第35話 一筋の光

 結局二年のあいだ、僕は暗闇の中にいた。

 遥との別れを受け入れることが、ずっとできずにいたのだ。

 どこにいても必ず思考は遥に結びついていた。

 相変わらずコンビニでは、遥の好きなお菓子を探してしまうし、寺下という姓や、遥という名に遭遇するだけで胸が高鳴った。

 同じ背丈の女性に声を掛けそうになった事だって、何度もあったほどだ。

 受け入れるという根本的な意味でさえ、僕にはちっとも分らなかった。

 受け入れるということが、忘れる事では無いのだと自分に言い聞かせた。

 それでも遥が望んだことが、もしも忘却という答えだったとしたなら、僕はいったいどうすれば良いのか。時にそんな恐怖に襲われることもあった。

 自分の中にある未練が、こんなにも大きいのだと自分でも驚くほどだった。

 色彩を欠いた世界で、僕は惨めで仕方が無かった。

 早くこの暗闇から立ち直らなくてはと、いつもどこかで願っていた。


 一人の時間が多くなるにつけ、小説の執筆も始めた。

 前に遥がもう一度僕の小説を読みたいのだと言ってくれたことも、励みになっていた。

 僕は遥とのこれまでの事を小説として描くことに執着した。

 でも何度試みようとも、僕には遥との出来事をうまく描くことが出来なかった。

 答えは明確だった。遥との日々を、遥との別れを、僕にはまだ受け入れることが出来ていなかったからだ。

 遥との日々を物語に昇華させるのには、僕の想いはまだまだ未熟でしかなかったのだ。

 それでも書くことは、僕の中にあるを、確かに埋める行為にはなっていたようだ。

 その当時、僕はひとつ短編を完成させている。

 遥とは関係のない物語ではあるけれど、感情を言語化していく過程で、僕は静かに癒されていた。

 色彩を欠いた世界の中で、複雑に絡まった感情を必死に解きほぐすように、僕は僕を見つめていた。

 その中で紐解かれた、か細く輝く一筋の糸を、僕は必死に掴み取ろうとしていたのだ。

 それでも結局僕は、もう一度自分自身を取り戻すために、ただただ願うことしかできなかった。

 そして、そんな風に藻掻きもがき苦しむ中で、唐突にその願いは叶うことになる。

 それからまた三年後、僕は詩織と結婚することになるのだ。

 詩織とは、購買部の佐々木詩織のことだ。



 僕と詩織を結びつけたのは、木村さんだった。

 その頃の木村さんは、公共事業を取り扱う部署へと移動になり、同時に課長にも昇進していた。

 三十歳手前での異例の抜擢だった。

 そして同じタイミングで、僕も木村課長付きの課長補佐という大役を仰せつかったのだ。

 これは後になって人伝ひとづてに知ることになるのだけれど、課長への抜擢を、木村さんは当初固辞していたらしい。公共事業を仕事とし、役職を考えると、息子さんとの時間を作れなくなることが辞退の理由だったのだ。役員としてはどうしても木村さんを抜擢したかったらしく、双方何度も協議したとのことだ。

 最終的には補佐役として僕を下につけることで、木村さんは移動と昇進を承諾したとのことだった。

 おかげで僕の仕事量は、恐ろしく増大した。

 つまり木村さんにとって、社内で最も使いやすい手駒とされたのだ。

 それでも当時の僕としては、そんな仕事量が逆にありがたくあったのも事実だったのだ。

 そんなこんなで、木村課長からは、仕事に於いてもプライベートに於いても、よくお呼びが掛かる様になった。公共事業には何かとルールも多かったので、僕としても、いつも木村さんを質問攻めにしていた。

 それに遥とのこれまでの経緯も木村さんにはたくさん聞いてもらったし、木村さんの息子さんの話もたくさん聞かせてもらったりした。

 そんな小さな社外ミーティングの戦場は、決まっていつも「金時」だった。

 仕事に厳しい木村課長との言い合いは、時に金時の大将すら口出しをはばかられるほどの熱のこもりようだった。

 とは言ってもほとんどの場合、いつもの調子で軽口をお互い言い合いながら、公私入り乱れてのやり取りだった。

 仕事に埋没する日々も、今にして思えば僕の土台を作る大切な日々だったのかも知れない。



 その日の終業後も、木村課長から金時に呼び出しがかかった。

 役所や現場から上がって来る様々な案件を整理し、翌日に木村さんへ上げるための資料作成を済ませ、僕は急いで金時へと向かった。

 暖簾をくぐると、カウンターには木村さんの姿はなく、先に座ろうかと椅子を引くと、大将が首を振る。


「今日はあっちだってよ、課長様が」


 大将が座敷の方に顔を向けて僕を促す。


「珍しい。座敷ですか?」


 個室の小上がりの戸を開き、訝しく入室すると、そこには木村さんと詩織が、座敷のテーブルで向かい合っていた。


「お疲れ様です…」と、いつもの様に言いかけて、僕は驚く。


「佐々木さん?!」


 木村さんがわざとらしい威厳いげんを作り、僕を詩織の横に促し、言う。


「今日は購買の佐々木君を交えて、入札のための新戦略について話そうとだね」


 そこで詩織が木村さんの話を遮る。


「そんな話じゃなかったですよね、木村さん。それに私にはそんな権限も見解もありません。ただの受付です」


「あ…、そだったっけ? まあ、とりあえず酒でも頼もうか…」


 今や社内でも飛ぶ鳥を落とす勢いの木村課長も、佐々木詩織の前では、なぜかタジタジだった。

 僕はよく状況が呑み込めないまま、それぞれの酒を注文し、適当につまみも見繕った。

 乾杯をして酒が回ってからも、著しくパワーバランスを失った我々は、結局社内での情報交換みたいな形で話を進めていた。

 散々酔いしれた後、木村さんは息子のノートを買わなくちゃいけなかった、と訳の分からない口上をたてて退室した。

 我々はしばらく惰性で席に座ってはいたけれど、僕としてもどうしたものかと考えて、今日の所は帰りましょうかと詩織に提案した。

 駅まで彼女を送ってゆく道すがら、少し後ろを歩いていた詩織が僕を呼び止める。


「あの、宮内さん。今度連絡差し上げてもよろしいでしょうか?」


「もちろんですよ。内線で宮内宛にいつでも連絡ください」


「いえ、そうではないです。個人的に…」


「あ、そうですよね。その方が便利ですもんね」


 僕と詩織は、その場ですぐに連絡先を交換した。


「宮内さん、今度またお誘いしても構いませんか?」


「あ、もちろんです。お酒が飲みたいときはいつでも。仕事以外、僕はたいてい暇にしてますから」


 またと云う言葉がいくらか引っ掛かってはいたけれど、僕は詩織の提案を好意的に感じていた。

 後から解ったのは、そもそもこの日の一席は木村さんが詩織を誘い、詩織が宮内さんがいるのならと快諾してもうけた席だったのだ。

 そしてこれも後に詩織から聞かされたのだけれど、木村さんはいつまでも一人を決め込み、仕事に埋没する僕をずっと心配していたらしい。キューピットよろしくセッティングしたは良いが、金時での、どうにもぎこちない進行役は、本当に居た堪れなかったのだと、詩織はその時の事を楽しそうに後に回想したのだった。

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