死の価値


 死にたくない。


 絶対に死にたくない。


 思えば静音の半生はそんな思いでできていた気がする。


「──っ!」


 背筋に走った恐怖が思考を超えて身体を動かす。手中で柄を回転させる。刀身を永吏子へ向けるのと、子宮の位置に突き刺さった手が血に滑って抜ける感触は同時だった。


「あっぶなーい。へへっ、危機一髪、だね!」


 永吏子が軽やかに跳び退る。刃は少女の毛髪を微かに切り取ることしかできない。


 静音は片膝を突きそうになって必死に堪えた。骨盤の上に穴が開いた。血がとめどなく流れ出す。だが不思議と痛みよりあの手の感触への嫌悪感がまさっていた。全身から脂汗が噴き出し吐き気が込み上げて来る。


 この奇妙な死の気配が、走馬灯のように自分の願いの根源を理解させた。


(そうです。私は死にたくなかった。厳しい訓練も、心を削る現実も、ただそれだけの願いで乗り越えて……)


 それが、真信のために命を使おうなどと、死んだら彼に静音のために泣いて欲しいなどと、そんな考えになったのは、この気持ちが強すぎたからだ。


(怖かった。死ぬのがどうしようもなく怖かったのです。そして、自分がこれほど恐れている”死が”、平賀あそこでは無意味に、無価値に積み上がっていく。それが一番嫌でした)


 自分の意識に根を張る”死”になんの価値もないなんて、そんなこと思いたくなかったから。

 だから、絶対に泣かない真信が涙してくれれば、きっと自分の命にはそれだけの価値があったと思えるだろうと。


 だから、泣いて欲しいなんて願いを持つようになった。


「あぐっ……なんてこと……。っ人は生きて、どうしたいか……はぁ、考えるべき、なのに」


 息が乱れる。出血のせいで身体が必死に酸素を得ようとしているのだ。血圧が下がっているせいか酷く寒かった。


 これは死ぬだろうな。

 納得は抵抗なく胸に落ちた。


 瞬間、静音はキッと視線を上げて綾華を睨みつけた。重たい太刀を構え、飄々ひょうひょうと笑う少女へと駆ける。


「あああああああああっ!!」


 鼓舞こぶするように雄叫おたけびを上げ永吏子へ斬りかかる。

 大ぶりすぎて避けられたが、近づいたおかげでようやく永吏子の得物に気付けた。血に濡れて分かりづらかったが、指先に鋭利な鉄爪をはめている。転がっている死体や静音の腹に穴をあけたのはあれだろう。


「あははははっ、すごいね静音! 穴開けたのにそんな動けるなんて。さっきの人達はすぐ壊れたのに!」


「まだまだ──っ、ですよ!」


 言いながらももが思うように上がらないのを足運びで誤魔化す。左肩が爪に抉られた。痛みに視界が点滅する。吹き出た血に靴底を滑らせるようにして前へ出た。


 永吏子の動きは人間離れしていた。技術はともかくとにかく速い。防戦に持ち込まれたら今の状態では長く持たない。静音は歯噛みして重たい身体に鞭打った。


 ここは攻めるしかない。


 下段からの切り上げ。我ながら軸がブレている。力が上手く乗っていないのを腕力で補う。風切り音が永吏子の鼻先をかすめ、代わりに自分の左耳がどこかへ飛んでいった。それでも攻める手を休めない。


 永吏子が落ちていた手首をつま先で蹴り上げる。飛んできたそれを一刀で切り捨て駆け寄ってくる少女を牽制する。


(もう少しっ!)


 デタラメに斬りかかっているようで、静音は彼女をある場所まで誘導していた。そこは山と折り重なった死体の影の、目立たない死体溜まり。いかに永吏子といえど後ろに目がついているはずがない。


 思惑通り、永吏子のかかとが男の上着に引っかかった。永吏子が体勢を崩す。暫時ざんじ生まれた意識の隙間。目の高さまで掲げた突きを弾丸のように放つ。


 今まで習得した全て、経験から得た全てをこの一瞬に注ぎ込む。

 そうやってこの化物に喰らいつく。


(貴方は泣かなくていいのです、真信様。いいえ、泣かないでください。私はもう自分の命の価値を貴方の涙で定義しない。私にとって、一番価値のあるものは……)


「よっと!」


「───っ!?」


 剣戟の音が高らかに響く。

 渾身の突きはしかし、すんでのところで弾かれてしまった。


「そんな…………」


 気力を全て注ぎ込んだ一撃だったのに。これで決めねばもう後はないと追い詰めてやっと生んだチャンスだったのに。


 もう足の痙攣けいれんを抑えられない。寒さに歯が絶え間なく鳴っている。動くたびに血液が不足していって、内臓は今にもまろび出そう。


 とうの昔に、己の身体を自分でコントロールできないでいる。まるで”死”が全身に絡みついて静音をわらっているようだ。


 そんな絶望に落ちそうになる自分を、あの少年への想いだけが瀬戸際で踏みとどまらせた。折れそうになる心を思慕で繋ぐ。


「貴女が生きていたらっ、はぁ……真信様はあなたを、いつか……殺さざるを得なくなるっ。げほっ、っ……そんなことしたら、ふぅっ、あの人はきっともう……二度とっ、笑えない!」


 口の端から泡混じりの血をこぼしながら、消えぬ熱を宿す眼光で永吏子を睨みつける。


「殺す。……たとえ刺し違えてでも、私はっ、貴女を殺してみせる……!」


 啖呵たんかを切る。引けない理由を口にして己に発破はっぱをかけた。


 そんな決死の告白に、永吏子は笑みのまま首を傾げる。


「いいの? お兄ちゃんって、私に会いたがってるよね?」


「…………」


 紅茶に入れる砂糖の量を問うような軽い確認の声だったのに、面白いほど心が揺れた。


 妹を殺してしまえば、真信の中で静音は無価値になるだろう。だって、あの願いを聞いて、想いを受けとって、その上で裏切るのだから。たとえ生き残れても彼の傍に居続けることはできない。きっと拒絶される。


「それでも……です」


 頬を伝うこの涙を、静音は肯定しない。


 ──だって私の命は無価値でいい。私にとって一番価値のあるものを守れるのなら。


 自分に真信と同じ道を行ける資格などない。だからこそ、この汚れた方法を選び取る。


「ふぅん。ま、最後まで楽しく遊ぼ?」


 永吏子が静音の熱意など何も伝わっていない無邪気な笑みで爪を鳴らす。


 対する静音も、その笑みを切り捨てんと太刀を構えた。


 もう足先に込める力さえなくとも。この太刀だけは決して離さない。


「ええ……ごほっ。……付き合って、もらいますよ」


 腕を持ち上げ再度握力を込める。


 とっくに超えてる限界なんて、踏み台にして命を振るえ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る