第29話 順調と不安
次の二週間も、遥の容態は安定していた。
遥は時々外出もしていたようで、近所の公園の植物の様子や、スーパーの特売情報なども、自慢気に僕に語ってくれた。
僕は以前同様、週に二回は会社帰りに遥の実家に立ち寄り、日曜の午後も、遥の実家で過ごした。
遥がくどいくらいに僕に示すように、本当に遥の身体は順調に回復に向かっているようだった。
日曜日の夜、駅まで見送ると言って聞かなかった遥は、何度もはしゃぎながら走る姿を僕に見せた。
「ねえ、丞ちゃん。ほらこんなに走ったりも出来るんだよ」
「でもまだ無理はしない方が良いと思うんだけど」
「全然無理じゃないよ。だってこんなに走っても、どこも痛くない」
「分かったから。遥が元気なのはよく分かったから」
遥は納得したように僕と歩調を合わせ、呼吸を整える。少し無理をし過ぎではないのかと、僕は心配になる。
遥は胸に手を置いたまま、僕に言う。
「久しぶりだね。この道を二人で歩くの」
「そうだね。つい最近まで当たり前に二人で歩いてた道だけど、ほんの少しのあいだ歩けなくなっただけで寂しかった」
「当たり前に歩いてた?」
遥は少し眉根を歪めて僕の顔を覗き込む。
「私はずっと必死だったんだよ。だって丞ちゃん歩くの早いから、ついて行くのにいつも必死」
「あっ、ごめん! ついつい自分のペースで」
僕は歩調を緩め、遥の顔を窺う。
遥が可笑しそうに笑う。
「おかげさまで歩くの早くなったから、大丈夫」
「足の短い遥さんに無理させました」
「こら!」
遥が笑って僕の背中を叩く。
コロコロと笑う遥を見ていると、本当に病気なんて吹き飛んでしまったんじゃないかと思うくらいだった。
夜風が心地良く、秋の気配が漂っていた。
遥が少しだけ歩調を早め、僕に言う。
「来週また検査があるんだけど、その結果が良かったらデートしない?」
僕は少し考えて答える。
「少しくらい調子が良いからって、大丈夫かなぁ」
「大丈夫だよ。ちゃんとお医者さんにも確認するし」
「医者が良いって言うならいいけど…」
「ねえ、丞ちゃん!」
遥がもどかしそうに僕を睨む。
「久しぶりのデートの提案なんだから少しは喜んだら?」
僕は諦めてワザとらしく喜んでみせる。
「わーい! デートだー! 楽しみー!」
「丞ちゃんのそういうところ、本当にキライ! ノリが悪いって言うか、かたぶつって言うか」
遥はすたすたと僕を置いて早歩きに進む。
僕だって本当は喜んでいるのだ。
でも遥のことが心配で仕方が無かった。
もしも神さまが存在するなら、僕のこの身と引き換えに、遥の病を治してほしい。ただただ、そう心から願って止まなかった。
神さま…。心の中で繰り返した。
翌日の月曜日は朝一でミーティングがあった。
少し大きめの新築住宅の物件で、各部門の意見交換が主な目的だった。
ミーティングが開けて僕が自分のフロアに戻ろうとすると、購買部の中川課長に呼び止められた。
「宮内、最近購買に顔出さないじゃないか」
「あれ、そうでしたっけ? また近いうちに無理なお願いに伺うかもです」
「サウナの物件、その後はどうだ?」
「順調にいけば来月着工です。あの案件は僕としても楽しみなんです。もちろん中川さんのご尽力、感謝してます」
「いやいや、良いんだそれは」
中川課長は鼻高に頷く。
中川課長とそんなやり取りをしていると、木村さんが突然現れて、あいだを割る。
「中川課長、お疲れ様です!」
「おお木村、今日は購買部に来ないかと思ったらこっちか?」
「違いますよ、課長。今から購買部っす!」
中川課長が僕に耳打ちする。
「本当、ここんところ木村に憑りつかれちゃってるんだよ、購買部は」
僕は中川課長に小声で返す。
「木村さんが憑りついてるのは購買部じゃなくて佐々木さんですよ」
中川課長が分かってるじゃないかと嬉しそうに頷く。
「おい、宮内何か言ったか?」
木村さんが僕に肩をぶつける。
今度は僕が木村さんにやり返すと、呆れた課長が止めに入る。
「小学生か、お前たち。さあ、持ち場に戻れ」
中川課長がハエの子を散らすように両手で我々を払う。
木村さんが中川課長の両肩をもって押し出す。
「俺はこれから購買部っス! じゃあな、宮内」
嵐のような人だ。中川課長の肩を押しながら歩く木村さんの後ろ姿を眺めた。
仕事の方は日々問題無く進んでいた。
社内で創設されたいくつかの賞を受賞したり、夏前に受験していた資格にも合格していた。
遥のことと云い、仕事のことと云い、すべてが順調に動き出していた。
自分のデスクに戻ってすぐに、木村さんからメッセージが届いた。
「宮内今晩どうだ?」
「もちろんです、どこまでも!」
「19時に金時な」
スマホをポケットに仕舞い、足取りも軽く、現場に向かうのだった。
金時は相変わらずの盛況ぶりだった。
今回は僕の方が早く到着したので、先に生ビールを注文して、木村さんを待つことにした。
カウンターで大将といくつか会話を交わし、ジョッキを半分ほど飲み干したところで、木村さんが到着した。
木村さんはカウンターに座るなり、僕に言う。
「宮内やるじゃねーか! 俺より先に飲み始めるなんて」
「あ、すみません! ついつい雰囲気的に先にやっちゃいました」
「バカヤロー! いいよそれで。俺ん時はな」
大将が木村さんに言う。
「木村、こいつは見どころあるよな!」
「大将、何でもいいよ。生ビール!」
それから僕と木村さんは、ジョッキを合わせ乾杯をする。
木村さんがジョッキを旨そうに傾け、二三度喉を鳴らすと、すぐにビールは僕と同じくらいの量に追いついてしまった。
木村さんは満足げに息を吐き、いくつかの料理を注文し、お決まりの大将特製の唐揚げを付け加える。
僕はつい先日、相談に乗ってもらった所でもあるので、遥とのその後のいきさつも木村さんに報告する。
「そうか。まあ、良い感じじゃねーか?」
木村さんは言った。
「あとは今度の検査結果が良好なら、僕としても手放しで喜べるところです」
「宮内は慎重だね。それにその娘も早速仕事探しってのも真面目だよ。宮内が金の心配してるのもちゃんと解ってんだな」
「そうみたいです…」
僕は答えた後、ジョッキを飲み干した。
すぐに木下さんがそれに追いついて、二杯目を注文する。
ジョッキが届くと、すぐに我々は半分ほど同時に飲み干す。
呆れた顔で、大将が割って入る。
「落ち着けよ、ご両人。ビールといえども雑に飲むんじゃねーよ」
僕も木村さんもジョッキから手を放さずに笑う。
それからしばらくの間、大将の「酒って物は」的な講釈を延々と聞かされ、僕も木村さんもジョッキを重ねた。
いつの間にか、時計は22時を回っていた。
会計を済ませ、金時を出て駅に向かう。途中、木村さんがふと口にする。
「宮内、うまく行くことを怖がるなよ。良いじゃねーか。少なくともお前の彼女は、うまく行ってることを必死にお前に伝えてるぞ。
その流れに乗ってやるのも優しさだ。
お前がこの現状を必死に掻き回してみたって、じゃあその先の現実ってなんなんだよ。
焦るな。疑うな。
でっかく構えて乗ってやりな」
「はい」
僕は同意した。そうだ、焦るな。疑うな。自分の不安を軸に現状を掻き回したって仕方がないじゃないか。僕には誠実に遥と向き合うしかない。遥と正面に向き合う現実の他に、何を望むというのか。
秋を含んだ夜風が心地よかった。
何があるにせよ、収まる場所で最善を尽くす。それしか無いじゃないか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます