勇士 -3-
ニコラス・ニコットは、森の中を全速力で駆けていた。
彼は今、逃走を図っている。
何から? 何もかもからだ。
見たことのない鎧を着た兵士。得体の知れない緑色の化け物の集団。そいつら同士の争い。
そして──この世界から。
「っ!!」
木の根に足を取られ、ニコラスは前のめりに転倒した。
ニコラスはしばらく硬直していたが、振るえる手で地面を掴み、そして土の付着した顔を上げる。
「……プラターネェエエエ────!!」
ニコラスは絶叫した。
「見ているよな!? 見ているんだろう!? 早く『光の契紙』ってやつを出せ!! ここから俺を出せ!!」
ニコラスの叫びに対する、返事の声はない。声は森の中にエコーし、木々に留まっていた鳥達がバサバサと飛んでいく。
ニコラスは地面を思い切り殴った。
「だからっ……俺は! こんなところに来たくなかったんだ! 余計なことに首を突っ込まなけりゃ痛い目に遭わなくて済むんだ! なのにあいつら……あのクソッたれ共は……!」
ニコラスは、この世界に来る数分前のことを思い出す。
彼らはニコラスを見つめた。ニコラスはその目に覚えがあった。
自分が故郷を出るか出ないか決めかねていた時に、決断を迫った仲間たちの目だ。
ニコラスは、その目に軽蔑を感じ取った。自分達が「勇気」を持って決断しているのに、なぜお前は決められないんだ? という軽蔑を。
ニコラスからすれば、彼らの「勇気」方が甚だ疑問だった。危険だと分かる道にわざわざ突っ込むことの、一体何が偉大だと言うんだ?
しかしニコラスは、彼らの中に、一人だけ違う目をしている者に気付いた。
キャンサーγだ。
彼女は、自分と同じように望んで異世界に来たわけではなさそうだった。定藤達に従ってはいるが、それは命令を聞いているというだけで、本心では元の世界に戻りたいようにニコラスは感じた。
彼女がロボットという点だけニコラスの心に深い影を落とすが……彼女と協力すれば、元の世界への帰り道が見つかるかもしれない。ニコラスはそう企み、表面上、彼らと共に異世界へ行く格好を見せたのだった。
そしてその表面上の形だけでも、自分は大いに失敗したのだと、ニコラスは後悔した。
この世界に来て、上手い具合に林からγを奪うことが出来たまでは良かったが、直後にあの化け物共の襲撃に遭った。
儀礼堂の倒壊から運よく逃れたニコラスは、我を忘れて森の中へ駆け込んだ。
来るべきではなかったのだ。どんな危険が待っているのか、それすらも分からないのに。
「……!」
ふと、ニコラスはあることに気付いた。
「……どこ行った? あいつ……」
ニコラスは起き上がり、周囲を見回した。しかし、自分以外の生物の姿は一切見当たらない。
「どこだ……!? どこ行った!? ……ガンマ!」
さっきまで背負っていたはずの「協力者」、キャンサーγの姿が忽然と消えていた。
林は、信じられない光景を見ている。
キャンサーγが、あの小さな少女のロボットが、ゴブリン達との戦闘区域から少ししか離れていない場所を独りで歩いているのだ。
足取りはまったくおぼつかない。そこから離れようとしているのか、留まろうとしているのかも定かではない。
「どうした林っ……ちぃ! 邪魔よ!」
定藤が後ろから襲い来たゴブリンを斬る。一体目を斬っても二体目、三体目がさらに迫ってくるのが見える。
定藤はまだγに気付いていない。林は儀礼堂の方を見やる。
ウォールが気絶した少女を木の影に隠してから、何の変化もない。おそらくはまだ、そこで身構えていると考えられる。γの姿は確認できていないだろう。
定藤と共に戦う兵士達も、前のゴブリンに掛かりっきりだ。
ニコラスは安否すら分からない。
γに気付いているのは自分だけだ──林の心臓が強く揺れた。
どうする。定藤にγのことを伝えるか。
いや、伝えたところで、ゴブリンのほとんどを引き受けている定藤を、この場から動かすことはできない。
ウォールに呼び掛けるか。ダメだ。せっかく離れたゴブリン達を、再び儀礼堂の近くに呼び寄せるかもしれない。
……今、まだγの近くにゴブリンはいない。
「林っ! 何をしておる早く背に……」
定藤が振り向いた。
林がγ目掛けて走り出していた。
「!? なに!?」
定藤が後を追おうとするが、飛んできた矢に気を取られ足が止まる。
林は一切の速度を緩めず、γに向かって直進する。
今、この一瞬で自由に動けるのは自分だけだ。そしてゴブリンが近くにいない今だけが、γを助けられるチャンス。
林はこの先の動きをシミュレートする。このままγに飛びついて彼女を確保した後、定藤の下に戻るか? いや、それでは定藤の負担を増やすだけだ。ウォールが隠れた木に向かう? それも危険だ。今ウォールは気絶した少女に掛かり切りだろうし、本人も怪我をしている。自分とγを彼に守ってもらうわけにはいかない。
となると、最適なのはγを抱えて、そのまま森の奥に駆け込むしかない。そこでまた別の隠れられる木なり岩なりを見つけるのだ。
数秒でシミュレートを終わらせた林は、γの目前まで迫った。γが林に気付いた。もう少しだ。林はγに手を伸ばして──
「───リンっ!! そっちに行くなァ!!」
誰かの叫びが聞こえた。林の目が一瞬、声のした方に向く。
森の奥で、こちらに向かって走ってくるニコラスが見えた。
無事だったのかと林が考える間に、γが口を開いた。
「伏せてくださいっ
「え?」林が咄嗟に後ろを見た。
ゴブリンが放った矢が、林の目前にあった。
林は察した。伏せるのは間に合わない。
どうする。どうもできない。
この矢はどこに刺さる? 頭? 胸?
刺さったら、自分は──死ぬ?
それはまったく無駄な行為だと林自身分かっていたが、林は目を閉じた。
「その瞬間」がいつまでも訪れず、林は目を開けた。
「……!?」
林とγは、折り重なるように地面に倒れていた。
γは林を見ていなかった。林もγを見なかった。二人とも、ただ前方を見つめていた。
定藤が、その左手で矢を受け止めていた。
「定藤さん!?」
林は、定藤が林の後を追って、攻撃から守ってくれたのだと思った。
だが、その考えはまったく違うと林はすぐに気付いた。
──気付いたが、理解は出来なかった。
「…………え?」
林の目の前に居るのは確かに定藤だ。ボロボロの日本の鎧を着て、この世界の長い剣を持っている、髭を蓄えた侍。
だが、林がさっきまでいた、ゴブリン達と戦っている地点。その場所に、定藤は変わらず居続けていた。
「……二人いる。定藤さんが……二人いる!?」
「……なんじゃ、これは……?」
定藤は、今見ている光景が自分でも信じられなかった。
時はほんの数秒前だ。自分の背から落とされた林を、定藤は何とか引き上げようとした。
すると何を思ったのか、林がその場から急に駆け出した。
矢に気を取られ、一瞬確認が遅れたが、林の目の前には、γが独りで居た。林は彼女を助けようとしているのだと定藤はすぐに気付いた。
そう理解したのも束の間、自分の頭上を、一本の矢が高速で飛んでいった。
すぐさま、その矢の命中する場所が分かった。林の頭だ。
定藤は林に駆け寄ろうとした。不可能だ。どれだけ研鑽を積もうと、人が矢より早く動けるわけがない。
だが、定藤は林を助けようとした。遠くにいる林を間近に感じた。林が目を閉じるのを見た。
次の瞬間には、定藤はその左手で、矢を掴んでいた。
しかし定藤は、同時に自分は一歩も動いていないことにも気付いた。
目を疑った。自分と寸分変わらぬ姿の者が、林とγの前に立ち、自分の代わりに彼女らを守っている。
だが奇妙なことに、定藤は、遠くにいるその者も「自分自身」だと認識した。
「……」
定藤は、左手に持った矢を放そうと考えてみた。
するとすぐさま、林の前にいる定藤が、矢を放した。
自分が命じたから放した……のではない。自分自身が矢を放したのだという、確かな認識があった。
「……あれは、わし……か? 何故、わしがもう一人あすこにおるのじゃ……?」
定藤は呆然としていたが、それもすぐに中断された。
「っ!」
ゴブリン達との戦いは終わっていない。定藤はゴブリンの棍棒を寸前で避けた。
「リン! 無事か!?」
森から抜け出したニコラスが、林とγの下に駆け寄った。
「う、うん! ニコラスさんもご無事で」
「……俺のことはいい! いいからさっさと隠れ……嘘だろ!?」
ニコラス達の下へ、ゴブリンが一体突っ込んで来ていた。
ニコラスが林とγを庇うように前に立つが、ニコラスは丸腰だ。そこに棍棒を振り回しながらゴブリンが迫る。
「うおぉおおおっ!」
ニコラスが叫んだ。林がγを覆うように抱えた。
「──っ!!」
ゴブリンが、斬り伏せられた。
「なっ……!」
ニコラス達の前には、定藤が居た。
林は最初、自分を守った定藤がゴブリンを斬ったのだと思ったが、そうではなかった。
それは、三人目の定藤だった。今、林の近くには、二人の定藤が居る。
「……!?」
「これは、いったい……いや何体居るのだ!?」
兵士達の間で動揺が走っていた。
さっきまで彼らは、少ない人数で大勢のゴブリンを必死に防いでいた。そこに定藤が加わり、何とか命を繋いでいた。
今、その定藤がここに四人、いや、五人も居る。
一人ひとりの定藤が、剣を振り、攻撃を防ぎ、兵士をサポートする。
そして次の瞬間には、五人居た定藤が六人に、そして七人に増える。
定藤は、その全ての行動を、完全に自分でコントロール出来るということを理解した。
定藤が、息を吐いた。
「──さて。まったくもってわけが分からぬが、今のわしはどうやら『増える』ようじゃのう……とならば、やることは一つよ」
「……っ!?」
ゴブリンの軍団が、身じろぎした。
彼らの前には今、20人以上にも及ぶ定藤が立ち塞がっている。
中央に立つ定藤が、剣を前に出した。
「さあ皆のわし。生意気な小鬼共を、一匹残らず討ち取ろうぞ」
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