変調の萌芽編

妹という生物


 真信は事前に調査していた人気ひとけのないルートを慎重に進んでいた。

 ホテル後方の雑木林が公園の一部となっていた。その簡単に舗装された道を駆け足で行く。


 見張りが目を光らせる会場周辺。本来ならば付け入る隙のない布陣であるが、警備に身内を潜り込ませているからこそ、を生み出すことができる。その警戒範囲一番端の十数分間こそが、会場潜入組と警備組がパーティー前に直接コンタクトできる最後のポイントであった。


 もちろん開場後も無線で連絡はとれる。だが声だけの情報交換は、顔を突き合わせて行うそれにどうしても劣る。だからこそ真信は、多少の危険を冒してでも接触を優先させてきた。


(それに、結局あの視線が誰のものなのか判明しなかった)


 緒呉の事件以降、観察されているような奇妙な視線を感じていたのは真信だけではない。屋敷勢の誰もが程度の差はあれ感じているらしかった。唯一静音しずねだけはそれを報告してこなかったが、些細な問題だ。


 問題は、視線の出所が分からないということ。部下たち全員にそれとなく探りを入れたが怪しい者はいなかった。だが間違いない。条件を精査すればすぐ分かる。視線は内部のものだ。


 そう思っていた。だから真信は身内を疑っていた。誰かが何かの目的をもって、自分たちを見張っているのだろうと。


 だがそうだとすればおかしい。


 だって真信は、


(まだポイントまで距離がある。周囲に人がいないのは確認済みだ。なのに視線が肌の上を這ってくみたいなこの感覚はいったい──)


「あれ、真信君だ。奇遇じゃん、元気してた?」


「は──?」


 だしぬけにかけられた気抜けた声に真信は危うく転ぶところだった。


 駆け足を止めて声のほうを振り返る。木陰になったそこにいたのは、中学生くらいの少年だった。夏だというのに真っ黒なスウェットで全身を覆っている。だが跳ねた頭髪の一部に白い毛が混じっていてそこだけ空間に浮いているようだった。


 自主練中の中学生が休憩しているようにしか見えないが、この男を知っている真信はその可能性を即座に脳裏から閉めだした。


「い、伊佐いさ尚成たかなり?」


「あ、覚えててくれたんだ。嬉しいな。久しぶりぃ」


 ひらひらと手を振ってくる。

 男は中学生ではない。どころか未成年でもない。彼は呪術者を撲滅せんと活動するイナーシャに所属する歴とした成人だ。


 イナーシャの一員である氷向ひむかい綾華りょうかはカミツキ姫と平賀関係者を殺そうと襲って来たが、この男にそういう熱情はないようである。むしろ緒呉ではずいぶん助けられた。


「こんなところで何してるんですか」


「もちろんイナーシャの仕事だよ。ほんと面倒だよな。帰って晩酌してエロビ見て寝てぇぜ」


 尚成たかなりがやれやれと肩をすくめる。


「イナーシャが来てるのか。……あなたがたの目的はなんです」


「知ってるけど言えない。嘘は嫌いだから適当なことは言えないし、だから君がそこから何かしら情報を得るのも不可能。ごめんな」


「…………いや、教えられるわけないのは分かってたんで……」


 軽い言葉とは裏腹に心底申し訳なさそうな表情の尚成たかなりに真信は何も言えなくなる。尚成たかなりは深くため息をついた。


「にしても来ちゃったかぁ。てことはカミツキ姫もいるよな。君らが今日ここに来ないよう、わりと手を打たれてたって聞いたんだが」


 沈痛な面持ちを手の平で隠す。すると彼の纏う雰囲気が変わった。男が顔を上げ、指の隙間からその視線が真信を貫いた。見た目からは想像もできないほど重い信念を秘めた眼差し。そこに彼の積み上げてきた歳月を感じて、少年は息を呑む。


 尚成の口から飛び出したのは思いもよらない言葉だった。


「悪いことは言わない。帰りな」


「はぇ?」


 思わず変な声がもれた。尚成たかなりはそれを茶化しもせず真剣な眼差しのまま靴先でコツコツと地面を蹴る。


「あのホテルはじき地獄になる。呪術者への罠みたいなもんなんだ、今日のこれは。だから逃げろ。関わんな。なんなら、後から今日の情報は俺が全部流してやるからさ」


 それは嘘偽りのない、真信たちの身を案じた真っすぐな言葉だった。

 この男は本心から言っているし、本当にそうするだろうことが嫌でも伝わる。


 なぜそんなことをとか、どうして味方してくれるのかとか、そういうことが煩雑と脳裏を占めるよりはやく、真信の頭に浮かんだことがある。


 そんなことをして、この男のイナーシャでの立場はどうなる? ほとんど裏切りみたいなことをして罰せられはしないのか。


「そんなの、できるわけないだろ」


 自分たちのために尚成たかなりの身を余計な危険にさらすことはできない。そんな思考が言葉を滑らせる。真信ははっと口をつぐんだが、尚成たかなりは違う意味で受け取ったようだ。


「だよな。悪い、今のは忘れて。でも忠告はしたからな」


 どうやら真信が彼を心配していることには気づいていないようだった。真信はその勘違いをあえて指摘せず、話題を変えた。


「教えてくれませんか。双子は貴方のところにいるんですよね」


「答えてもいいけど、俺のお願いも聞いてくれる?」


「俺個人に許される範囲でなら」


「おっけー。大丈夫、真信君にしかできないことだからさ。双子は確かにこっちにいるよ。イナーシャが預かってる。今日はいないけどさ。危ないとこに連れて来るわけにゃいかないしね」


「無事なんですか」


「そこは俺の命にかけて保証する。のびのびやってるぜ、三食おやつ付きの好待遇」


「返してもらうわけには? お兄さんが心配してるんです」


「そりゃあの二人の意思だから。俺がどうこう言えることじゃない。帰りたいって二人が思うなら、俺は手助けするぜ。だからあんま心配すんなってひいらぎ君に伝えといてくんない?」


「それがお願いですか」


 尋ねると尚成たかなりは全力で首を横に振った。


「いや違う違う。本題はこっちね」


 言ってスマホを掲げる。


「もし真信君に会ったら連絡するって約束しちゃってたんだ」


氷向ひむかい綾華りょうかですか」


 尚成の関係者で真信とコンタクトを取りたがる人間など彼女くらいしか思いつかない。だが尚成は軽く否定した。


「いんや、永吏子えりこちゃん」


「は?」


「もう繋がってるよ」


 冷たい板を受け取り慌てて耳に当てる。すると透明感のある弾んだ声が耳朶じだを叩いた。


『あ、お兄ちゃん? 久しぶりー! わぁ声聴けるの嬉しいな。十一年ぶりだね』


「本当に永吏子えりこ……なのか」


 記憶にあるよりも幾分か低い声音。舌ったらずだった喋り方もどこか大人びている。それでも確かにあの少女だと感じるのが自分で不思議だった。


 声が揺れるのを抑えきれない真信に、通話の向こうで笑う気配がする。


『そうだよお兄ちゃん、永吏子えりこだよ! ごめんね、すぐ会いに行きたかったんだけど、他にもやらなきゃいけないこといっぱいあってね?』


「なんでっ、どうして──いや、とにかく会って話そう。今どこにいる? 平賀に追われてるの知ってるだろ? 僕が守るから、迎えに行くから、どこにいるか言うんだ永吏子えりこ!」


 まだ頭が現実に追いつかない。それでも永吏子えりこにようやく声を届けられる。この機会を逃したらいけないと必死に呼びかけた。


 けれど思ったような手ごたえがない。一拍置いて永吏子えりこが唇を尖らせた気がした。


『んー、駄目』


「なんでっ」


『言ったじゃん、やることいっぱいなの』


「そんなの」


『約束は守んないとだから。お兄ちゃんが教えてくれたんだもんね。だから、お兄ちゃんも約束守ってくれるよね。そのために永吏子、十六歳まであのじめじめしたとこで我慢したんだよ?』


「約束…………」


『うん、永吏子えりこがお兄ちゃんとの子どもが欲しいって言ったら、そういうのは結婚できる年まで待ちなさいって。お兄ちゃんの言う通り待ったんだから。永吏子えりこ、偉いでしょ?』


「それが、出てきた目的なのか」


 予想外の理由に困惑しながら確かめる。永吏子えりこの声が肯定する。


『そうだよ。でもあそこから出たからには済ませなきゃなお約束が他にもあるんだ。それが終わったらすぐそっち行くからね』


永吏子えりこは何をしようとしてるんだっ。その約束って、誰と交わしたの!?」


お父さんだよ?』


「なっ──」


 あっさり吐かれた答えに愕然がくぜんとする。言葉を失っている間に、永吏子えりこはもう満足してしまったらしかった。


『ふふん、楽しかった。じゃあねお兄ちゃん。いつかぜったいね?』


「待っ──」


 すでに通話は切れていた。画面には非通知の文字が残っている。尚成たかなり永吏子えりこの連絡先を聞いても無駄なのだろう。


 スマホを男に返して、真信はその場に座り込んだ。


「もう……何がなんだか」


「ごめんな、俺からは何も言えない」


「……分かってます。でも一つだけ。永吏子はどうしてイナーシャに」


「さあ。けど先に接触してきたのが向こうからというのは確かだ。こっちが無理強いしたわけじゃない。彼女の言う“約束”と何か関係があるのかもな。少なくと平賀から身柄の保護はできてるんだから、真信君としては悪いことじゃないんじゃない? 居場所も分かったことだし」


「そうなんでしょうか……」


「そうそう。ま、イナーシャにも被害でてるけどな。下っ端が何人かに付き合わされて死んでる。永吏子えりこちゃんっていったいなんなの」


「それは僕が知りたいですよ……。ていうか、被害出てるのにどうして放り出さないんです」


「言ったろ? イナーシャは呪術や宗教の被害者が集まった互助組織。子なら嫌というほど見てる。相手が天然物だからって見捨てはしない」


永吏子えりこは呪術と関係ありませんよ。平賀に居たんですから」


「本当にそう思ってんの?」


 低く、鋭い声が真信の意識を捉える。男の幼げな顔には、どこか憐れむような色が浮かんでいた。


「俺はもう行くから。何回でも言うけど真信君、イナーシャは真信君を歓迎するはずだ。だからいつでもおいで」


 最後に優しく言って尚成たかなりは林の向こうに消えて行った。

 取り残された真信は感情のぶつけ先を失って、一人小さく呟くことしかできなかった。


「なんだってんだよ、もう……」



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