囚われの身達と三度


 深い深い水底からゆっくりと浮上していくような目覚めだった。水面が見えてくる頃に何かとすれ違った気がするが、いかんせん心象風景での出来事なのでよく覚えていない。そもそも自分の意識の中に潜っていく存在など、自分以外にいるだろうか?


 そんな起床時特有の、夢の最後の疑問だけをたずさえて他をすべて置いてきてしまったようなもやもやと共に目を開く。しかし視界に飛び込んできた鮮やかさに深月は唯一掴んでいた欠片まで逃がしてしまった。


「お? ミツキか? ミツキじゃな?」


 さっきまで居た深海みたいな蒼色の左目に覗き込まれ、驚きに身をすくませる。


 横たわった深月を見下ろしていたのは、銅のような鈍い輝きを放つ金髪の子どもだった。身長は低いが雰囲気からして小学校高学年程度か。青みを帯びているのは左目だけで、もう片方は光を反射しない薄い茶色をしている。左右で瞳の色が違うヘテロクロミアだ。


 見た目は西洋人形のようなのに、発せられた声はどうしようもなくなまっていた。


 その特徴に、深月はようやく目の前の人物を個人として認識した。


「あ──」

「おぉい兄さまー! ミツキが起きたぞぉ!」


 反射的に口を開いたが、止める間もなく相手は身をひるがえしてしまう。なびいた金色の三つ編みが押戸をくぐって廊下に消えていく。


 置いていかれた深月の周囲にあるのは静寂だけだ。


「今のって……」


 頭がぼんやりしていてすぐ思い出せなかったが、間違いない。緒呉おくれに調査へ赴いた時に知り合った浄目の子ども。小里おざと家の双子の片割れだ。


 さっきのは小里おざとちがやだろう。いや声が微かに高かったから、姉の菖蒲しょうぶのほうか。見た目がそっくりだったから、並んでくれないと深月には見分けがつかない。


「あれ? 菖蒲しょうぶちゃんのほうが妹だっけ」


 うろ覚えである。兄のひいらぎが居れば訊けたのだが。いまさら本人たちに訊くのもなぁと呟きながら身を起こした。


 周囲を観察する。弱めの照明が灯された広い一室だった。いくつかの棚とソファにテーブル。用途は応接間といったところか。深月はソファに寝かせられていたらしい。廊下へ通じる扉は菖蒲しょうぶが飛び出して行ったまま開け放たれている。鍵もかかっていなかった様子だ。厳重に監禁されている、というわけでもないようだった。


 次に自身を見下ろし様子を確認すると、まず服装の変化に気づく。最後の記憶にあるドレスではなかった。濃い紫色をした、涼しげな生地の上下スウェットだ。どうやら着替えさせられたようだ。今までこういった格好はしたことがなかったが、動きやすそうだなと状況にそぐわない感想が浮かぶ。


 色素の薄い長い茶髪は後ろの高い位置で一つに結ばれていた。印象だけで言えば活動的にも見え、とても普段からものぐさな少女とは同一視できない。


 つまり深月の趣味も、深月をよく知る誰かの意図も反映されていない。どうやら深月は正真正銘、孤立無援でこの場にいるらしい。


「あれからどれだけ経ったのかな……」


 疲労は溜まっていない。関節も固まってないし手足に力が入る。加えて頭も冴えていた。少なくとも意識を失ってそれほど経ったとは思えない。中学生のときに四日間昏睡状態になった経験から深月はそう判断した。


 立ち上がろうとして意識を失う直前の光景が脳裏をかすめる。記憶の糸口に触れた瞬間、あの情景が蘇ってきた。


 血に濡れた床、詰みあがった死体、その向こうで息を切らし、必死の形相で敵に刀を向けるボロボロな女性の姿。


「…………静姉しずねぇ」


 姿を消した小里の子どもがいるということは、ここはイナーシャの施設なのだろう。

 静音があの後どうなったかは、深月がここに居る時点で自明の理というものだ。


 知らず奥歯を噛みしめる。握りしめた手が震えているのが自分で分かった。ああ、意外だ。自分の中にまだこんな激情が残っていたとは。とっくの昔に自我など喰い潰されて過去の感情を繰り返すだけの抜け殻になっていたはずなのに。


「痛いなー……。この痛みは初めてかも」


 胸元の布を握って爪が皮膚に刺さるのを防ぐ。思えば精神的な痛みを知覚することを思い出したのは、真信まさのぶと出会ってからだ。


「会いたい……」


 無性に真信に会いたい。湧き上がった想いが不思議と痛みを少しだけ和らげる。


 とはいえ感傷に浸っている暇はない。まず自分の置かれた状況を把握しなくては。


 固めなおした意志でにじんだ涙をどうにか引っ込める。今は縮こまって震えて耐える時じゃない。拳を開き、伸ばし、先へ進む時のはずだ。そうやって手から力を抜いて、ふいに気づいた。


「あれ、爪こんなに伸びてたっけ?」


「やぁ、ようやくお目覚め?」


 唐突な呼びかけに深月は顔を上げた。いつの間にか扉の所に少年が一人立っている。中学生くらいに見えるが、髪には一部白く染まっている部分があった。何より不思議と彼の目元は老成して見える。


 深月の直感が囁く。こいつは信用できないと。とっさに身構えると、廊下からさらに乱入者があった。


「やっぱミツキじゃ!」

「ミツキお姉ちゃん久しぶり!」


「あーうん、久しぶりー」


 双子が駆け寄って来て出鼻をくじかれる。はしゃぐ双子は変わりなく元気そうだ。少なくとも酷い扱いを受けているわけではないと理解して、そっと息をつく。


「ちょいちょい君たち」


 困ったような声を情けなく出しながら少年が遅れて部屋へ入って来た。


「呼んできてくれたのは助かったけど、これから樺冴かごさんと真面目な話があるんだ。出てっててくれない? そうだ、診療部の様子をまた見てきてくれよ。君らが見てくれると大助かりだって評判なんだぜ」


 双子に向けてウインクする。二人はブーイングを漏らしながらも部屋を出て行った。やけに素直だ。この少年は双子によほど懐かれているらしい。


「子供は元気が有り余っていて困ったものだな。ああ、俺は伊佐いさ尚成たかなり。名前くらいは知ってもらえてると思うんだが」


 親戚の子どもに振り回されてるお兄さんみたいな調子で苦笑する。深月はそんな男を冷ややかな目つきで見返した。


 この男、人の良い誠実な人間を装っているが、行動に抜け目がないのはこの十数秒で分かった。


 双子を深月と接触させた理由など簡単に推測できる。

 十中八九、人質だ。


 たとえ寝起きだろうと、これほど露骨な牽制けんせいを読めないほど深月は他者の悪意に鈍麻ではない。


「君が起きるのを待ってたんだ。交渉事はやっぱり本人に納得してもらわないとさ。お互い気持ち悪いだろ?」


「交渉? 命令ではなくて?」


 あくまでにこやかな男に対し、深月は皮肉に笑う。尚成たかなりはやれやれと肩をすくめた。


「そこまで命知らずじゃないさ。狗神が本気になったらこんな脆弱な基地、数分で粉々だろうに」


 あっけらかんと言う尚成に、深月は内心で首を傾げた。狗神の力を考えれば確かに言葉の通りだ。だからこそ人質をちらつかせ交渉を有利に進めようとしているのではなかったか。なぜ自分たちの弱さをわざわざ示したりする。


 尚成たかなりは深月の疑問に呼応するようにして表情を引き締めた。


「改めまして、はじめましてカミツキ姫。樺冴の末、狗神の使役者よ。まず先に言っておこう。自覚はないかもしれないが……君がここに来てから、もう一週間になる」






 手足を椅子に縛られうつむいた体勢で菅野すがの源蔵げんぞうは意識を取り戻した。途端に筋組織の編みあがる痛みが脳髄を焼く。


 目を開ければ眩しい光が赤い木格子の隙間から侵入し、視界を眩ませた。いつの間にか夜が明けていたらしい。ちょうど織りあがった白いスーツが日光に照らされてのりを輝かせた。


「傷が消えていく。まさか本当に不老不死の化け物だったとは」


 聴きなれた声に顔を上げる。垂らした布で顔を隠した屈強な拷問官の隣に、発言の主は居た。通勤電車を覗いていけば二、三人はすぐ見つかりそうな容姿の中年男だ。だが近くで見れば着古されたスーツは仕立ての良い物だと分かる。


「皇嗣殿。お久しぶりでございます。しかし国のために身を粉にして働いてきた臣下に向かって化物呼ばわりとは、酷い言いぐさで」


「肉をえぐって直に骨を焼かれても無傷に戻る存在は人間と呼べないだろう。ふむ、幼少期からやけに老けないなとは感じていたが」


「疑問には思わなかったのですかな」


「すさまじく若作りなものとばかり」


「貴方のそういう素でとぼけているところ、嫌いじゃありませんよ」


 喉を鳴らして低く笑うと同時に鉄串が脳天を貫いた。由緒正しき拷問官はその筋肉に似合わない優美な仕草で串を押し込んでいく。成人男性の腕ほど長い鉄串が見事に貫通した。源蔵の頭を天秤の軸にしてバランスを取って揺れている。


 脳みそが内部で崩れたせいかこの一週間で何度目かの思考の断絶が訪れる。だが今回の覚醒は思ったよりもすぐだった。


 重量のある鉄が地面を叩いて、源蔵の頭部が再生する。


「名残惜しいけれど、想い出話に花を咲かせるのはしまいにしよう」


 頬を掴まれ強制的に上向きにさせられた。


「喰らった神器を出せ、源蔵げんぞう


 覗き込んでくる目は無慈悲なものだ。哺乳瓶の時代から知っている相手のいちじるしい成長を感じて源蔵は思わず嗤笑ししょうを浮かべた。


「なんのことやら」


「お父上は壊れてしまったが、情報を引き出す術がないわけではない。神器の盗難に菅野すがの源蔵げんぞう、お前が関わっていることはすでにつまびらかだ」


みかどの御心をしいしたのは貴方……いや、イナーシャ連中か」


「まさか。あれはアカデミスタという外道共の仕業だ。イナーシャの者達はむしろよく助けてくれたとも。彼らは私の友人だ」


「ふっ。、ねぇ。友情ほど脆い情はありませんよ皇嗣殿」


「お前がどの感情にんでいるかなど興味はない。私が聞きたいのは質問の答えだよ。これ以上お前のかすれた悲鳴で私の耳を汚したくはないからね」


 皇嗣こうしの背後で拷問官が用途不明の器具で素振りをしている。

 源蔵は緊張に喉を鳴らしてため息をついた。


「勘弁してください。アレは私の手を離れております」


「所有物の内蔵品すら管理できていないと?」


「これはこれはお厳しい。されど嘘偽りなき本心ですとも。少なくとも余人の手で取り出すことは不可能かと。狗神が自分の意思で吐き出しでもしない限りはね」


「狗神にそんな意思があると?」


 皇嗣の疑問が源蔵の中の疑惑と重なった。


『──そうともさ。目に映るものすら信じられないなんて、悲しいだけだからね』


 脳みそを何度もかき混ぜられたおかげか、元親友の声が今日はやけに近い。幾度も聞いた彼特有の言い回しが脳裏に響いた。

 陽介は犬神の元の使役者であり、源蔵の親友であった男だ。彼との関係を壊したのは源蔵自身ではあるが。


 あの男の口調を、雰囲気を、源蔵が間違えるわけがない。だからこそ分からないのだ。


「さぁて。我が友の成れの果ては長らく沈黙を守っていましたが。……どうやら近頃は、息を吹き返したがっているようでして」


 深月が洩らした陽介の気配。仮に狗神の中にまだ陽介の意思が残っていたとして、いまさら出てきて彼は何がしたいのか。


 何にせよ源蔵の知る優しさに満ちた青年の心がそこにあるとは思えない。この世に変わらないものはなく、加えて不変を信じるには時が流れ過ぎた。


 だからあれは凶兆に違いない。


 男は愛する女のためなら、どこまでも愚かしくなれる生き物なのだ。源蔵自身がそうであったように。


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