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 竜登りゅうとにはもう、その任務がどんな内容だったか詳しく思い出せない。だが、一生忘れられない一瞬を経験したことは確かだ。


 海外から来たとある組織を一掃する任務だったはずだ。その組織は人身売買──主にデザイナーベビーを売りさばいていた。竜登たちが潰したのはその日本支部地下プラントだ。


 依頼人の要望は、組織に関わる全てを潰すこと。それにはさらわれて無理矢理子どもを産ませられていた被害者女性や、保育器に入れられ母恋しさに泣き声を上げる赤子も含まれている。


 組織の人間を皆殺しにして、アジトに爆弾を設置している間、竜登の手は震えていた。


 おりの向こうから助けてと悲鳴を上げる女たちを無視して。

 自分がどうなるかなんて何も知らず穏やかに眠る赤ん坊から目を逸らし。


 自分が計算し、設置地を割り出した爆弾の起爆スイッチを、竜登は安全圏に退避して握る。


 平賀は慈善団体ではない。どんな依頼でも完璧に成し遂げることが仕事だ。だから依頼者が殺せと言うのなら何の罪もない相手であっても無慈悲に殺さねばならない。何度も経験した命がけのルーチンワーク。だがこの規模の無慈悲は竜登にとって初めてだった。


 組織の口車に乗せられ集められた女性たち十五名はまだしも、掴まり立ちもできない赤子たち三十四人になんの罪があるのか。自分がこのボタンに少しでも力を込めれば、それらが一瞬のうちに死んでしまう。殺してしまう。


 設置が滞りなく終わり全員が退避したことを目つきの悪い女性が指揮官へと伝える。その瞬間、竜登の心臓が跳ねた。次に言われることは分かり切っている。


「爆破担当責任者、聞いての通り準備が終わった。起爆だ」


「はっ、はい!」


 下りた指示に、からからに乾いた舌を必死に動かして返事をする。自分を後押しするようにわざと大きな声を出して。


 だが指は動かなかった。勢いで押してしまえればよかったのに、一番の機会を逃して震えはもっと酷くなった。


 脂汗が全身から噴き出す。視界が暗くなっていく。押せないボタンの上でこれ以上動いてくれない親指を見下ろすことしかできなかった。


 その手が不意に包まれる。自分よりも小さな手。目の前にいたのは今件の現場指揮官、平賀家三男坊、平賀真信だった。


 竜登の冷たい手を覆った少年の手が、親指を優しく押さえ込む。


 あっと思った直後、足元が揺れた。爆弾はすべて正常に作動した。報告を受けて、真信はやっと竜登の手を放す。


「押させたのは俺だ。キミの意思じゃない。そうだろ」


 静かな声音に顔を上げる。真信は指示に従わなかった竜登になぜか、優し気な視線を向けていた。


「辛いなら無理しなくていい。そういうのはぜんぶ俺が背負うから。今度は一人で押せるね?」


「はい……」


 それ以上、叱咤しったはなかった。平賀に戻ってもおとがめめ一つなかった。


 竜登はこの日の出来事を何度も思い返す。

 現場の責任はすべて指揮官へ帰属する。当たり前の話ではあるが、今までそれを言って貰えたことなんてなかった。たったあれだけの言葉で、どれだけ自分の心が軽くなったか。


 それからだ。竜登が真信を信望するようになったのは。





 どこまでも続くように思えた石造りの狭い通路も、終わりが見えてきた。もう少しで大部屋に着く。その先が外へ通じる出口になっているはずだ。


 静音はせり上がって来た何かの予感を飲み下して太刀の柄を強く握る。


 そうして隣の少女へ暇つぶしにと語っていた話を締めくくった。


「あの仕事のあと、真信様はトイレに立ち寄りました。すぐいつもの様子で出てきましたが、恐らくは胃の中身を吐き出していたのだと思います」


 語ったのは人身売買組織を滅ぼした任務の顛末。


「真信様は強いわけではありません。他の者の痛みを背負うことで、強がっていらっしゃる。そうしてやっと立っているのです。ですから深月さん、真信様をこれ以上傷つける相手を、私はきっと許すことはできません」


 呼びかけて、歩みを緩めた少女の眠たげな瞳をじっと見る。深月は静音を見上げてほころぶように微笑んだ。


「私も、真信が幸せでいてくれたらって願ってるよ」


 短い返答に、静音はひそかに口を引き結ぶ。


 その答えは、ずるい。本当ならこれ以上何も言えない。

 だが彼女の笑みに微かな不信感を抱いてしまったからこそ、静音は一つだけ付け加えた。


「深月さん」


「なに?」


「真信様は、貴女のことが本当にお好きなのだと思います」


「? うん」


 曖昧に首を傾げる深月に、静音はああ伝わってないなと内心で苦笑した。胸元に感じた一瞬の痛みを意識の外へと追いやって。





 大部屋に出て深月は目を疑った。

 ずっと閉ざされ使われていなかったはずなのに、そこにはたくさんの死体が転がっていたからだ。


「これは……全員アカデミスタですね。まだやられて一時間も経っていないようです」


 死体を検めた静音が言う。確かにみな同じ武装をしている。死体は心臓を一突きにされている者もいれば、手足を引きちぎられている者もいた。敵が侵入していたところまでは理解できる。では、これをやったのはいったい誰なのか。


 氷向ひむかい綾華りょうか──イナーシャがアカデミスタと敵対しているであろうという情報は聞いている。ではこれも彼らの仕業なのか。もしそうならこの先にいるはずだが、コンクリート打ちっぱなしの床にそんな大勢の足跡は残っていない。周囲を見渡すが、古い木箱が隅に積み上げられているばかりで人が隠れているなど、


「んー?」


 木箱の横で一人の少女がうずくまっていた。死体たちとは明らかに違う。生きている証拠に身体が呼吸を刻んでいるのが離れていても見て取れた。


 まさか一般人が迷い込んでしまったのか。そう思って少女に近づく。


「ねーあなた、どうしたの──」


 少女に手を伸ばす。その腕に針を刺す痛みが走った。


「ぇ……」


 かと思うと体が前のめりに倒れていく。身体が言うことを利かない。あわや床に顔面から突っ込むかと目を閉じたが予想した衝撃がない。視線だけ動かして気づく。うずくまっていたはずの少女が深月を抱きとめたのだ。


 声も出ない。眠気が強くて頭も働かなかった。前にも同じようなことがあった気がする。どうやら薬を盛られたらしい。犯人はもちろん、この少女。


 油断していた。深月は育ちのためか悪意や殺意には敏感だ。だからこそそういったものが皆無だった少女に警戒心を薄めてしまった。


 黒髪を頭の形に切りそろえた少女は、動けない深月を床に降ろしてニッコリ笑う。


「やった、捕まえた! うん、これなら持ち運びも楽そう。暴れられたら壊すしかなくなるもんね」


 無邪気な声でそう言われて、深月は背中に冷たいものが走るのを感じた。さっきは見えなかったが、少女の手は絵の具に漬けたかのように真っ赤だ。


 この幼げな笑みを浮かべる少女がここの死体を作ったのだと、深月は直感的に理解する。


(不味い。なんかこの子危険だ。でもこれじゃ逃げられない)


 落ちそうになるまぶたに必死に抗う。それが深月にできる精一杯の抵抗だった。


 そこに通路のほうを見に行っていた静音が帰ってくる。


「深月さんに何をしているのですかっ」


 倒れている深月を見つけて静音は冷静に声を上げた。相手を刺激しないだけ慎重に距離を詰める。だが少女はそんなこと気にしない様子で表情を輝かせた。


「あ! 静音だ」


「ど、どうして私の名を」


「ええ? あ、そうか。ちゃんと会うのは初めてか。ふふっ、へんな感じ」


 警戒しいぶかしむ静音とは対照的に、少女は心の底から嬉しそうに笑った。


「私は永吏子えりこ。ただの永吏子。せっかく会えたんだし、一緒に遊ぼうよ静音」



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