第五幕 カミツキ姫の分水嶺

プロローグ 夢


 世界が鈍色の蒼穹に覆われた。そう錯覚するほどに霧が満ちている。


 気づくと青年は、そんな平坦な景色を眺めていた。


 遮蔽物もなく、見渡す限りどこまでも薄暗い。空気の対流がないので室内ではないようだが、草木の匂いも大気の温度も感じられないため屋外とも思い難い。


 あきらかに何かがおかしい。なのに青年はぼんやりと突っ立っているだけだ。ためしに先を見通そうとすると途端に風景が霞がかって輪郭を掴ませない。自分の立ち位置すら不明瞭だ。


 否、はっきりしないのは足元ばかりではない。そもそも自分がここにいる理由すら辿ることができない。意識が揺蕩たゆたい、端から溶けていくようだ。


竜登りゅうと


 ふいに名を呼ばれて目を見開く。いつの間にか、目の前に見知った女性が立っていた。


 女にしては背が高い。毅然とした立ち姿だけで体幹の良さを感じられる。

 パンツルックに身を包んだ女性はなぜか、短い黒髪を後ろで無理やりにひっつめていた。


 静音しずねだ。


 すぐに分かった。ようやく思考が確固たる認識を得たせいか、意識が浮上してくる。竜登はもっと彼女をよく見ようと目を細めた。だが霞はまだ深く、ちょうど彼女の表情を隠してしまっている。


姐御あねご……」


 呟くと、静音の口が動くのが見えた。


「皆さんの造花の色は変わりましたか」


 抑揚のない声だった。妙な胸騒ぎに心臓が跳ねる。

 脈絡のない質問なのに、竜登には答えるべきことが分かっていた。


「俺は……あ、青になりました」


 やっとそれだけ答える。それ以上は声にならなかった。おかしい。は、こんなに緊張しなかったのに。


 ……あのときって、なんのことだ? 違和感を覚えて胸元を見る。そこに造花は刺さっていなかった。だったらなぜ、存在しない物の色なんて自分は答えられたのか。


 形のない焦燥感が、脳の血流を増やしていく。


 息を荒げる竜登の異常は静音に影響を及ぼせないようだ。彼女は変わらず淡々とした調子で続けた。


「真信様には全員赤か黄色になったと報告を。本当は何色だったかはあなたが覚えていてください」


「なん……で……」


 言葉が出てこなくて、竜登は口だけはくはくと動かした。この期に及んでも静音の顔がよく見えない。たった十歩の距離にいるのに、彼女が何を考えているか手掛かりすら掴めないでいる。


 焦りがとっくに追い付いて、全身から脂汗が滲んでくるのが分かった。


 これほどすがって見つめているのに、さっきから目線が合っている気が少しもしない。


「深月さんの護衛が必要になった場合は必ず、花が赤になった者を優先させるように」


「なんで、俺にそんなこと言うんすか」


「これは命令です」


「無理だよ姐御」


「真信様には内密に」


「俺にどうしろっていうんすか」


「詳細は戻ってから」


「戻ってきやしなかったじゃねえかよ!」


 叫んだ瞬間にこれは夢だと気が付いた。







 これも訓練のたまものか、夢の内容にも拘わらず覚醒は静かだった。


 まぶたを持ち上げると見慣れた樺冴屋敷のふすまが見えた。

 頬に畳の目を感じながら身を起こす。骨が鳴った。身体が強張っている。何事かと辺りを見渡せば、竜登はなぜか敷布団から離れ、羽織っていたタオルケットも明後日の方向に放り出していた。


 寝相が悪くなるなど数年ぶりの失態だ。見ている者がいなくてよかったと安堵のため息をつく。男性陣の寝床であるこの部屋も今夜は空だ。皆が交代で仕事や調査に出ている。竜登も三時間の仮眠のために戻っただけだ。


 じっとりした寝汗をシャツで適当に拭う。腕時計の示す時間はすでに次の予定開始時刻に近づいていた。ここ最近悩まされている悪夢のせいか意識がぼんやりしている。冷水で頭を冷やそうと立ち上がった。


 なんだかずっと慌ただしい。まるで平賀にいた頃に戻ったかのようだ。原因はとある少女の不在にある。

 ここ一か月、竜登はこの屋敷の主人が放つあのなごやか空気を吸っていない。


姐御あねごが死んで……余裕が消えて…………。なのにアンタはどうして帰ってこねぇんだよ、姫さん」


 さらわれた樺冴かご深月みつきの行方は依然として知れず。

 八月最後のあの事件以来、この屋敷はすっかり様変わりしてしまった。



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