第34話 覚悟と理由
仕事に打ち込む毎日というのは、時の過ぎ去る速度を早めるんじゃないかとよく思う。
相変わらず遥のいない日常は僕を落ち込ませていたし、遥の好きそうなものをつい追ってしまったり、心の中ではいつの間にか遥と会話をしていたりと、本当にどうしようもないくらい、僕は未練を募らせていた。
つまり木村さんの指摘の通り、未練ばかりの私生活から逃れる様に、仕事に打ち込んでいたのだ。
季節はあっと言う間に師走に突入していた。
ひどく冷え込む日を迎えると、遥は寒くしてはいないかと気に掛かったりする。
病気が完治したとは言え、体温が下がると免疫力も下がるのだと、何かで読んだ事がある。
僕がこんな心配をしているなんて知ったら、きっと彼女は大きなおせっかいだと言うだろう。
でも僕の中には、遥と遥のお父さんから引き継いだ、おせっかいの先の先の優しい世界を望む魂が宿っているのだ。
もしかしたら、こんな想いでさえも
現場にいるときからぐっと冷え込んでいた寒さも、夕方からは更に冷え込みを増していた。
その日は部内の忘年会で、一次会でしたたかに酔いしれた後は、二次会へ。
そのあとは木村さんと二人で三次会と称し、会社近くの小さな居酒屋の暖簾を、千鳥足でくぐった。
もう二人ともビールにしろ、焼酎にしろ、日本酒にしろ、たらふく飲んで酔いどれてしまっていた。
カウンターに通されて並んで座り、さて何を飲もうかと迷っていると、木村さんがショーケースで良く冷やされた吟醸酒を指さす。
「宮内、あれなんてどうだ?」
「こんなに寒いのに、ですか?」
「バカヤロー、年末だからかまやしないよ」
「木村さん何ですかその理屈。意味分からないですよ。それに日本の年末は寒いって話です」
「良いんだよ、年末だから。今日は俺の酒に付き合ってくれ、ってことよ」
「良いですけど、ちょっと高そうな酒ですよ」
「だから良いんだよ、年末だから」
僕はわかりましたと頷いて、カウンターの向こうの大将に、そのお酒を下さいと注文する。
大将は小気味よく承知すると、ガラスの徳利に吟醸酒を二合分たっぷり入れて、同じくガラスの盃と一緒に僕と木村さんの前に置く。
すかさず木村さんはホワイトボードを眺めて、エイヒレを注文する。
僕が木村さんの盃を満たすと、木村さんが僕の盃に酒を満たす。
二人で乾杯し、一口目を流し込む。
さすがに高い酒だけあって、流れるように喉元を通り過ぎる。喉越しが本当に心地良い。
またすぐに二人で盃を満たす。
炙ったエイヒレが届くと、木村さんは嬉しそうに口に放り込む。
「こうして二人こっきりで飲むのも久しぶりだな」
木村さんが言って、何故か僕の背中を叩く。
「本当ですね。お互い師走はバタバタでしたもんね」
「バカヤロー。確かにそうだが、お前は特に突っ走ってたよ。何だか知らねぇけど」
僕は自嘲気味に笑う。
まだ遥とのことは、木村さんに話せてはいなかった。
「木村さんには、仕事を私生活の逃げ場にするなって言われましたけど、そのままでした。実は秋口に彼女にフラれてしまいました」
それから僕は、木村さんにこれまでの
パルス療法がうまく行って退院したこと。その後の経過で完治が認められたこと。久しぶりにデートをしたこと。しかしそのデートの終わりに、別れを切り出されたこと。彼女が自分の健康と引き換えに、僕を神さまに捧げたという話。僕には未練があって、その後連絡しようと試みるも、電話番号はすでに変わっていたこと。それでも彼女のお母さんに連絡は取れるけど、僕にはそれが出来なかったこと。
いつもの様に、木村さんは時々頷いたりもしたりしながら、黙って話を聞いてくれた。
すべて話し終わり、僕が吟醸酒を飲み干すと、木村さんはさっとその盃を満たしてくれた。
「木村さん、僕には解らないことだらけなんです。いまだにどうして別れなくてはならなかったのか、答えが出せないんです」
木村さんは盃の酒を舐めるようにして飲み、一点を見つめていた。
何か深く考えているようにも見えた。
しばらくそんな風にしてから、木村さんは頷いて口を開く。
「宮内、俺の経験だけ話させてくれな。
俺の嫁さん逃げたときな、やっぱり理由なんて解らなかったよ。
俺としては幸せそのものでさ、何が起きたんだかちっとも見当もつかなかった。前に宮内に色々理由を言ったけど、それだって本人から聞いたわけじゃないんだよ。俺が想像しただけ。
つまりよ、俺が自分を納得させるためにさ、自分で作った理由なのよ。
たださ、俺の中に一つだけ引っ掛かったことがあるんだ。俺が家に戻る寸前まで、ついさっきまで居たみたいな温もりがまだ家に残ってたってこと。それから当面、息子が困らないような支度がしっかりしてあった事なんだよ。
連絡する方法なんてあったよ、すぐに。探す事だって出来た。でもしなかったんだ。周到に準備して、息子が少しでも困らないように、直前まで息子のそばにいたんだ。何か覚悟すら感じたよ。同時に、俺が息子のそばでこの温もりを絶やさない、俺自身にとって本当に大切なものを渡され、突き付けられたような感じがしたんだよ。
変な言い方だけどな、そこから俺、生きてる気がするんだよ。仕事でも、なんでも。
今のお前の話聞いてて、俺はそんなこと思い出した。宮内の話聞いてて、別れる理由なんて見つからないし、嫌いな相手にする行動じゃないよな、デートも。それなのに番号変えるって、相当な覚悟だろ?
本当はさ、神様に身を捧げたのは彼女の方かも知れないぞ…」
木村さんの言葉が、核心をついたような気がした。
でもその時の僕には気がしただけで、何が核心なのかさえ、分からないでいた。そ
の答えを理解できるのは、もっとずっと先の話になる。
木村さんは僕の背中を叩き、優しく笑いかける。
「宮内、話してくれてありがとうな。これから先さぁ、もしかしたらその彼女は戻るかもしれないし、戻らないかもしれない。でも今はお前なりに理由を探してみろよ。それがお前を成長させてくれるはずだろ? それがさ、トンチンカンな答えでも良い。ただし人のせいにはするな。自分に足りなかったものを探すんだよ。それしかできないしな、宮内」
「木村さん、本当にありがとうございます。少しだけ見えた気がします」
「少しだけかよ!」
「年末なんで、少しだけ…」
「バカヤロー宮内! 意味分かんねーし、それは俺のセリフだってーの!」
遥が僕の元からいなくなった理由。
まずは事実を受け入れるところから始めなくてはいけないようだった。
悲しいけれど、遥は僕のもとを去ったのだ。
そんな風に考えてみると、理由なんていくらでもあるような気がした。
そもそも僕は完璧なんかじゃない。
木村さんが言うように、僕を成長させてくれるものを探さなくてはいけない。
遥の覚悟を、解らないなりにも受け止めなくてはいけないのだ。
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