第12話 それぞれの時計の針
水曜日の一件以来、僕は遥の身体が
土曜日は午後から2件ほど現場を回り、日曜日は資格の勉強に明け暮れた。
夕食は近所の牛丼チェーン店で簡単に済ませ、その後遥に電話をする。
休日はキャッチコピー案に専念したいと意気込んでいたわりには、僕からのコールには、まるで飛びついたんじゃないかというくらい早く出た。
「身体の調子はどう?」
僕はまず遥に訊ねる。
この問いかけには、幾分つまらなそうな返答をする遥だった。
「何度も言いますけど、私は元気ですから」
「でも水曜日の夜は本当に苦しそうだったし」
「そういう時は丞ちゃんにだってあるでしょ?」
「あるにはあるけど…」
「だから心配しなくても大丈夫!」
「病院には行くべきだよ。今度は内科」
あれ以来こんな話ばかり繰り返していて、遥がうんざりしているのが声音で解る。それでも本当に心配なのだと僕はさらに繰り返す。
「本当にもうピンピンしてるから」
「それが本当なら心配ないんだけど」
実際に遥の声は、電話の向こうで跳びはねてるんじゃないかってくらいに元気だ。
「声だってしっかりしてるでしょ?」
「確かにそうなんだけど…」
電話を終えてからも、僕の中の妙な引っ掛かりが無くなることはなかった。確かに声はいつもの通りだし、受け答えもいつもと全く変わりがなかった。でもこの胸騒ぎは何なのだろう。水曜日の夕方の苦しそうな顔や、歩調や、荒くなった息遣い。ベッドに倒れこんだ後の急転直下の深い眠り。そしてやけに安らかな遥の寝顔。並べてみたって全部おかしいじゃないか。違和感しかないのではないか。それなのに次の瞬間何もなかったように遥はケロリとしているのだ。
そんな僕の胸騒ぎは、的を外れてはいなかった。
週が明けた火曜日、遥は倒れて救急車で運ばれたのだった。
火曜日の朝は現場に直行だった。
現場で職人さんたちと朝礼を行い、その後施主との進捗確認をする。
その後次の現場に行こうかという時に、順子さんからの着信があった。こんな時間に順子さんから? 僕は慌ててスマホをタップし、耳に当てる。やはり良いニュースではなかった。
順子さんは仕事中の電話を詫びると、簡潔に今起こったことを僕に伝える。
出勤途中、会社近くで遥が気を失って倒れたのだと順子さんは言った。
遥はその後救急車で総合病院に搬送され、今は救急外来のベッドで眠っているとのことだった。体温も心拍も正常で、目が覚めてから検査をする予定なのだと矢継ぎ早に順子さんは言った。
順子さんも先ほど病院に到着したらしく、たった今遥の会社にも連絡を入れたのだと話してくれた。冷静ではあるようだが、順子さんのこんな静かな声色も今まで聞いたことがなかった。
僕はすぐにそちらに向かいとの旨を順子さんに伝え、電話を切った。
急いで今日この後を休み扱いにする段取りを済ませ、順子さんから教えてもらった総合病院に向かった。
駅からタクシーに乗り、病院の玄関に乗りつけ、救急外来の廊下から中を窺う。
ちょうど出てきた看護師の女性に事情を話すと、廊下のソファーに座って待っているようにと指示された。
何となく座っているわけにもいかず、立ったままで待ち続けた。
時々外来の中をのぞき込んだり、廊下の壁に凭れたりを繰り返す。
一時間くらいそんな風に待ち続けていると、遥と順子さんが連れ立って外来から出てきた。
僕はすぐに二人に駆け寄る。
「遥、もう大丈夫なの?」
遥の代わりに順子さんが答える。
「丞君、ありがとう。まだ色々分からなくて…、これからMRIの検査を受けるために2階の検査室に移動するの」
「僕も付き添います。今日のスケジュールは組み直して、この後は休みにしてもらいました」
「丞ちゃん、大丈夫だから」
遥が申し訳なさそうに言う。いつもの様に顔色は悪くなかった。でもこれでも安心していられないことは、これまでの遥を見ていて学んでいる。
結局その日は、遥のすべての検査に付き添った。
僕の横で遥は、救急搬送されたことがまるで嘘みたいに元気だった。
MRIの検査の為、検査室に遥を見送った後、順子さんと廊下のソファーで並んで座る。
遥を見送るところまでは笑顔だった順子さんが、疲れを見せた顔でため息をついた。何と声を掛けたものかと悩んでいると、順子さんが苦しそうに笑顔を作る。
「丞君、駆け付けてくれてありがとう。遥も嬉しかったと思う」
「いえ…、何か出来るわけじゃないですけど…」
「丞君がいるだけで、それだけで何だかね…心強く思う。ほら、うちは男手ないから。まだまだ細い柱だけど、私も寄り掛かっちゃってるのかも…」
「細い柱ですか…」
「ごめんね…」
順子さんは視線を向かいのソファーに定めたまま、静かな細い声で謝った。その謝罪が今の会話を指しているのか、この状況を指しているのか僕には分らなかった。
病院特有の重たい空気が漂っていた。しばらくの沈黙の後、順子さんが言う。終わったと思っていた、先ほどの会話の続きなのかもしれない。
「こんな風にしてると、昔を思い出しちゃうの…。遥のお父さんが病院に運ばれた時のこと…。うん、私の旦那さん…。彼の時もこんな風に向かいのソファーを見つめながら検査が終わるのを待ち続けてたっけ。遥は本当に静かな子でね、病院でも私の横で静かに座っていてくれた。子供ながらに我慢もしてたと思うの。私なんて彼が心配で途方に暮れてるのに、その横で遥も私に付き合って、静かに一緒に座って待っててくれた…」
僕は何と言えば良いのか解らなかった。旦那さんを病で亡くし、娘の原因不明の病状を見つめる人に対し、何か言葉がかけられるほどの経験値は僕には無かった。
遥は今どんな気持ちなんだろう。ふと僕はそんなことも思った。父親を病で亡くした遥は、今の原因不明の病状をどんな気持ちで見つめているのだろう。父の当時の病状を、母の見つめる先を、その時隣で見つめていた遥は今何を思うのだろう。今僕にできることは何か。かつての遥ほど幼くはなく、そしてその当時の順子さんと、今僕は同じ年代な筈なのだ。
「順子さん…」
僕は順子さんに静かに言う。
「もし、僕に何かできることがあるのなら、何でも言って欲しいです。力仕事以外でも僕に何かできることがあれば、どんなことでもしたいです」
我ながら不器用すぎる申し出だった。でも僕は本当に何か力になりたかったのだ。
順子さんはやっと笑顔を取り戻した。順子さんの笑顔はやはり、儚さの中の煌めきなのだと、僕は改めて思った。
「ありがとう。丞君、ずっと遥のそばにいてあげて欲しい。これからもずっと…。それだけが、遥の母としての、私の願い…」
その後も各科で検査は続き、最後に内科の医師からの話があった。
内科の医師からの話を僕は聞くことができなかったが、その間にタクシーを呼び、医師との話しを終えた二人と駅へ向かった。
タクシーを降りてから、皆空腹だったことを思い出し、駅近くのうどん屋に入った。
遥はいつもの様に変わらぬ元気さを、僕に見せつけていた。
あまりに元気にうどんを啜り上げるものだから、僕は遥を
「今朝気を失った人がすごい食べっぷりだね」
「言っときますけど、私は元気ですから」
僕と遥のやり取りをいつも笑って見ているはずの順子さんは、笑ってはいなかった。困ったように僕たちを見つめ、無理やりに口角を上げるのだった。
先ほどは内科の医師と何を話したのだろう。僕はその事を切り出そうか迷っていたが、結局切り出すことができなかった。一種異様な順子さんの、泣きださんばかりの笑顔が、僕をそうさせていたのだ。
その時の僕は思っていた。人生の時計というものがあるのなら、僕たちは今何時を指しているのだろう。今同じ時間を共有していても12分割された文字盤の上で、それぞれの時計の針は、皆違った方向を指しているのだ。
そしてまた僕は思う。なぜ今、こんなことを考えてしまうのだろう。遥につられて笑っている自分が、何だか滑稽にすら感じていた。病院の廊下で順子さんは願っていたのだ。僕にずっと娘のそばにいて欲しいのだと。もちろん僕だってそう願って止まない。僕たちの時計の針は、多少の誤差は認めるものの、ずっとずっと一緒に…。
そう強く願って止まないのだから。
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