最高に苦しい安息を背負う
パーティーが明後日に迫っていた。
下準備はいよいよ大詰めだ。屋敷の顔ぶれもすでに自分がすべきことを頭に叩き込んで反芻している。
加えて今回は、真信に同調してくれる門下を各地から呼び寄せている。一人使者に仕立て、各地へ連絡をとってもらっていたのだ。とはいえ、平賀に所属したままの者もいるため、任務の隙間を縫う形での参加である。やはり招集できた人数は少ない。それでも連携の取れる人員を確保できたのは大きい。
こうして潜入メンバー真信たち四名の他に、会場の警護にはどうにか十三人ねじ込むことができた。同盟を組んでいる
現在用意できる最善の手筈を整えた。もうこれ以上打てる手はないほどに。
パーティーは千葉の郊外にあるホテルを貸し切って行われる。なぜ東京や京都ではないのかが気がかりだが、平賀本家から少し距離を保てるので真信としてはありがたかった。
これほど重要な催しだ。平賀の人間が何らかの依頼で潜入していてもおかしくはない。手を組めるならばいいが、真信を目の敵にしている連中だとむしろ邪魔される可能性もあった。
気を付けねばならないのはそれくらいか。
他に一つ気がかりがあるとすれば。
(源蔵さん、何を考えてるんだ)
昨日屋敷に立ち寄っていた源蔵からあらためて連絡があった。要件は手短に一つのみ。
『深月にあまり狗神を使わせるな』
驚きに値する発言に思えた。源蔵の目的はあくまで狗神の呪詛を削ることだ。彼に深月自身を守ろうという意思はない。狗神は使わねば呪詛が減らない。それに今回は何が起こるか予想がつかない仕事だ。なのに使用を控えるよう指示を出すなど、どういう心境の変化なのか。
今回は目立つな、ということだろうか。
それとも真信が報告した件と関係があるのだろうか。
真信は源蔵の人となりについて詳しくない。出ない答えを考え続けても意味がないと、思考を自分の内に移した。
今は目の前の仕事に集中しなくては。
踏み石のサンダルを履いて庭へ出る。夏の太陽が暮れかけ長い影が伸びていた。空はもう半分夜の様子を見せている。その一番奥に立つ大きな蔵の扉を開けた。
「マッド、失礼するよ」
断りながら中へ入る。そこにはいつものように白衣をまとったマッドが机に向かっていた。枝付きフラスコを熱し、薬品を蒸留させているようだ。また新しい薬だろうか。
マッドが保護ゴーグルを外して瓶底メガネをかけ、真信を振り返る。
「真信サマどしましたー?」
「最終確認にね。
「ぼちぼチデばっく。臨床試験ナしゆえ不満
「そっか、忙しい時にありがとう。ついでにちょっといいかな。今回のパーティー会場、随分昔に平賀が設計した場所だったんだ。
雑多に置かれた実験道具を脇に寄せ、できたスペースに黄ばんだ用紙を広げた。するとマッドはさっそく覗き込み、ふむふむと眺め始める。
「おけデす。ナるほろ。コのすみっこなんカあリャますな」
「ここ? 図面だと階下までに繋がって……寸法が狂ってる? 確かに人が通れるくらいの隙間がある。何かの仕掛けがあるかもな。というか平賀なら絶対に何か仕掛けたくなる絶妙な場所だな。祖父の代に作られたやつだから同じ理論が通じるとは限らないけど」
「ソれ平賀創ったおっちャんれす?」
「そう。僕の父の父親だから、祖父にあたるね。平賀の創設者、一人で完璧を目指した人。随分前に行方不明になってて、それで親父が十五歳で当主を継いだはずだ。平賀はそれからやり方とか方針とか大きく変わってるから、今と同じに考えると駄目かもな」
平賀の歴史はそれほど古くない。真信の祖父が創設したころは、あくまで祖父の補助組織といった機能だったらしい。今の形式になったのは父親が当主を継いでからだ。
とはいえ真信も人づてに聞いただけで詳しいことはよく知らなかった。代替え当時の門下は残っておらず、父も口にしなかったからだ。
「デもここお部屋ないとこっチの基礎固メる意味なくナるますよ? この壁モ造リ変デ何カあるますな」
「えっ、そうなんだ。こっちは?」
「ダミーフラグます」
「な、なるほど。建築学は詳しくないからなぁ。マッドに相談してよかったよ。平賀で保存する図面にすら相違があるなんて、皇嗣がわざわざこの建物を会場にしたことといい、やっぱり何かあるのかも。他にも怪しい所をピックアップしてほしいんだ。何が何処に繋がってる抜け道なのかは予測できる?」
「マッドニお任セ出前一丁!」
「ありがとう。本当に助かるよ。さすがはマッドだね」
全力でおだてておく。マッドはこうするとよく動いてくれるので助かる。
(情報は全員に周知させて、もしもに備えないと。これで平賀が出張ってきても、土地勘で負けることはないはずだ。何が起きても対応できるように準備は全部やるんだ)
そうやってマッドと共に図面の不審な部分をさらってゆく。作業も佳境に差し掛かったころ、マッドがおもむろに、真信の前に小瓶を置いた。
「真信サマ、コれお差し上げ」
「なに? 中身は……『えー気持ち
この薬は、マッドが平賀に来て間もない頃に完成させてしまったものだ。接種した人間は一切の苦痛を感じず、文字通り眠るように息をひきとる、完璧な安楽死の薬である。さすがの平賀当主ですら複製を禁止するほどの効能と即効性で、内々に
そもそもマッド以外に作ることができないほど繊細で複雑な薬だ。個の完璧性ではなく集団としての万能性を追い求める平賀に再現性のないモノは馴染まない。
とはいえ世に出回ればこの世の倫理観を覆しかねない薬だ。放置というわけにもいかない。出来上がったサンプルは一つを残し破棄され、マッドにも安易に精製しないよう厳しいお達しが出ていた。
「五年前ニ渡したのぼチぼち期限切れデすゆエ。んぬゥ、モウいらんカモ鍋デすガ」
少女が珍しく口ごもりながらそう説明する。
「…………いや、ありがとう」
胸に広がる温かさが笑みを作る。礼を言って小瓶を受け取った。
この薬を所持しているのはこの世で真信一人だ。マッドが真信にこれを与えるのは薬の保管のためでも、ましてや使わせるためでもはない。
むしろ、使わないことを
(マッドがこれを僕に預けてくれたおかげで、死のうかな、なんてむやみに思えなくなったんだった)
心の底から礼を告げると、少女はツーンっと顔をそむけて頬を膨らましてしまった。
「マッドは……。マッドはマッドを人殺しニしないっテ言ウ真信サマ信じテるだけます」
「だからキミはめちゃくちゃ言って僕にこれを押し付けたんだな。当時は意味がわからなかったけど、そのうち嫌でも理解したよ」
瓶を掲げて透明な液体を光に透かす。ただの水のようにしか見えない。けれどこれを欲する人間はこの世にごまんといるのだ。
だが決して誰にも使わせるわけにはいかない。
「こんな、自殺志願者にしてみれば夢みたいな薬が手元にあるなら、死にたい人間は否が応でも必ずこれを使う。でも、これを僕が使えば、マッドを今度こそ人殺しにしてしまう。それだけは駄目だからね」
どこか照れたように真信は耳を赤くしながら笑う。マッドはようやくその顔に目を向け、膨らませた頬から空気を抜いた。
「ヤぱ捨テるます?」
「いや、貰っとく。ありがとね」
「ウぃ、よキニはカらえ」
「あ、それと前の薬は仕舞いっぱなしだったから、後で持ってくるよ。処分してもらえるかな」
「廃棄モ大変デすゆえな。…………?」
「どうしたの、外のほうじっと見て」
「なんデもあリまセンス」
「あるのないのどっち!?」
その時、静音が蔵の扉の前をそっと離れた。
腕には三毛猫を抱きかかえ、沈んだ表情で考え込んでいる。
(安楽死の薬。付き人として昇級する際、情報だけは開示されていましたが、まさか真信様がお持ちだったとは。なぜマッドはそれを真信様に預けたのでしょう。真信様はご自身で仰るとおり、あの薬を使うことはないでしょうに。絶対使わないと信頼できる者に保存してもらうため? 確かに平賀はサンプルを一つ保持するよう指示していたようですが、永年保存ではなかったはず。期限が過ぎれば破棄して構わないものです。ならばなぜここに来てまで新しく作るのです。もしやいつでも使える状態を保つため……。預けたのは薬だけではなく、使用するかしないかの選択肢そのもの……?)
そこまで思考が至ったが、すべて頭の中で打ち消した。
静音にはマッドが何を考えているのかいまいち理解できない。平賀でマッドとの付き合いが一番長いのは、恐らく当主を除けば真信だろう。静音は二人がどのようにして仲良くなったかを知らない。
静音も他の門下と比べればマッドとの親交はあるほうだ。それでもあの天才の目的というものを掴めたことが一度もなかった。
人を殺すものを作らないマッドが唯一完成させた、人を安易に殺せる薬。それを真信に持たせることには、きっと何かしらの意味があるのだろう。静音程度には到底考えつかない意味が。
「それは、この世でマッドにしかできない意義なのでしょうね」
左耳の傷を指でなぞりながら、諦観に似た自虐とともにこぼす。
深月も、奈緒も、そしてマッドですら、自分にしかできない何かで真信に確かな影響を残している。
彼女達にしかできないことを成している。
(私も、自分にしかできない形で、あの人のお役に立てればいいのですが。そんなもの私には……)
静音は何かを極める才能が欠如していた。
平賀で学んだあらゆる分野において基礎の習得は早かった。式を示されれば難しい理論も理解できる。だがその先──新しい何かを生む創造性が静音にはなかった。
平賀で最も必要とされる専門性と独自性、それに恵まれなかった。だから静音には自信というものがない。極めることができない静音ではいつだって、代替え品にしかなれないからだ。
真信は昔、替えなどいないと言ってくれたけれど、その言葉を素直に受け止められるほど自己肯定感を育てられてはいなかった。真信は優しいからそう言ってくれるのだと解釈しているのだ。
だから彼女は、自分を唯一無二の何かに成れたことなど一度もない凡人なのだと思い込んでいる。
(きっと私が"特別"になるには、何かを犠牲にしなくてはならないのでしょうね)
その正体が未だ掴めずにいる。
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