花ほころぶような


 たった十数秒でもう胸が騒がしくなっていけない。


 静音はコンタクトポイントに身を潜ませ、彼が来るのを待っていた。ホテルの敷地と公園が隣接する雑木林。いつも時間前に現れるはずの真信の姿が、柵の向こうになかった。


 周囲を警戒しつつ腕時計の微かな振動が刻む時の進みを意識する。あと二十秒待って主人が現れなかったら動こう。そう決めて。


 あと五秒、四秒──数えていると予想の方向から少年が息を切らせてやって来た。


「ごめん、一分遅れた」


 走って来たらしい。せっかくヘアワックスで固めた髪型がすこし崩れてしまっている。静音は柵越しに手を伸ばし、彼の額の汗をハンカチで拭った。


「何かあったのですか」


伊佐いさ尚成たかなりと会った。イナーシャが来てる。それに──いや。先に今後の流れを少し調整しよう」


「はい、真信様」


 どうやら予想外の邂逅かいこうがあったようだ。だが真信は通常を装って最終確認に入った。静音も彼に合わせるようにして確認に集中する。


 警備の現状や実際に現地に入って確認した情報を、真信と共有する。


「平賀の人員は見た?」


「いえ、私含めまだ誰も。来場客は未確認ですが、正規の警備員と会場スタッフの中にそれらしき姿はありませんでした」


「僕もだ。僕らを避けているか、変装しているか、もしくは本当に沈黙するつもりなのか? 僕も門下全員の顔を把握できてるわけじゃない。いずれにせよ警戒は続けて。イナーシャの動きも気になる。退路は常に意識するように。みんなのために、出来ることは全部やろう」


「了解です。連絡は密に。それと真信様」


「なに?」


「こちらのことは私にお任せください。ですので……まだ時間に余裕はあります」


 真信の瞳をじっと見つめる。すると硬くなっていた眉間がふとほころんだ。


「ありがとう、気をつかわせた」


「いえ。どうかしたのですか」


「……永吏子えりこはイナーシャにいる」


「──! 永吏子えりこ様が」


伊佐いさ尚成たかなりを通じて連絡があった。声しか確認できなかったけど本人に間違いない。今日ここに来てるかは不明だけど」


「それは…………」


 なんということだ、と静音は歯がみした。こんな重要な時に永吏子えりこが現れるなんて。


 優しい真信のことだ。永吏子えりこが気になって、今すぐにでも事態の究明を急ぎたいはずなのに、こうしてどうにか仕事を優先させているのだろう。そんな心労を抱えている彼に自分がしてあげられることがないなんて。


 己の不甲斐なさを心底悔やむ。こういうとき、静音が深月たちのような才能あふれる人間ならば、彼の重荷を少しでも軽くできる何かを思いつくだろうに。静音にはただ彼の命に忠実に従うことしかできない。


「ふっ」


 思わず下を向いていた静音の頭上から抑えたような笑い声が聴こえた。

 顔を上げると、真信が口元を手首で隠し肩を震わせている。


「真信様?」


 何が起きているのか分からず首を傾げると、真信がさらに喉を鳴らす。


「くくっ、いやごめん。静音が僕なんかよりよっぽど深刻な顔してるもんだから、なんかおかしくて」


「なっ、何か変ですか……?」


「いいや大丈夫。そうだよな。キミはそういう女性ひとだよね。ほんと……うん」


 真信がふっと息をついて、静音を柔らかに見つめた。


「なんだろ、キミがそうやって僕より真剣に僕のことで悩んでくれるから、ちょっと気持ちが楽になるっていうか。たぶん、静音のそういうところにけっこう救われてるんだよ、僕は」


 言って真信は鉄柵の隙間に両腕を差し込み、静音の手を取った。


「ありがとう。静音がいてくれたから、僕は僕として今ここにいられる」


 ぎゅっと静音の手が真信の両手に包まれる。少し汗ばんだ手の平の熱が静音の全身を駆け巡った。


 少年を見返す。視線がぶつかるとその目が肯定するように温かく細められた。

 口元に控えめな喜色を浮かべた少年の微笑み。それを見て静音の中で点と線が繋がる。


 まるで、ずっと塞ぎ込んでいた視界が急に開けた気分だった。


「真信様……」


「うん?」


 真信が言葉を待っていてくれる。静音は自身の中に芽生えた大きな感情をそのまま告げた。


「好きな物、見つかりました」


 ずっと自分のために望む綺麗な感情ものなんてないと思っていた。彼に静音のために涙して欲しいなんて、そんな我欲の塊みたいな望みしかないのだと。


 けれど見つけた。静音が自分のためだけに欲する、キラキラ輝く大切な物。


 ──あなたが笑ってくれるだけで、私を覆っていた暗いものが全部晴れていく。


(私は、貴方の傍に居たい。貴方の笑顔を見ていたいのです。……その笑みが大好きですから)


 湧き上がる感情につられて、自身も小さく微笑をこぼす。

 この満たされる幸福を何と伝えればいいのか、上手く言葉が見つからない。そのじれったさすら愛おしい。


 感動のまま口を開こうとして、腕時計が小さく告げるタイマー音に遮られた。事前に設定してたものだ。人員の交代が迫っている。もう仕事へ戻らねばならない。静音は少年の手を優しくほどいた。


「時間ですね、警備に戻ります」


 名残惜しさを胸に隠して、静音は一度だけ振り返る。


「私の好きな物、今度お教えしますね」


 それだけ言い残して逃げるように駆けだしていた。


 彼の熱の残った手を胸の前で握り締め、静音はほっと安堵の息をつく。


 よかった。

 あれ以上手を繋いでいたら、この心臓の鼓動が彼に伝わってしまっただろうから。






 静音が去った鉄柵の向こうで、真信は頭を抱えていた。


 彼女が振り向きざまに見せた笑みがチカチカと視界をよぎる。


「なんだ……今の」


 心の底から嬉しそうな子どもみたいな笑み。なのにどこかはかなげで、去っていく彼女の背につい手を伸ばしてしまうくらい魅力的な。


 今まで見たことがなかった、彼女の表情。


 それがまぶたに焼き付いて頭から離れない。


「なんだこれっ、顔……熱い」


 声がうわずる。心臓がうるさい。絶対に耳が真っ赤になっている。しかも自分でそれを止められないときた。


 真信は深呼吸をしてなんとか自身を落ち着けた。それでもまだ鼓動にさっきの名残が消えない。


「静音に見られなくてよかった……」


 こんなの、威厳もへったくれもありゃしない。



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