第7話 流れゆくこと

 週明けの出社早々、先月現場を担当した施主さんからの電話で引き渡し物件に呼び出された。

 4階建てのペンシルビルで、1階入口の電動シャッターの開閉が上手くいかなくなったとのことだった。

 そのビルは僕にしては大きな案件だったため、上司の天野さんが同じく担当していたのだけど、その日天野さんは休暇をとっていて電話が繋がらなかった。

 ビルに到着後、僕は施主さんにとにかく謝罪し、ダメもとで木村さんに連絡を取ってみた。木村さんは各現場に飛び回っているため、当日の呼び出しは難しい。それでも社内人脈に乏しい僕には、こんな時に頼れるのは木村さんしかいなかったのだ。

 そして運の良い事に、その時木村さんはまだ会社に残っていて、すぐに駆け付けて来てくれたのだった。

 僕が施主さんの怒りを一身に受けている横で、木村さんは電気の制御盤を確認し、僕に向かって笑いかけた。それから僕の肩をポンポンと二回叩くと、脚立を使って点検口から天井裏に上半身だけ潜り込ませ、少しもがく様な仕草をした後、顔を出して僕に指示を出す。


「宮内、電源入れてみてくれないか」


 僕は制御盤の電源を入れる。カチッと短く歯車が噛み合う音がした。

 木村さんは点検口に蓋をして脚立を降りる。そして今度は施主さんに向かって笑顔で語りかける。


「申し訳ございません。リモコンでシャッター動かしてみてもらえませんか?」


 施主さんがいぶかしげに木村さんに頷いた後、リモコンのボタンを押すと、シャッターは軽快な音を立て、問題なく動いた。

 木村さんが施主さんに頭を下げる。


「大変申し訳ありませんでした。天井裏に当社の備品が残されていて、何かの拍子にシャッターに食い込んでしまっていました。今後はこのようなことが無いように社内で共有し、対策を徹底してまいります。また何か不備等ございましたら何なりとお気軽にお申し付けください」


 僕も木村さんに合わせて頭を下げる。

 木村さんは施主さんに言う。


「この土地、すごく良い場所にありますね。中心地にありながら、街道に出るのも、あそこの道に出ればすぐです。駅からも近いし、何よりこの辺りが昔の本当の中心地ですよね」


 施主さんは嬉しそうに木村さんに答える。


「そうなんです。角地で小さくありますけどね」


 それから施主さんは先祖代々の土地だということや、自分の先祖の話を嬉しそうに木村さんに語って聞かせた。木村さんが感心しながら相槌すると、施主さんは増々嬉しそうになっていった。

 しっかりと話に花を咲かせた木村さんは最後に丁寧に施主さんに頭を下げると、僕を引き連れて現場を後にした。



 木村さんはすぐ近くの駐車場に車を停めていた。

 別れ際、僕は木村さんに頭を下げる。


「本当に急ですみませんでした。助かりました」


 木村さんは懐から丸まった絶縁手袋を出した。


「これがモータに噛んじまってたんだよ。こんな忘れ物なんて、お前がちゃんと最後に点検しとけって話だ。大した案件じゃなくて良かった」


「この埋め合わせは必ず」


「できっこないこと言うんじゃねーよ。そんな事より、また困ったらいつでも呼んでくれ。それがお前の仕事でもあるんだよ」


 それが僕の仕事?

 忙しそうな木村さんを引き止め続けるのも悪い気がして、僕は頷く。木村さんは車に乗り込んで楽しそうに言う。


「さぁ早く社に戻れ。それと宮内、今日仕事がはけてから一杯どうだ?」


「大丈夫です! ぜひ」


「じゃあ、18時にこないだの居酒屋な」


 木村さんを見送り、ため息をつく。正直かなり落ち込んでいた。恐ろしく初歩的なミスだ。それに木村さんが来るまでろくな対応もできてはいなかった。もしも木村さんの到着が遅かったりしたら、施主さんを相当怒らせてしまっていただろう。

 次の現場に向かう道すがら、何度もため息が漏れた。






 『金時きんとき』と看板には書かれていた。

 前回は木村さんの後をついて入店したので、居酒屋の店名までは記憶してはいなかったのだ。

 待ち合わせの時間にはまだ少し早いとは思いながらも、僕は暖簾をくぐる。

 店内に入るとすぐに大将の威勢のいい声で迎えられる。

 カウンターでは木村さんがすでに席に着いていて、慌ただしく動き回る大将が木村さんの横を手で示した。

 僕は木村さんの横に座り、おしぼりを受け取る。


「遅くなりました」


 僕が謝ると木村さんが笑う。


「全然遅くねーよ、まだ6時前じゃん。宮内そこんところだな。そんなに気を遣ってばかりじゃ疲れるぞ」


 木村さんはそう言うと先に飲んでいたビールジョッキを飲み干して、お替りを頼む。

 木村さんが僕に訊ねる前に、僕はカウンターの中の大将に注文する。


「僕も同じものを」


 木村さんが嬉しそうに高らかと笑う。

 僕は木村さんに言う。


「お店の名前、金時っていうんですね」


「きんとき、じゃねーよ! かねとき、な!」


 ちょうどビールジョッキを持ってきた大将がそこに加わる。


「俺の名前なんだよ。かねとき。親父がつけたんだよ、タイムイズマネーだってよ。だけどよ、この年になってくると解るんだよな。確かに時は金なんだけど、でも金で時は買えねーじゃねえか、って。時間よ戻れー!」


 大将が語ってる間に、木村さんと僕とはジョッキを合わせて乾杯する。

 木村さんは一口飲むと爆笑する。


「だけど大将さ、時買うだけの金がねーじゃん!」


「バカヤロウ、木村。その通りだ!」


 木村さんが楽しげに笑い、またせわしなく動き始める大将に向かって前回と同じ特製の唐揚げをリクエストする。


「宮内、大将の言う通りだな。時は買えねーよな」


 木村さんがジョッキを眺めながらしみじみ言う。木村さんには6歳の息子さんがいると聞いたことがある。奥さんとは離婚をしていて、こうして飲みに出るときは木村さんのお母さんが息子さんを見てくれているのだという。


「俺な、嫁さん出てったじゃん。後悔するときあんだよ」


「木村さんでも?」


「バカヤロー、真面目な話だ。

 後悔するのはさ、息子観てるときな。俺んとこの息子はさ、お母さんに会いたいって言わねーんだよ。んなわけねーのに。だからそんな息子見てると、俺ってバカだなぁ、っていつも思うの。合わせてやりてーけど、どこにいるのやら。もし時間が買えたとしたらさ、もう少し嫁さんにも優しい言葉かけてさ、なんてよ。がらにもねーけど」


「奥さんに何したんですか?」


「何にもしてねーよ。何にもしてねーから、居なくなった」


「息子さんを残して?」


「たぶん俺が帰ってくる時間を見計らってたんだろうな。ついさっきまで居ましたって感じで、息子を残して消えちまった。その辺にでもいるのかと思ってたらいつまでたっても帰ってこない。そして今に至るよ」


 僕は何と答えてよいのか解らなかった。

 木村さんはジョッキを口に運び、続ける。


「育児も結構手伝ったりしてたんだけどな。でも今にして思えば、嫁さんにも言い分があったんだと思うよ。それを聞いてやれなかった。俺は何もしてなかったんだ。家事や育児ってのも本当は手伝うとかじゃねーんだな。つまり他人事じゃねーの。今だから分かるんだけどな、子供の事ってのは全部自分事なの。俺こんなだからさ、きっとあいつ自分が空っぽになっちまってパッて消えたくなったんじゃないかなってよ」


「木村さん、何かわかるような気がします。僕ももしかしたら似たようなところがあるかもしれません」


「そういえば宮内にも彼女いたんだったな」


「本当に昨日の話なんですけど、上から目線だって怒られました。同じ時間を過ごしてるのにしてやってるって、上からだって。他人事になってたなぁ、って今木村さんの話聞いてて思いました」


「何だろなぁ、宮内。男ってどうしてこうなのかねぇ」


 大将が特製の唐揚げを木村さんと僕の前に差し出しながら笑う。


「モテねー男が雁首揃がんくびそろえて湿気たツラしてんじゃねーの」


 木村さんが調子を取り戻す。


「じゃあ、大将はモテんのかよ!」



 時間を買いたい。

 もしも時を戻せたら優しい言葉をかけたい。

 人は過行く時の中で、何かしらの忘れ物をしているのかもしれない。

 それはもちろん僕も同じで、今後人それを強く思い知らされることになる。

 木村さんは奥さんが居なくなった後、今の会社に転職をした。息子さんの面倒をしっかり見られる環境が作れるようにと、当時の親方と今の会社の部長が話し合ってくれたのだと木村さんは言っていた。そのおかげで、朝と夕方は息子さんの食事を作ってあげられるのだと。木村さんは子供のことは全部自分事だとも言った。そうだ、もしも僕が遥の事を自分事にできていたらどうだったのだろう。

 でもその答えは見つからなかった。

 そして結局僕は過ぎゆく時の中の忘れ物を、そっと心の奥に仕舞い込む。



「宮内、唐揚げ冷めちまうぞ」


 木村さんは熱さに悶えながら僕に唐揚げを勧める。

 僕も一口かじりして悶絶する。

 木村さんが嬉しそうに僕を見る。


「旨いな」


「はい」


 僕は答えて、木村さんに礼を言う。


「木村さん、今朝は本当に助かりました。ありがとうございます」


「今朝はじゃねーよ。今朝も、だろが。あれも俺の仕事だ、気にするな」


「お施主さん、木村さんと話してるとき本当に嬉しそうにしてました」


「やっぱりな、土地って褒められると嬉しいんだよ。そこに自分たちの大本おおもとがあるって感じで。そういう意味ではさっきの話と根っこは同じでさ、その土地には経過した時間なりの価値みたいなものがあるんだよ。だからそれを褒められると嬉しんだな。それも含めて大切なものの上に俺たちがビルや家を建てさせて貰うの。お前には一時いっときの現場に見えるかもしれないけど、お施主さんにしてみたらご先祖様からずっと繋がってることなんだよ」


「木村さん、何か凄いですね」


「バカヤロー、今更か? 仕事ってさ、自分も自分の周りも喜んでる姿が一番じゃねーか? 俺は親方にも、部長にも、息子にも母親にも、ついでに逃げた嫁さんにもそう教えてもらったのよ」


 木村さんは生きていることが全部自分事なんだな、僕はそう感じた。それに木村さんは、時間が戻らないことも知っている。だから精一杯周りに喜んでもらうことを願っている。そう、時間は流れている。流れているのだから時間は決して元には戻らない。そんな当たり前のことにどうして抗ってしまうのか。時間は流れている。僕はもう一度、そう心に刻んだ。

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