第27話 心の置き場

 ロビーでの順子さんとの一件以来、僕の心の中には小さなわだかまりが残っていた。

 帰りの電車でも、途中で立ち寄ったコンビニでも、部屋に辿り着くまでの詳細な記憶は、まるで無かった。電車に乗り、コンビニに寄った。ただそれだけだった。

 自分の心の中でうずくまった提案を、一旦元の場所に戻そうと試みても、蟠りはそれをすんなり運ばせてはくれなかったのだ。

 でも考えてみれば、ここのところの遥の態度も、順子さんのあの時の拒絶も、何か本質的なところでは繋がっているように思えてならなかった。

 どうして遥は、僕たちの記憶に正しいスタートラインを引こうとしたのだろう。深く考える事でもないのかもしれないけれど、何故かその事も僕の中では違和感を覚え始めていた。

 考えてみればこの数カ月、僕たちは恐ろしく不安定な場所で、必死にバランスをとろうとしているようにも思えた。



 土曜日も昼すぎまで現場に入り、夕方前には遥の病室に顔を出すことが出来た。

 ステロイドの無投与期間の遥は、病気なんて信じられないくらいに元気だった。

 そんな時は、僕が病室をノックすると、明るく出迎えてくれるのだった。


「調子はどう?」


「どうもこうもないくらい元気」


 いつもの様に遥はベッドに腰かけ、僕は折り畳みの椅子を広げて座る。

 ふと見ると、ベッドの上にはノートが置かれていた。


「ノート?」


「うん、コピーを書いてたノート」


「コピーの練習?」


「これは、宝物なんだよ」


 遥は嬉しそうに言う。


「そうなんだ」


 僕は微笑んで返す。


 遥はノートを抱きしめて、もう一度嬉しそうな笑顔を向ける。


「実はこれはね、新商品のコピー案件から降ろされたときに、聡子に渡したノートなんだ。私は参考にって聡子に渡したんだけど、聡子はこの中からいくつか選んで、プロジェクトチームに提出してくれたんだって」


「聡子ちゃんやるね~」


「うん、そうなの。そしたら採用されたんだよ。それも私の名義で」


「すごいじゃん、遥!」


「だから嬉しくて嬉しくて。だってあんなに苦労したんだもん」


「遥の夢かなっちゃったね。そうか~、だから宝物」


「それに聡子も望月さんも宝物だよ。あ、そういえば丞ちゃん!」


「ん? なに?」


「前に散々嫉妬してたけど」


「え…? 嫉妬?」


「聡子と望月さん、付き合い始めたんだって」


「そうなんだ…。いや、別に嫉妬なんかしてないけど…」


 正直何と言ったら良いのか分からなかった。

 でも何だかよしよしといった感じだった。


 窓の外を眺めると、夕暮れの訪れもずいぶん早くなったように思えた。


「丞ちゃん…」


 遥が少しかしこまった形で言った。


「どうした?」


「お母さんから聞いたけど、入院費の話…」


「ああ、あれならもう良いんだ。何か出しゃばりすぎちゃった。僕としては覚悟を見せたつもりだったんだけど…、本当恥ずかしいよ」


 覚悟という言葉が、発した自分の口許から、違和感が張り付いたみたいになった。


「違うの、丞ちゃん」


 遥が言った。


「ありがとう…。丞ちゃんが色々考えてくれてて嬉しかった。それにお母さんのことも、ごめんなさい…」


「いや、大丈夫。本当」


 この件に関しては、僕としても落としどころを見つけることが出来なかった。正直今でも必要とされれば、大金は無理にしても、すぐにでも手配したい心積もりに嘘はなかった。

 でも、と僕は思う。

 もしかしたら、僕は何か大きな勘違いをしているのかもしれない。僕は遥を支える自分自身や、或いは遥に訪れた現状や、ひいては覚悟さえもお金に換算しようとしたのではないか。順子さんはその方向に進み行く僕を、必死に引き留めてくれたのではないか。

 でも答えなんて僕には分からなかった。

 やはり何だかバランスを失った地盤の上で、転がる球体を中腰で追いかけているような、そんな心持だった。



 その日の夜、久しぶりに木村さんを誘い出すことにした。

 何だか無性に木村さんに話を聞いてほしかった。

 僕の方から電話でお願いすると、木村さんは二つ返事で応じてくれた。ただし、息子さんの食事と風呂を済ませてからとのことだった。それと日曜日で金時は休みだともつけ加えられた。


 木村さんから指定されたのは会社近くのチェーン店の居酒屋だった。

 僕と木村さんとは、駅前で合流し、入店した。

 テーブル席で、向かい合わすと木村さんが笑う。


「変な感じだな、向かい合うのは」


「初めてですね」


 僕は笑って答える。

 そこで店員が注文を聞きに来る。

 木村さんは即答する。


「俺は生ビールのジョッキな」


「あ、僕も同じものを」


 僕が答えると、木村さんがまた笑う。


「宮内、そこはまた同じかよ!」


 僕も木村さんもすでに食事は済ませていたので、軽く摘まめるものをいくつか頼んだ。

 すぐに運ばれてきたジョッキを合わせ、一口目を喉に流し込む。


「突然誘ってしまって、すみません。息子さんのことは大丈夫ですか?」


「今更言うなって、おふくろが喜んで引き受けてくれたよ。お前を慕ってくれる後輩なんて、めったにいないからいってやりな、って」


「木村さんのお母さん、すごく良く分かってらっしゃいますね」


「バカヤロー、宮内! 本当のこと言われると腹が立つんだよ!」


 木村さんは豪快に笑う。

 そして出されたお通しの枝豆を青虫みたいにむしゃむしゃと貪りつく。


「で、宮内。話があるんだろ?」


「はい…」


 僕は恐る恐る話す。

 遥の現状と、順子さんとのやり取り。

 木村さんには珍しく、生ビールに口をつけることなく、頷いたり難しそうに唸ったりしながら、真剣に聞き入っていた。


「今、そんな感じなんです」


 僕は一連の状況を話し終え、ジョッキのビールを軽く口に含む。

 木村さんは少しだけ僕の眼を覗き込み、口を開く。


「俺には分かるなぁ…、そのお母さんの気持ち…」


 それからジョッキに口につけ、木村さんはビールを一気に飲み干す。

 呼び鈴で店員を呼び、生ビールを僕の分も注文する。

 僕は急いで、まだジョッキに残るビールを飲み干した。


「俺も息子と二人で生きてるじゃん? 

 まあ、うちはおふくろが時々見てくれるから、そのお母さんほどではないけどな。

 でもよく分かんだよ。やっぱ親が子を思う時って、結局金と飯なんだよ。

お腹減ってないかなぁ~、服の丈は大丈夫かな~、やれ勉強道具だ、おもちゃだなんだって、金に繋がっていくんだけどさ。

 それにこれは俺の場合、俺の責任なんだけど、片親じゃん?

 そうするとその辺りは、余計に気になるんだよ。

 そのお母さんは病気で旦那さん亡くしてるだろ?

 だから余計に娘には不憫な思いさせないように必死に働いて、お金の苦労だけは、ってやってきたんだよ。

 それは本人の誇りでもあるはずだよ。

 最後の砦なんだ。

 子育てしてきた証なんだ。

 だから宮内の申し出に過剰に反応しちまったんじゃないかな。

 そういうの、俺は分かる。

 でもな、宮内。

 お前の申し出に腹を立てたんじゃないんだよ。

 自分に足りない部分が見えてしまったように思えて、そのお母さん自身が恥ずかしくもあったんじゃないかな。

 本当は、涙が出るほど嬉しかったはずだよ。宮内の事、心から頼れる人間に見えたはずなんだ。

 でも、今は少し待ってやんないか?

 お母さんのことも、その子のことも。

 もう少し見ててやんなよ。

 もう少しお母さんでいさせてやんないか?

 それからだって良い筈だよ。

 あまりその関係に今、分け入っちゃうとありがたくてさ、申し訳なくてさ、苦しめちゃうかもしれないから。もう少し待ってやんなよ。

 宮内はほんの少しだけ身を引いた場所から、いざって時は、って大きく構えてやんなよ、な」


 木村さんの話を聞きながら、僕は涙がこぼれていた。

 何と云うか、自分の焦りが露呈してしまって恥ずかしくもあった。

 僕はあの親子をずっとそばで見ていたはずなのに、肝心なところを外してしまっていた。

 そしてあの親子関係の心地良ささえも、すっかり忘れていたことに気づかされた。


「泣け、宮内。それでいい。俺だってこんな状況じゃなかったら、分からなかったことだ。その子もお母さんも素敵じゃねぇか、な」


 木村さんの声も少し上ずっていた。

 僕はすすり上げて言う。


「木村さん…、泣いてるんっすか…?」


「バカヤロー、宮内。俺は泣かねえけど、時々目から何か出るんだよ。

 良いじゃねーか、なぁ宮内。お前、良いじゃねーか、なぁ…」


 金時じゃなくて良かった。その時だけはそう思った。


 それから二人で泣きながら、終電までビールを飲んだ。

 僕にしてみれば、順子さんとのことの、心の置き場が定まった感じがした。

 焦らずあの二人を支えていこう。そう思っていた。

 僕はその夜、木村さんに何度も何度も礼を言った。

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