首から血を流した加々見麻耶カガミマヤが、ニンマリと笑っていた。



「──あああああああああああ!!」

 林はベッドから跳ね起きた。

 そこは王宮の一室、γと共に泊まっている部屋。

 暗く静かな室内には、ベッドの上の自分と、椅子に縛られたγガンマしかいない。

 γの目は開いていて、林のことをジッと見つめている。

「………………」

 林はシーツを掴んだまま、人形のように硬直している。

 室温は別段暑くもないのに、身体中に汗をかいていた。元々ボサボサとしている髪はさらに乱れ、目の下のクマはさらに広がったように感じる。

 ──どうして?

 どうして今更、こんな夢を見る?

 もう「あれ」は済んだ話だ。

 今という物語を始めるための、導入に過ぎないはずだ。

 わたしは、話の導入をうじうじと引き摺っているのか?

 引き摺る? あの女のことを? あり得ない。

 そうだ。引き摺ることなんて何もない。元の世界のことなど──


『また二人で一緒に、ちゃんとした絵を描きたい』


「っ!」

 林はハッとして周りを見た。

 部屋の中には、変わらず自分とγしかいない。

 林はγに話し掛ける。

「……ガンマちゃん。今なにか言った……?」

 γが首を振る。

「いえ、ワタシは何も」

「そっか……」

 林は下を向いて、息を吐いた。

 γが続けた。

「しかし、外からは確かに『叫び』のような声が聴こえました。そして、何かを引き摺るような音も」

「……は?」

 林は顔を上げる。

 そしてγの言う通り、部屋の外からズル……ズル……と、重いものを引き摺るような音が、今でも微かに聴こえる。

 林はベッドから起き上がった。

「……ガンマちゃんはここに居て」

「外に行かれるのですか」

「ちょっと確認するだけ……」

 扉まで歩いていく林に、γが声を掛ける。

「危険です。音の正体が判明していない今、一人で行動するのは推奨できません。それに外には護衛の方々が居ました。もしものことがあればそのヒト達が──」


 ドガァアンッ!

 隣の部屋から、壁を破壊する音が聴こえた。


「!!」

 音がするや否や、林は扉から離れ、γの元に駆け寄った。

 γを椅子にくくり付ける縄を、林はほどいていく。

「ガンマちゃん! よく分からないけどここにいるのはヤバい!」

「そのようです……」

 縄を解き終わると、林はγを抱えて部屋を飛び出した。

「────っ!」

 林はすぐに、部屋の外で何が引き摺られていたのかを理解した。

 部屋の外の回廊、その一辺に、赤く、長い線が引かれていた。

 線の終着点は、隣の部屋の前だった。隣の部屋の入り口は、何か巨大なものが突っ込んだように破壊され、穴が開いている。

 そして線の終着点に居るのは……血を流した、兵士だった。

「そんな……!」

 林が声を出したのも束の間、隣の部屋から大きな物音がした。

 次の瞬間、残った壁を吹き飛ばしながら、「それ」は林達の前に現れた。


「…………んア?」


 重機が稼働するような低い音程で、「それ」は言った。

 廊下の壁に掛けられたランプに照らされて、「それ」の姿が明らかになる。

 黄土色の体色。その身体は、表面をいくつもの「石」で覆われ……と言うより、いくつもの石が、人の形を成すように組まれたような姿をしていた。

顔に当たる部分に組まれた小石が、まるで微笑むように動いた。

「なんで城ノ、こんな兵士がゴロゴロいる所に人間の子供がいル? ……そうカ。お前たちが勇士なんだナ」

 ズンッ、という振動が廊下に走る。目の前の石の怪物が、一歩踏み込んだのだ。

「お前は……!?」

 林が目を開きながら言う。石の怪物は、グ、グ、グ、と軋むような声を出して言った。


「魔王四天王最強、石のグランキオ──侵入」



「なんだ!? いったい!?」

 二階の部屋に泊まっていたニコラスは、衝撃音を耳にして部屋を飛び出した。

 すぐ近くの部屋に泊まっていたウォールも、ちょうど廊下に飛び出したタイミングだった。

「ニコラス! 今のは!?」

「知らねぇ! 上の方からだ!」

 ニコラスとウォールの近くを、護衛の兵士達が慌ただしく走る。

 兵士の一人が、廊下の上を指差して叫んだ。

「三階だ! 三階の廊下に賊がいる!」

 ニコラスとウォールも、回廊の中央へ顔を出して三階を見た。

「!? おい! あいつらが!」

 ニコラスが叫んだ。

 ニコラスの眼には、γを抱えた林が、黄土色の巨人と相対しているのが写った。



「魔王四天王……!?」

 林がグランキオの言葉を反芻はんすうする。

「そのとおリ」グランキオが言った。「魔王様が直々に選んダ、魔物達の中でも最上位の存在。それが我ら四天王ダ。その中でも最強のオレが直々に勇士とやらを殺しき来たんダ。光栄に思エ」

「勇士を……わたし達のことを知ってるのか!」

 林が叫ぶと、グランキオは再びグ、グ、グ、という声を出した。

「知ってはいたガ……知らなかったナァア」

 グランキオが人間のように両腕を広げ、頭を振ってみせた。

「勇士って奴らガ、こんなに弱そうなんてヨ」

「……なんだと……」

 グランキオの反応に、林が顔をしかめた。

「勇士を守ってた護衛とやらモ、一瞬仕留めタ。お前らの強さもたかが知れるヨ」

 グランキオはゴツゴツとした足を上げ、下にいた兵士の身体を踏みつけた。

 兵士は何も言わず、身体を動かすこともなかった。

「……っ!」

 林はグランキオを睨みつけた。

「おい! 林! γ!!」

 下の方から声が聴こえ、林はハッしてそちらに顔を向ける。

 二階からニコラスが両腕を振っていた。

「無事か!? なんだそいつは……!」

「ニコラスさん!」

 林がニコラスに応える。ニコラスは続けて言った。

「逃げろ! 今ウォールのおっさんが一階の定藤サダフジと兵士を呼んでる! とにかく逃げろ!」

「………………」

 林は再びグランキオに顔を向けた。

「……ガンマちゃん」

 林が小さい声でγに言った。

「なんでしょう」

「ガンマちゃんはロボットだけど……頑丈に出来ているのかな?」

「……ヒトの身体よりは、多少の耐久を持っています」

「そっか……分かった」

 林はγの身体を強く抱きしめた。

「じゃあ……ミスっちゃった時は上手く耐えてね! ごめん!」

「は──」

 γが何かを言う前に、林は思ったことを行動に移していた。

「ニコラスさん! キャッチして!」

「は…………はああああああああああ!?」


 林はγの身体を抱え、三階から二階のニコラスに向かってγを投げた。


 ニコラスは落ちてくるγを、危うくキャッチした。γは幼い子供の姿をしているが、腕に感じた衝撃はまるで砲弾を受け止めたようだった。

 しかしニコラスはすぐに体勢を立て直し、再び三階を見た。

 γも驚いた顔で、ニコラスと同じ方を見た。

「そんな……林様っ」

「うそだろ……あの馬鹿っ!」


「一人であの化け物と戦うつもりか!?」



「……なんダァ? 仲間を一匹だけ逃がしテ……まさかお前、一人だけでこのグランキオを倒せるつもりカ?」

 グランキオは一人になった林に向かって、また一歩を踏み出す。

 ズンッ、という衝撃が、再び三階の廊下に響く。

「魔王四天王ヲ、舐めてるようだナ」

「舐める?」

 林はニコラスがγを無事に受け止めるのを確認すると、グランキオに向き直った。

「舐めてるのはお前だよ。お前はわたし達を舐めてる……特にこのをね」

 林の言葉に、グランキオは頭部を傾けた。

「火ノ……? ッ! まさカ! お前ガ……」

「気付くのが遅い!」

 林がそう告げると、彼女の右手首の周りを火炎が旋回し出した。

 髪と瞳がマゼンタに染まり、林の右手から火が膨れ上がる。

 廊下が赤く照らし出され、グランキオの影が壁に映し出される。

 林は右手をグランキオに向けて叫んだ。


「マルスレッドキャノン──!!」


 林の右手から猛烈な火炎が発射された。

 火炎はグランキオに直撃し、その後ろの壁にまで到達した。

 回廊の一角が、巨大な炎に包まれた。


「な、な、な、な、な……!」

 三階の惨状を目撃したニコラスは顎が外れんばかりに口を開けた。

「ばっかおまっ……火事でも起こすつもりかぁ!?」

 叫ぶニコラスに向かって、マゼンタ髪の林は「あはは!」笑って見せる。

「この階にはわたしとガンマちゃん以外は泊ってなかったからね! それにわたしが熾した火は、わたしの意思で消せ……」


 林がそこまで言った瞬間。

 前方の火柱から、黄土色の石が高速で飛び出した。


「────っ!!」

 石は林の頭を少しだけ掠め、そしてブーメランのように火の中へ戻っていった。

「……思ったよりも強力な能力ダ。火が邪魔で上手く当たらなかったじゃないカ」

 火柱の中から、グランキオの声がした。

「……うそでしょ」

 林が呟くと、太い黄土色の腕が飛び出し、火を振り払った。

 無傷のグランキオが、何事もなかったかのように姿を見せた。

「なるほド……確かにこの熱量ならバ、『水練』共がやられるのも無理のない話カ……しかシ」

 グランキオが三歩目を踏み出す。振動が三階の廊下に走る。

「このグランキオに貴様の火は通じなイ……いヤ、剣モ、槍モ、あらゆる武器や攻撃だろうト、この身体を穿つことは不可能ダ」

 四歩目。グランキオの巨体は、林の目前に迫った。


「一つ教えておいてやろウ。このグランキオに。だからこそオレは最強なのダ」

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