第23話 昔と今と

 日曜日は朝から遥の自宅に顔を出した。

 珍しく全く何もない休日を作ることが出来たのだ。

 駅の近くで遥が好きそうなケーキを買い、トランプも持参していた。

 僕としては、遥ゆっくり一日過ごすことが出来る事が嬉しかった。



 玄関で出迎えた遥にケーキを渡し、台所にいる順子さんに挨拶する。


「順子さん、お邪魔します」


「丞君、珍しく今日は早いね」


「本当に珍しく、何もない日を作れたんです。今日は一日中お邪魔していくつもりです」


「私はこれからパートだから、ゆっくりしていって」


「ありがとうございます」




 順子さんが出かけた後、遥はハーブティを淹れながら、楽しそうに僕に訊ねる。


「ケーキはもう食べちゃう?」


「まだでしょ。ケーキは午後のおやつタイムだよ」


「何だか待ちきれない!」


「遥の好きそうなタルトを見繕ってきたから」


「あの箱ってルートゥ・フルーリのだよね!」


「さすが遥は目ざといね」


 僕たちはそれから、僕が持参したトランプでババ抜きを楽しんだ。

 トランプをするのは、本当に何年ぶりのことだろう。

 社会人になってからは一度もしていなかったと思う。

 何せ自分がトランプを持っていた事さえ、忘れてしまいそうなほどだったのだ。


 遥が懐かしそうにカードを眺める。


「これって大学の頃、旅行したときのだよね?」


「そうだったね」


 そうだ確か熱海に行った時、ホテルの売店で買ったんだった。

 遥がホテルの夜はトランプでしょ、と半ば強引に僕は買わされたのだ。

 実際、ホテルの部屋でトランプをはじめてみると、二人でかなり白熱したことを記憶している。

 そんな事もあって、このトランプはその後も僕たちの旅行には欠かせないものになっていた。あるときは北海道。またある時は高知へと、僕たちの旅には必ず随行してくれたトランプだ。



 遥は僕の持ち札の、最後の2枚のうちの1枚を慎重に選ぼうとしていた。

 遥の手札はあと一枚。

 スペードの3を引けば、手札を揃えて遥の勝ち。

 ジョーカーを引けば、次は僕が上がり札を選ぶ番だ。

 遥は見事ジョーカーを引き、悲鳴を上げる。


「ギャー! 引いちゃった!」


 あの時と一緒だ。

 僕たちはこんな単純なゲームに大喜びしていたのだ。

 今みたいに、遥はジョーカーを引くと悲鳴を上げる。

 もちろん僕だって、ジョーカーを引けば悲鳴を上げる。

 あの頃も僕たちは、飽きもせずにずっとこんな風に遊び続けていた。

 今こうして悲鳴を上げる遥の姿を見て、一体あの頃と何が違うのかと考える。

 こうして見ている限り、遥はあの頃と何ら変わることなく、元気な姿に見える。これが本当に病人なのかとさえ疑いたくなる。



 今度は僕が遥の手札を引く番だった。

 遥の2枚の手札から上がり札を引くのは、それほど難しくない。

 遥は自分の守りたい札を、じっと見つめる癖がある。

 遥が見つめる札は、いつもジョーカーではなく、引いては欲しくはない方のカードだ。



 遥は僕から見て左の手札をじっと見つめていた。

 大きな瞳と、緊張した面持ちで見据えているのだ。

 僕はわざと右側の手札を引く素振りを見せた。

 遥の口が悲鳴を上げそうに開きかける。

 しかしとっさに僕は、その手をもう片方の手札に向け、一気に引き抜く。悲鳴を上げるのは僕の方だった。遥にしてやられてしまった。

 遥が見つめていた手札はジョーカー方だったのだ。

 遥が喜びの歓声を上げる。


「やったー! 丞ちゃん引っ掛かった! もうあの頃の私じゃないんだから」


 そうだ、僕達はもうあの頃の僕達ではない。

 はしゃぐ遥を眺めながら、何故か妙に納得する。

 そして少しだけ寂しくも思う。

 遥はすぐに僕の手から上がり札を抜き取り、さらなる喜びを爆発させる。


「上がりー! 丞ちゃん、悔しい?」


「悔しーッ!」


 遥が無邪気に笑っている。

 こんな笑顔を見るのは久しぶりな気がした。

 これでいいじゃないか。僕は何となく行き場のない気持ちに折り合いをつける。

 僕たちはあの頃とは違う。

 そんなこと当たり前じゃないか。







 昼食には遥がパスタを作ってくれた。

 以前にも作った事があるらしく、どうしても僕に食べさせたかったのだという。

 遥は台所に立つと、手早く準備を始める。

 普段はどちらかというと不器用に見えるのだが、料理をするときの手際は、驚くほど素早い。この才能は順子さんから譲り受けたものかもしれない。パスタをゆでる音や、ニンニクを刻む音。見る見るうちに美味しそうな匂いが漂ってくる。

 ほんの僅かな間に、テーブルにはサラダにスープ、そしてペペロンチーノが並んだ。

 我々はさっそく手を合わせ、僕は真っ先にペペロンチーノに手を付ける。


「遥、美味しいよ!」


「えへへ。でしょ?」


 遥は嬉しそうに、にっこり微笑む。

 ニンニクの香りや唐辛子の辛味、塩加減も絶妙だった。

 僕は夢中でペペロンチーノを貪り、サラダやスープも味わう。そしてあっという間にすべての料理を平らげてしまった。


「本当においしかった」


 僕が言うと、まだ食べ終わっていない遥は、スープカップに手を添えながら微笑む。

 平和な昼だった。

 テーブルのそばの窓からは、真っ青な空が覗いていた。梅雨も明けた空は分厚い雲が時々流れ、夏そのものといえた。


「天気良いね」


 僕は言った。

 遥はそれに答えるともなく、食べ終えて手を合わせる。

 僕は呆けたように、また口にする。


「すっかり夏って感じだね、遥」


 遥はまたそれにも答えず、食べ終わった食器を重ね、台所へ運ぶ。

 そしてテーブルを拭きあげながら、僕に訊ねる。


「ペペロンチーノ美味しかった?」


「うん、すごくおいしかった」


「どれくらい?」


「そうだなぁ…、もうこれくらい!」


 僕は両手をいっぱいに広げて遥に見せる。

 でもそれだけでは表現できず、今度は上下に手を広げ、面積を広げる。

 遥が嬉しそうに笑う。


「ありがとう。作った甲斐があった」


「本当に遥の料理はおいしいよ、職業間違ったんじゃないかってくらい。料理職人になった方が良かったんじゃない?」


 次の瞬間、遥が叫んだ。

 それは悲鳴にも近かった。


「丞ちゃん」


 遥のテーブルを拭く手が止まる。

 彼女が弱々しく息を吐き出すのが分かった。

 遥は拭きあげていた手で雑巾を握りしめ、その手でテーブルを叩く。


「丞ちゃん…、私は違うよ。私がしたいのは宣伝の仕事だよ!」


 遥の目から大粒の涙が零れ落ちた。全くのところ、僕の頭はおめでたかった。無神経にも程がある。

 遥はこの現状を楽しんでいるわけではないのだ。

 遥はこの現状を必死に受け入れようとしているだけなのだ。

 僕はなんて無神経に言葉を発しているのだろう。


「遥、ごめん…。無神経過ぎた…」


「丞ちゃん…、丞ちゃん…」


 絞り出すように、遥が僕を呼んでいる。うなだれる僕にはどうしたらよいのかさえ思いつかない。

 僕はまた、無神経に遥を困らせてしまったのだ。

 木村さんは言った。お前がその子を想ってパッと思いついたことが、あながち間違いじゃないと思うんだよ、と。

 今僕は遥のことをいただろうか。

 僕はしっかりと遥の背景を、遥の自身を、いたのだろうか。

 さっきだって、むやみに外に出られない遥に、天気の話なんてするんじゃなかったんだ。


「丞ちゃん…」


 遥が言った。

 そして苦しく、悲しく、言葉をつないだ。


「丞ちゃん…、ごめんなさい。違うの…、謝らなくちゃいけないのは…、私の方なんだよ…」


 遥は雑巾を手放し、両手を組んでそれを額に押し付ける。


「丞ちゃん…、ごめんなさい…。私もこの感情をどうしたら良いか分からない。もうぐちゃぐちゃなんだよ。丞ちゃんに悪気が無いって解ってるのに。心が追い付かない。丞ちゃん優しいから色々気遣ってくれるんだけど、そんな優しい丞ちゃんにも苛立っちゃうんだよ。私最低なんだよ…」


 何と答えたらよいのか、僕には分からなかった。でも例えそうだとしても、至らないのは僕の方でしかなかった。僕は傷ついてる目の前の遥に、どう声をかけるべきなのか。

 遥がすすり上げ、僕を見つめた。まだ涙が流れていた。


「丞ちゃん…、今日はもうごめんなさい…」


 情けないことに僕は何も言えなかった。

 結局、遥の病状や現状を、僕は全く理解できていないようだった。

 悲しんでいる遥をこの場に残していくことが正しい事なのかまるで解らないまま、僕は遥の自宅を出た。

 少し歩き、振り返って遥の自宅の方を振り返ると、空は場違いなくらい青かった。

 駅に着く少し手前で、スマホに遥からのメールが届く。


「丞ちゃん、取り乱して本当にごめんなさい。せっかくのお休みだったのに。この病気を受け入れるためには、私にはもう少し時間が必要かもしれません。丞ちゃん、それまで私に時間を下さい。心だけでも必ず元気になります」


 僕はすぐに返信する。


「遥、僕の方こそ無神経でごめんなさい。少し寂しいですが、遥の思うようにすることが、今は一番大事なことのような気がします。僕の方こそ、遥を受け入れるために時間に使おうと思います。ただし待つのは少しだけです。その間に僕自身も今の遥を受け入れる成長を遂げるつもりです。時々メールは下さい」



 電車に乗った後も、しばらくスマホの画面を眺めていたけれど、遥からの返信はなかった。

 僕はこの期に及んでも、遥の家に残してきたタルトの事を、何故かぼんやり考えていたのだ。

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