途切れぬ道


 綾華りょうかは簡易救護テントの幕をめくった。黒い布の隙間から光が漏れる。中へ入ってジッパーを閉めると、骨組みに吊るされたライトがゆれた。


 手狭なテントの中には二つの台が置かれていた。一つには見覚えのある少女が横たわっている。少女は以前見た制服でも写真にあった和服でもなく、身体の線に沿った黒いドレスを着ていた。ライトブラウンの髪が無造作に広がってライトを反射し、夜空に金糸を流したようだ。


 少女は樺冴かご深月みつき。脅威の狗神をその身に宿す呪術者だが、今は薬で眠らされている。呪術者たちを嫌悪するイナーシャが彼女を生け捕りにしたのは、ボスが彼女を捕獲するよう命じたからだった。


 殺せない相手を観察する趣味はない。綾華りょうかは早々に興味をなくして、もう一つの寝台へ視線を移す。


 そこでは端に腰かけた血まみれの少女が、イナーシャお抱えの医者から注射をされていた。


永吏子えりこ


「あ、迎えに来てくれたの? もう少しで動くようになるから、待っててね!」


 呼びかけると少女の顔がぱっと輝く。永吏子の状態を視認して、綾華は眉をひそめた。


 至るところに刺し傷と切り傷が散見される。よほど痛みに鈍いのか永吏子は笑顔のままだが、身体は己の状態を正しく理解しているらしい。額には脂汗が滲んでいるし、唇から血の気が引きチアノーゼになっている。主要な臓器が無事だったのが奇跡のようだ。


 なにより一番深いのは足の傷だった。右腿みぎももの肉が豪快にえぐり取られていたと聞く。止血のために布が巻かれているが、取ればむき出しになった白い骨が見えるだろう。


 これまで何度か永吏子と死闘へ向かったことがあるが、彼女がこれほど負傷するのは初めてだ。それどころか傷を負う姿すら初めて見る気がする。今回一歩間違えれば死んでいたのは永吏子だろう。むしろ手当てが遅れていれば確実に死んでいた。今も輸血を受けているが、さっき飛び出していった看護師が追加の輸血パックを探していたのを綾華は見ている。


 この永吏子ばけものをこれほど追い詰めたのは、いったいどこのどいつだろう。湧き上がった好奇心は、どうやら自然と答えへ行き着いたらしい。


 永吏子の隣に、静音に渡したはずの太刀たちが剥き身で添えられている。


「それって」


「これ持ってたやつでしょ? だから拾ってきてあげたんだよ?」


 刃をこっちにして差し出してくる。先端から頭を逸らすと、少女の握る柄に別の手が絡んでいるのが見えた。白く線の細い手が、肘から上だけぶら下がっている。


「なによそれ」


「これ? 引っ張っても取れなくってね? すごいよね、千切ってきたのにまだ握ってるの」


 言われてよく観察すれば、確かに手は太刀の柄を力強く握ったまま固まっていた。筋肉はとっくに弛緩しかんしているはずなのに、腕からはこの太刀を決して放すまいとの執念を感じる。腕の持ち主の顔が一瞬、綾華の脳裏に浮かんだが、すぐそれを掻き消した。誰が死のうと関係ない。生き残った者だけが勝者だ。


「何が引っ付いてようと関係ないわ。それは私のだもの」


 言って柄を受けとると、同時にあれほど強く握り締めていた指が滑るようにほどけた。


「わあ、取れたあ!」


 永吏子の歓喜から逃げるように、腕は重力のまま地面へ落ちる。芝生へ微かに残血が飛んだ。


 綾華はピクリとも動かない腕を見下ろし、頭が真っ白になるのを感じた。唖然とした表情は次第に怒りを堪えるかのように崩れていく。こめかみに青筋が浮かび上がる。込み上げる何かを不快で隠すように歯を食いしばって苦い顔を作った。


「あの女、一方的に約束守って逝きやがった」


 こぼした呟きはいっそ憎しみとなって腕に注がれる。目じりが痙攣けいれんして震えた。腕が応えるわけもなく、鮮烈な感情は空回りだ。綾華はそれにも苛立だしげな舌打ちを響かせる。


「どこに返せってのよ、こんな借り」


 転がった腕に一瞥いちべつだけ残し、綾華はテントを出た。





 奈緒は締め付けられる思いで彼の丸まった背中を見ている。


 集合地点からここまで、静音と深月を探しながら走ってきた。いつの間にか真信とも連絡が取れなくなっていることに気付いたのは、通路へ足を踏み入れてからだ。


 外からここの出口の確認へ向かった者から、複数の血痕と足跡を見つけたと報告があった。血痕の主が誰かはまだ特定できていない。だが少なくとも深月や静音のものでないということは判明している。足跡の中にも深月達の痕跡はない。


 では誰の血が、なぜ外まで続いていたのか。それは最悪の想定を奈緒に抱かせた。


 その答えが、目の前で沈んでいる。


 そこかしこに転がった死体の山。そのうち一つだけ服装の違う死体の前で放心したように少年は項垂うなだれていた。腕には誰かの頭を抱えている。こちらからは首の後頭部が見えるだけで、顔は分からない。ただ短い黒髪をむりやり一つにまとめた髪型には嫌というほど見覚えがあった。


 奈緒はまだ彼らとの付き合いは短い。二人の奇妙な関係も、昔を知らない自分には到底理解しきれているとは言えなかった。


 だが奈緒には分かる。真信の絶望が分かってしまう。奈緒もまた、大切なものを奪われた痛みを背負って生きてきたから。


 奇しくもそのをその手で奪った少年に、一番同情できるのは奈緒だろう。


 ならばこそ、今の彼はそっとしておくのが一番優しい選択だと感じる。真信のことを想うなら、彼の痛みが分かるなら、そうすべきだろう。


 だが奈緒は彼の優しき友人でも、慰めてあげる恋人でもない。

 奈緒はただ、彼の人生の裁定者だ。


「真信先輩……」


 滲んだ涙を腕で拭って、彼の肩を叩く。身体が揺れ、少年が奈緒を振り返った。目元も鼻の頭も共に真っ赤になって、口から浅い呼吸を繰り返している。酷い顔だ。この世が終わってしまったかのような抜け殻の瞳には光がない。腕の中の首を子供がわがままにそうするようにして抱え込んでいる。


 自分はこれから、この少年に残酷で卑怯なことを言わねばならないのだ。そう考えると酷く胸が痛んだが、奈緒は感情をおし隠して彼の腕を引っ張る。


「お願いです。立ってください。後でどれだけ泣いてもいいですから、今だけは、立って進め」


 護衛だったはずの静音が死んで、深月がいない。それは深月が連れ去られたことを意味する。

 ここで終わりではない。まだ進まねばならない。深月はまだ、救えるかもしれないのだ。


 だからこの少年を休ませてやるわけにはいかない。


 奈緒の言葉に、真信は眼下の死体を見やる。それから奈緒へ視線を戻し、くしゃりと顔を歪めた。心中にいったいどんな葛藤かっとうが巻き起こっているのか、奈緒に推し量ることはできない。ただ痛みだけが伝わって、胸を詰まらせる。


 どれだけ待っただろうか。真信は首を胴の上にそっと置いて、よろめきながら立ち上がった。


そう言われたら、俺は立ち止まれないじゃないか」


 言って不恰好な笑みを浮かべる。無理矢理に作った苦笑。きっと自分も同じ顔をしているのだろうと、奈緒は思った。


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