第28話 回復と新しいステージ
遥の入院期間は、結局当初予定していたよりも、一週間ほど伸びた。
とは言っても病状がひどくなったわけではなかった。むしろ驚くほど数値は回復していて、担当医からも難病であるがゆえに、回復事例としてもう少し検査や経過を見たいとの申し出によるもだった。
僕も順子さんも飛び上がってしまうんじゃないかってくらい喜んだ。
しかし遥だけは、少しむくれた顔だった。
遥にしてみれば、どうやら一刻も早く退院したいのだというところだったらしい。
最後の一週間は見舞いに顔を出す僕にとっても、心晴れ渡る日々だった。
病院の特性上、羽目を外すわけにはいかないのだけれど、これまでの遥の苦痛がその身体から消え去ったのだと思うと、毎回明るい気持ちで病院に顔を出すことができた。
今にして思えば、遥の病がそんなに都合よく事が運ぶような
遥も順子さんも、この入院生活が終わるころには、僕とは全く違ったステージに立っていたのだ。
その事も、このあと僕は嫌というほど思い知らされる。
しかしそれも二人の優しさ故の帰結であることも、僕は学ぶに至るのだった。
遥が退院する月曜日は、僕は有休を取得した。
会社を休んでまでと遠慮する二人に交じって、半ば強引に退院作業を手伝ったのだ。
とはいえ、日ごろから順子さんがこまめに荷物を運び出していたため、荷物という荷物は着替えくらいなものだった。
退院手続きをする二人をロビーで待ち、タクシーを呼んで二人を乗せる。
すぐに外出とはいかないので、そのまま遥の自宅まで急ぐ。
タクシーを降りて遥の実家に上がり込むと、すでに室内はエアコンが利いていて、ちょうど良い温度に保たれていた。
そのことに言及すると順子さんは言う。
「回復したからって、すぐ元通りって訳じゃないから」
気持ちが昂る僕に、まるで釘でも刺すかのようだった。
「そうですよね」
僕は笑顔で答えた。
何と云うか、本当に久しぶりの遥の家だった。ペペロンチーノの一件以来だ。
久しぶり過ぎて所在なさげに立ち尽くす僕に、遥が言う。
「丞ちゃん、どうぞ座って」
順子さんが声にして笑う。この感じも久しぶりだ。
「お昼は簡単なもので良い?」
順子さんが僕と遥に訊ねる。
僕が頷くと、遥が言う。
「お母さんの料理久しぶり」
僕も遥を追いかける。
「僕も楽しみです」
「わお! そんな風に言われると力入っちゃうよ!」
順子さんが言うと、我々は声にして笑い合った。
早速台所で手際よく料理に取り掛かる順子さんの背中を遥と二人で眺める。この当たり前の光景がどれほど貴重な一コマなのか。そんな事を、それぞれ感じ入っていたかもしれない。
僕が何か言葉を探していると、遥が言う。
「丞ちゃん、私仕事はじめようと思うの」
「え? もう就職?」
「就職ってそんな大それた感じじゃないよ。身体のこともあるし。
だからほら、よくある登録制で仕事受けるようなサイトに、アカウント作ろうと思うんだ。コピーライティングとか他のライティング作業とかで」
「いいね! それなら自宅に居てもできそうだしね」
「うん、プロジェクトで受けちゃうと途中で何かあったら大変だけど、単発で受ければできそうだから」
おそらく、遥がこんなに急いで身の振り方を示したのは、僕のせいだ。僕が順子さんに入院費について口を挟んから、遥は自分自身で立てるのだということを、僕に伝えたかったのかもしれない。
その後も遥と今後の展望について話していると、順子さんがテーブルに昼食を運んで来てくれた。野菜たっぷりの冷やし中華だった。
運びながら順子さんが言う。
「二人とも本当に簡単なものでゴメンね」
「いえ、簡単だなんて。すごいです!」
僕は答える。
それから三人で手を合わせ、さっそく食べ始める。
冷やし中華といえど冷たくは無く、常温に仕上げてあった。
食べ始めてすぐに順子さんの遥に対する気遣いが感じられた。
あまり体を冷やし過ぎないように、でもキュウリやトマトや焼き色をつけたナスのスライスは、少しでも自然に涼が取れるような、順子さんなりの工夫だった。
僕も遥も夢中で食べていた。
何か言葉にしようとすると、感情が溢れ出して来てしまいそうだった。
横目で遥かを伺うと、少しばかり涙ぐんでいた。
順子さんの愛情が痛いほどよくわかるのだ。
順子さんも順子さんで、目の前で食べている娘の姿に目を細めていた。
その日は結局、夕食までお呼ばれしてしまったのたった。
久しぶりのスナックタイムのスナックは、夕方スーパーまで僕が走ったものだった。
順子さんがお茶を入れ、久しぶりにたくさん話して、たくさん笑った。
話題はもっぱら奇跡の回復を見せた遥の身体と、今後の仕事についてだった。
遥はコピーライティングの仕事に希望を見出していた。どれほどの稼ぎになるかは分からないけど、一応テンダーラッシュの実績もあるから、期待はしているのだという。
テンダーラッシュの販売開始は年明けなので、本格的に仕事が入るとすればそれ以降になるだろう。
でもそのタイムラグも、遥にはちょうど良い。
しっかり体調を整えて臨むことだ出来るからだ。
あまり長居しても遥を疲れさせてしまうので、夜の8時過ぎに、僕は二人に帰ると告げた。とは言ってもお昼からすっかり長居をしていた為、僕の申し出は二人に笑われてしまった。
「しっかり長居してるじゃない」
遥が言った。
「二食プラス、スナックも食べるほどね」
順子さんが付け加えた。
遥が駅まで送ると言ったが、入院明けだから、ひとまず今日は大丈夫だと僕は断った。
玄関先で見送る遥に、僕は何度も振り返った。
姿が見えなくなるまで、遥は手を振ってくれていた。
電車に乗り、そして電車を降りる。
駅から遠ざかるほどに、星がキラキラと輝いてるのが分かった。
ゆっくりと、本来あるべき日常が動き出しているような気がした。
星々の煌めきが僕たちを静かに見守っていた。
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