雨粒


 奈緒にフラれた伊佐いさ尚成たかなりは、ホテル内からの報告にほくそ笑んでいた。


「ふぅん、アカデミスタたち、退散してくな。いい気味だ。やっぱ皇嗣を見失ったからか。後追わせてるけどバレるよなぁ」


 現状がすべてを教えてくれる。アカデミスタの狙いはやはり皇嗣で間違いない。突入して来たタイミングや人数からしてこれはまだ脅しに過ぎないことが分かる。


 アカデミスタが求めているのは現状の維持。呪術を兵器として転用しようとしている彼らは、現状の打破など求めていない。


 となると、アカデミスタは皇嗣の語る内容を事前に知っていたことになる。意図せず漏れた、というわけではない。尚成の助言で、皇嗣は事前に数人にだけ今日のことを話していた。情報の流出はその中のどれかだ。


 これで宮内庁の内通者にも当たりがついた。あとは芋づる式にいけば楽なのだが、相手が相手だ。そうもいくまい。


「とはいえ推測はできてるしな」


 アカデミスタが真信たちですら推測できなかった隠し通路を知っていたということは、建築に携わった者があちらにいることは間違いない。


 そして恐らくその人物は、尚成が考えている通りの人物なのだろう。


「やっと見つけたよ。潰しに行くから待ってなよ。きっと真信君も連れてってやるからさ」


 長年の執着に手がかかって、尚成は心の底から喜色を浮かべた。見るものが見れば恐怖に腰を抜かすほど影に染まった笑み。少年みたいな顔立ちに似合わないその重たい表情がふと引っ込む。


「……と、その前に、あっちを迎えに行かなきゃな」


 小柄な体はすぐ闇に紛れて林の中に消えて行った。






 安全圏まで皇嗣こうしたちを逃がし後を紗季さきたちに任せた真信は、すっかり静けさに包まれたホテルへと戻った。


 廊下にはあちこちに死体が転がっている。静かなのは生きている者がいないからだ。死体のほとんどは呪術者とアカデミスタのものだが、逃げ遅れたただの従業員も混じっているようだった。


 救えなかった命に心中で黙祷を捧げ、隠し扉から地下通路へ入る。


 そこは静音と深月が使ったはずの通路だった。薄暗くカビの匂いが漂う石造りの道をひたすらに駆ける。


 すでに利用価値のなくなった使用済みの通路を真信が辿っているのには理由がある。アカデミスタの撤退を確認している最中に、奈緒から不穏な連絡が来たからだ。


「深月と静音の行方ゆくえが分からない?」


『はい、もう時間過ぎてるのに予定してた合流地点に来ないんです。連絡も通じないし、それどころか通路から出てきた気配もなくて』


 奈緒の声は冷静に徹しているようで湧き立つ不安を抑えきれていなかった。その声が真信の胸にも焦りを生む。


「分かった。位置的に僕が一番ホテルに近い。確認に向かうよ。そっちも二人の捜索を頼む」


『皆さんにお願いしてます。あたしもすぐそっち行きますんで!』


 通信を切って走り出した。嫌な予感が胸に針を刺し、そこから無限に増殖していく。肺に詰まった不安を吐き出すように足を送る速さを上げたのだった。





 通路は思ったよりも長かった。先へ先へと向かおうとする意識に身体が追いついていないから余計にそう感じるのだ。


 どうしてこれほど胸騒ぎが踊るのか自分でも不思議だ。深月には狗神がある。静音もついているのだから大抵の障害では歩みを阻むこともできないはずだ。そう確信があったからこそ、深月を静音に任せたのだから。


 きっと何か事情があってまだ外へ出ていないだけ。二人はこの先にいるはずだ。そう心の底から信じているはずなのに疑惧ぎくが離れないのは、ここまで想定外の案件が多かったせいか。


 一つ思いもよらないことが起きたなら、きっと不慮はまだ列をなして自分の人生を狂わせにくるに違いない。そんなくだらない妄想が襲ってきて、真信は走りざまに壁を殴った。


 何を考えている。現実を見ろ。真実を確かめに走っているんじゃないか。


 向こうに通路の出口が見える。図面の通りなら広場のような空間に出るはずだ。その先はもう出口に着く。二人がいるならば恐らくここのはず──


 ツンと慣れ親しんだ鉄臭さが漂ってきて、皮膚がめくれ上がったかと錯覚するほどの鳥肌を立てた。


 息を切らして広場に飛び出す。


 まず目についたのは軍隊風の恰好をした者たち。身体を抉り取られていたり四肢が千切れていたり、血の海に沈んだそれらが絶命しているのは火を見るより明らかだ。次に周囲を見渡し、二人の姿を探した。だが隅に木箱が積み上がるばかりで、遮蔽物のない景色に生きている者の気配はない。


 死体の中に足を踏み入れる。転がる人の成れの果ての間を縫うように真ん中まで歩いた。立ち止まって四方を見渡すが、やはり深月たちの姿はない。


 ふと足元に目を落とし、一つだけ服装の違う死体があることに気付く。


 その死体には首がなかった。ついでに言えば、右手も肘から先が消えている。体格からして女性のものか。うつぶせになった黒いスーツのパンツルックは至るところが破けていて、血を吸っていない部分がない。体勢が不自然なのはどうやら腹から臓物がはみ出ているせいらしかった。


 女性のものは珍しいが、ここではありふれた死体の一つ。何気なく踏み越えようとして、少し離れた所に耳が落ちているのが目についた。切断面から左耳だと分かる。ピアス穴もない形の良い耳だが、塞がった切れ目が入っていた。


 その傷の形に、真信は見覚えがある。


 ────頭は覚めたか


 そう言って突き立てたナイフ。組み敷いたの表情が痛みに微かに動いたのを思い出す。


「…………ぁ?」


 喉の奥から掠れた奇妙な音が漏れた。血まりに膝を突き、死体に残った左手を持ち上げる。


 長い指先は皮が固く、女性とは思えないほどごつごつしている。だがその下には肉の柔らかさも残っていて、皮の厚さがこの人物の努力を物語っているようだった。


 指の腹でなぞる、この感触も覚えている。


 ──ダンス、ですか?


 つい最近、何の気なしに繋いだばかりの。

 あの、温かかった彼女の手。


「……っぁ、ひゅっ」


 開いたまんまの口から、空呼吸が笛みたいな音を立てているのが聴こえた。

 眼玉が泳ぐ。否定の材料を探している。


 だが現実は無慈悲に答え合わせを突きつけてくる。


 視界の端に映った何かに真信はゆっくりと振り返った。

 最初は何を見ようとしたのか自分でも分からなかった。だがさ迷う視線がそれを捉える。


 隣の死体の影に、小ぶりな頭部が転がっていた。切断面を下に。まるでプレゼントを隠すように置かれていたそれは、間違いなく、


「しず……ね?」


 瞬間眼前に浮き上がったのは、知らず知らずのうちに焼き付いていた記憶。首の口角が上がっていたせいか彼女の笑顔ばかり思い出す。


 脳裏に彼女の声が弾けて飛散した。


 ──私に伴侶はんりょなどいません!

 顔を真っ赤にして否定するから、からかうのが楽しかった。


 ──ここ、しわが寄ったままです。そのまま深月さんの所に行く気ですか

 注意するみたいな口ぶりなのに、目元は穏やかで。

 気付けば誰よりも真信を思いやってくれていたのは彼女だった。


 ──楽しかった?

 問うと楽し気に笑みを深める。

 ──はい

 険しい目つきばかりの彼女も、こんな子どもみたいに笑えるのだと、心の底から嬉しくなった。


 ──好きな物、見つかりました


 いつも自然とそばにいた。


 ──何も変わってなどいません


 ほころぶような微笑みが、溢れた涙ににじんで消える。


 ──私の幸せは、真信様の隣にいることですから


 目からこぼれ落ちる熱を拭うことも出来ず、真信はただただ物言わぬ首を抱きしめた。


「──っ。だったら…………僕の隣で死ねよぉっ!!」


 やっとひりつく喉から絞り出したのはそんな悲鳴だった。言葉の真意を理解するのはきっと、もういない彼女だけ。




 泣かないでくださいと、そんな静音の最後の願いは届かず、

 少年は絶え間なく死体に涙を降り注がせ、声にならない慟哭どうこくを刻み続けた。


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