第6話 時計の針

 休日の天気予報は雨マークだったにもかかわらず、その日は晴天に恵まれていた。

 僕と遥とは、昨日までの雨露あまつゆが残る公園を手を繋いで歩いた。



 昨夜は寝る前の遥からの電話で、朝の8時に待ち合わせだと伝えられた。出かけるにしても少し早過ぎるのではないかと僕は抗議したが、嬉しそうな遥かに結局押し切られた。早く待ち合わせて、お散歩でもすれば良いのだと。そしてこうも続ける。早く逢いたいの! この言葉には弱い。というより、嬉しい。僕もだ。



 超ゴキゲンな遥が空を見上げて嬉しそうに言う。


「天気予報外れちゃったね」


「あくまで予報は予報だからね」


 僕は笑って答える。


「こういう時、天気予報士さんはどんな気持ちなんだろ? くそぉ、外れたか!!」


「それじゃまるでギャンブルみたいだし、天気になっちゃうよ」


 休日朝の公園は人もまばらで、すごく気持ちが良かった。

 つい半月ほど前までは花見客でにぎわっていた公園も少し落ち着きを取り戻し、植物たちは夏に向けての生命力を新緑の葉に誇示していた。

 散歩をしていても少し汗ばんでくる季節。風が心地良かった。しばらくすると自動販売機と東屋あずまやを見つけ、少し休むことにした。



 ペットボトルのお茶を買い、一本を二人で分ける。


「朝から散歩も良いね」


 東屋の柱を背にもたれ、僕は言った。


「本当、気持ちいい」


 右膝のあたりを何度もさすりながら遥が答えた。


「膝どうかした?」


「うん、なんだかちょっとね」


「痛いの?」


「うん、痛いのとはちょっと違うんだけど、変な違和感かな。でもたぶん大丈夫。歩き方が変だったのかも」


「それならいいんだけど。まあ時間はまだたっぷりあるし、もう少しここで休んでいこうか」


 僕たちはペットボトルのお茶を交互に分け合いながらしばらく大学時代の話をした。

 でもなぜか僕には遥のさする膝の事が気になって仕方がなかった。なぜだろう? だからこんな些細なやり取りを強く記憶に留めていたのだ。

 本当に後になってから解かったのは、遥の身体の異変は、すでにこの時には始まっていたということだった。もしもタイムマシンがあって、この日に戻ることができたなら。そんなことを僕は考えたことがる。でもタイムマシンがあったところで、この日では遅い。それならいったいどこまで時計の針を戻せば良いのか。二人が出会った頃? それでも遅い。それなら生まれる前? 答えなんてなかった。

 どんなに考えたところで、僕と遥に必要なのはタイムマシンなどでは無いという冷たく固い現実だけだった。





 東屋で結局一時間くらい休んだ後、遥の希望で書店巡りをし、ランチの後は映画。映画の後はショッピングと、本当に目の回るような一日だった。


「ちょっと詰め込みすぎだよ」


 僕は遥に言った。


「だって最近こんな風に出かけることなかったじゃない?」


 確かにここの所まとまった時間を作って出かけるというのは少なかったかもしれない。資格の勉強に追われていたり、現場の仕事が休日にずれ込むこともよくあった。

 僕は時間を確認し、遥かを呼び止める。


「ちょっと待った、もうすぐ18時だよ。今日は朝の8時からんだよ!」


 疲れからか、少し苛立ちが言葉尻に出てしまっていた。遥にしてみても、明らかに面倒について歩く僕に、ずっと苛立っていたのかもしれない。


「つきあってる? 今日のお出かけは私がお願いしたんだっけ?」


「いや、そうじゃないけど」


「ちょっと待ってよ、自分はつきあってやってるって上から言うの、それっておかしくない?」


「そこは謝るよ」


「丞ちゃんのそういうトコロ嫌い。いつも自分がほどこしてあげてるみたいなトコロ」


「だから謝るよ」


「ねえ、謝るよって何? また上からだよね? 全然謝ってないじゃん」


「突っかかってくるなよ! いい加減にしろ!」


 語尾がかなり強くなってしまった。

 遥の目から涙がこぼれる。

 通り行く人たちの視線が痛い。

 遥は涙がこぼれるままに僕に怒るような、あわれむような眼でにらみつけ、嗚咽を必死にこらえながら訴える。


「丞ちゃん、いつもそうだよ。自分は上からで、してやってるみたいな態度」


「分かったから、みんな見てるから」


「丞ちゃん、いつもそうだよ。私の面倒を見てやってるみたいな態度する」


「分かったから、もう言わなくても」


「丞ちゃん、いつもそうだよ…」


「遥、いい加減にしてくれ! こんなところで!」


 遥の眼が大きく見開き、大粒の涙かこぼれる。


「はい、分かりました! こんなところからはいなくなります!」


 こらえ切れず、小さな嗚咽を漏らすと、僕に背を向けて遥は歩き始めた。

 いつものことだ。街中まちなかで喧嘩になってしまうと遥はさよならとばかりに僕から離れて行く。そしていつも僕に背を向けて、でもゆっくりと歩き出す。止めるなら今よ、とばかりにゆっくりゆっくり歩くのだ。

 少し疲れているせいで僕はその背中を引き止めない。というか、すぐに戻って来ることも知っている。いつもの事。遥かは必ず戻ってくる。

 もう見えなくなるくらいまで遠くに離れた遥の背中は、そこでくるりときびすを返し、さっきとは違い、倍の速度で僕の所まで肩をいからせながら戻って来る。


「どうして丞ちゃんは行かないでって言えないの? そういうトコロが嫌い!」


「遥、ごめんね」


 僕は素直に謝る。

 僕は遥のが好きだった。愛しくてしかたがなかった。どんなに怒り狂ってしまっても、気が済んだらちゃんと戻って来る。どんなに悲しくても、背を向けたって、必ず踵を返して戻って来る。そう、戻って来る。

 その時の僕は、遥は何があっても必ず自分の元に戻って来るのだと信じて疑わなかった。

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