あふれる雫をそそいで


 小里おざとひいらぎの今後の方針が一つ定まったことで集まりは解散した。


 玄関まで見送りに出た静音を奈緒が振り返る。


「静音さん、大丈夫ですか? 緒呉から帰ってから目の焦点が合ってないときありますよ? お疲れなんじゃないですか〜? 顔色も悪いですし」


 年下の少女にそう心配されてしまった。静音は眼を細めて微笑む。


「ご心配には及びません。ですが……ええ、少し激務が続いていましたからね。明日は見張りも非番ですので、ゆっくりしようと思います」


「シフト制採用してんですかこの屋敷。辛かったら真信先輩にちゃんと文句言うんですよ!」


 ビシっと忠告して奈緒は帰っていった。風鈴の見送り音が消えていくのを聴きながら、小さくため息をこぼす。


「そんなに酷い顔をしていたでしょうか……」


 自分では気づかなかったが、人の表情をよく観察している彼女が言うならそうなのだろう。真信に気付かれる前に気を引き締め直さなくては。多忙な彼に余計な心配をかけていられない。


(……最近、真信様とゆっくり話す時間もとれていませんね)


 とはいえそれは今に始まったことではない。自分と真信はあくまで主従関係でしかないのだから、雑談など交わす余裕がない時だって多い。だが少なくとも平賀にいた頃は常に一緒だった。一番近くにいたし、一番頼りにされていたと思う。付き人なのだから当然だ。だが最近はどうだろう。


 平賀を出てから真信は変わってきた。


 一番は業務外でも他人を信用するようになったことだろう。特にあの三人に対しては特別心を許しているように感じる。


 一人目はもちろん最初に心を開いた相手、樺冴かご深月みつき。真信の現在の行動基準は彼女のためになるかどうかにある。静音もそれをくみ取って行動しているつもりだ。


 二人目はマッドだが……真信は元からマッドを警戒対象とは捉えていなかった。マッドの平賀での立ち位置が特殊だったせいだろう。彼女が人を殺すモノを作らないという点に関しては、平賀時代から門下も含め皆が確信していたことだ。


(それにしてはプライベートスペースで毒草ばかり育てているのを見かけますが……。毒物から薬を精製するのは珍しいことではないですね)


 三人目は今しがた帰った木蓮もくれん奈緒なおだ。彼女を信頼する気持ちは静音にも理解できる。洞察力が鋭く、他者への気遣いを自然と行える人物だ。特別善人というわけでもないが、人柄が充実しているというのだろうか、奈緒はごく当たり前にこちらの柔らかい部分に踏み入ってくる。しかもそれが不快ではなかった。


(何より、奈緒さんと真信様の間には我々の知らない繋がりがあるように感じます。奈緒さんが復讐をやめたことと関連があるのでしょうか?)


 ともかく真信にとっての“大切”は、これからも増えていくのだろう。


 それは彼にとって素晴らしいことのはずなのに、胸がざわざわと落ちつかない。


 思うのだ。そのうちの一つに自分は入れているだろうか。彼女たちの存在に自分の影は埋没してはいないだろうかと。


 誰より尽くし、誰より近く、誰よりも真信の幸せを願う。


 静音がずっとそうして来たのは、献身の果てに行き着く終点を求めているからだ。自分の忠義は一番でなければならない。その自負もある。だってこれまで静音は己の全てを真信へ捧げてきたのだから。


(けれど真信様は平賀を出てしまいました。一度は私から離れてしまった)


 だからこう考えてしまう。

 自分の献身は、真信にとって無価値なものかもしれない。


 それでは駄目なのに。


 だが静音には、この方法しか思いつかないのだ。

 自分の願いを叶える方法を。欲望を満たす手段を。


 己が恥ずべきこの願望を、彼にさとられず遂げるためだけに生きてきたのに。


 無意識に足音を殺し考えごとをしていると、廊下の向こうにその真信が見えた。ひいらぎも一緒だ。二人でなにやら話し込んでいる様子だった。


 今度は意識して気配を消した。ちょっと遠回りして二人に近づく。一部屋あいだを取って潜み、壁越しに会話へ耳をすませた。


 全くタイプの違う声が聴こえてくる。


「お前の妹、そんなヤバいんか」


 少しかすれた乱雑な声音は柊のものだ。対する真信の声は、静音たちと話す時よりも心なしか調子が軽い。


「思考回路に人並みの罪悪感とか倫理観がないんだよね。その上戦闘力は幼少期でも飛びぬけてた。どう育ったのか想像もできないけど、奈緒の報告を聞く限り、最悪殺し合いを避けれないかもしれない」


「どんな妹なんじゃそれは。いいのか? その頭ん中血みどろお花畑の妹、お前の家族なんじゃろ」


ひどい言いぐさなのになんだかしっくりくる呼びかたしてくれちゃって。まあ……永吏子えりことは普通に話がしたいと思う。僕の立場的には、生かされてた理由とか逃げ出した目的とか、そういうことを優先して聞き出さなくちゃいけないんだろうけど」


「ああ? なんじゃ立場て。周りに指示だしてるあれか? それ言うならお前は妹が生まれた瞬間から兄じゃろ。どう考えゆうて血縁が先じゃろ」


「あははっ、そういう問題? でもそっか、そうだね。けどなぁ。妹と会うの怖いんだよなぁ。話したいけど会いたくないんだよ。これおかしいよね。自分でも自覚あるんだけどさ」


「別に? そりゃ死んだと思ってた身内が生きてりゃ怖いじゃろ。俺はお前らが身分偽ってたことも十分怖いけどな。なんじゃ大学生って。年下んクセして」


「その節はだましてて本当にごめんなさい」


 真信が頭を下げる気配がする。緒呉に潜入する際、メンバーは全員偽名を使い立場も大学関係者と偽っていた。だがこれは正体を隠すための一時的なものだ。屋敷に滞在することになった柊にそのまま通すものでもない。ゆえに騙していたことと事のなりゆきを説明したのだ。


 柊はどうでもよさそうに受け入れてくれたが、騙していたのは事実。静音も心の中だけで頭を下げた。


 その後、二人は少し本筋から外れて雑談をし始めた。性格的に気が合うとは思えない二人だが、意外と話は盛り上がっている。年の近い同性──しかも仕事と関係のない──と話す真信の声を、静音は始めてしっかりと聞いた。静音の知らない気楽な声音だ。きっと、今彼が浮かべる表情も静音が見たことのない色をしているのだろう。


(…………)


 微かな寂寥せきりょう感が胸に浮かぶ。今すぐ飛び出して真信の顔を覗きたくなる。彼の瞳が自分の知るものから遠ざかってしまってはいないか確かめたいのだろう。


 それをしないのは、予感を確信へと変えたくないからだ。


 だがその誤魔化しをいつまでも続けられるほど現実は甘くなかった。


「はっ。お前が妹に泣かされたら指差してゲラゲラ笑うじゃろうなぁ」


「酷いな。でも僕、自慢じゃないけど物心ついてから泣いたことないよ」


「ガチで自慢にゃならんな。どうせウソじゃろ。うちのガキ共は小学生になってもびゃんびゃん泣きよったぞ」


「本当だよ。怪我してもけなされても、僕のせいで門下──部下が死んでも、妹の処刑日にだって僕は泣かなかった。泣いたら負けだって思ってたから」


 楽し気だった少年の声がかげる。


「でも変だよなぁ。もし深月が死んだら僕は泣くと思うんだ。あれだけ頑なに涙を堪えてたのに」


「……そんだけ大事ってことじゃろ」


「うん。彼女は僕の特別だ。何よりも一番だ。でもその上で、僕はやっぱり永吏子えりこと話がしたい。どれだけ危険な存在に育ってても。誰に止められても。一目会いたい。会って話がしたい。──だから柊君」


「何じゃ。手伝え言うのけ」


「いいや。ひいらぎ君があの双子と会いたいなら、僕は全力で応援するよってこと」


 キミの気持ちは分かるから、と。真信が笑う。ひいらぎは大きな舌打ちを漏らした。


「ちっ。それ言いたかっただけじゃろ」


 どこかねたような言い方だ。彼なりに照れているのかもしれない。少年もつられて恥ずかしくなった。


「ははっ、まあね。送り出しちゃったのは深月だから、君たちを会わせる役目は僕かなぁって。

 …………ん?」


「どうしたんじゃ」


 真信が辺りを見渡す。だが思い浮かべたものが見当たらないようで首を傾げた。不審に思った柊が同じように周りを観察するが何もない。真信はひび割れた石の隙間へ逃げゆく百足むかでを気にするように眉をひそめた。


「いや……嗅ぎ慣れない視線を感じた気がしたんだけど……。まぁ、いいか」






(そんなはずありません)


 二人の少年から速足に遠ざかりながら、静音は頭の中をぐるぐると駆け巡る思考を止めようと必死になっていた。


(……ない。そんなはず──)


 四畳半の狭い和室に辿り付いて中へ飛び込む。部屋には几帳面に畳まれた布団と小さな箪笥たんすがあるだけだ。空き部屋のようにしか見えないが、これが静音の私室だった。


 後ろ手に障子を閉めて、そのまま畳の上を滑るようにして腰を下ろす。


 短髪を無理やり縛っていたゴムを人差し指に引っ掛け、後ろをほどく。前に流れてきた黒髪が横顔を隠した。


「真信様は、泣かないのです……」


 付き人になる前も、なってからも。真信が涙を見せたという話は聞かない。他者から罵倒を浴びせられた時も、自分の判断ミスのせいで広がった門下の集合墓地を見つめる時も、彼は苦し気に目を細めるだけで決して泣かなかった。


 平賀真信は冷血な人間ではない。むしろ本人が言うように、身内と見なした相手には依怙贔屓えこひいきしがちですらある。それでも彼は、他人に対して最後の一線を保ち続けているように見えた。


 誰も信用しない。誰も心に入れない。

 自分だけは騙されるまいと。誰かのために流すなみだなどないと。そう震える目頭が語るようだった。


 けれど深月を筆頭に、真信は他人に気を許すようになった。平賀に居た頃から比べると他者への警戒心が断然下がっている。一度心を開いたことでたがが外れたかのように。


薄暗い殺風景な和室に、静音の不規則な呼吸音だけが染みていく。


「私は、真信様に泣いて欲しいのです」


 それが静音の願いだった。それだけなら優しい願いかもしれない。


 けれど平賀の生活ではぐくんだこの願いは、他の門下の代償行為と同様にひずみ、むしばまれている。


「私にだけがいいのです。……私が死んだ、ときにだけ……」


 零すのは静音が主人からずっと隠してきた本心だった。


 誰のためにも泣かないあの少年に、自分しずねのためにだけ涙して欲しい。そして、他の誰のためにも決して泣かないでほしい。貴方の涙にあたいするたった一人になりたいと。それこそが、意味のない消耗品である静音の人生に価値を与えてくれるのだと。


 静音の死に深く傷ついて、どうしようもないほど打ちのめされて、止められない涙を死体に降らせて欲しい。願わくばたった一人の女の死を永遠に引きずって生きて欲しいのだ。


 想像するだけで甘美に身が震えるこの夢のために命をかける。

 それこそが異常な世界で静音が自分の心を保つための代償行為。


 己の全霊をかけて少年に仕え、助力し、時には己の心さえ殺す献身を。

 全て真信のためとうたいながら、けれど全てが自分の願いのためだ。


「なんて醜い願望なのでしょう」


 自覚しながら捨てられないのは、己の根幹にまで絡みつき根を張った欲望だから。


 これほど汚れた心根なのに、そこから溢れる真信のためにという想いは本物だから。


 真信には幸福になってほしいと思う。けれど自分のような薄汚れた人間が彼の側にいるには、その道程は眩しすぎて。置いていかないでと、私の願いを見捨てないでと子供のように追いすがりたくなる。どうせ、同じ道をなぞる資格などありはしないのに。


「こんな私が……どうすれば貴方のお役に立てるのですか……」


 膝に顔をうずめて目を閉じる。


 真信はこれからも変わっていくだろう。そうして彼が平穏を手に入れたとき、そこに静音の居場所はあるだろうか。


 付き従うことしかできない女などもう必要ないと、捨てられはしないだろうか。


「けど……変われない。…………変わらないでください、真信様……」


 このままでは絶対に、私の願いは叶わない。


 それだけが確かだ。



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