第32話 失うこと
書店を出た後、遥はまた僕の手を取って歩き出した。
相変わらず遥は僕の歩調に合わせて真横で歩いてはいたものの、顔色が少しすぐれないようにも、僕は感じていた。
僕は遥には気づかれない程度に、少しずつ歩速を弱める事にした。あまりにも急激に歩速を弱めれば、遥はまた文句を言いかねない。
「次はどこに向かおうか?」
僕は遥に訊ねてみる。
でも遥は少し困った風に顔を歪める。
なぜだかは分からないけれど、繋いだ手の温もりだけが、妙に現実的に僕には思えて仕方がなかった。
遥が突然、歩みを止めた。
僕も慌てて立ち止まる。
速度を落としていたせいで、ほとんど同時に立ち止まることが出来た。
遥の顔を窺うと、表情が笑っている風でも、怒ってもいる風でもなく、ただ前だけに視点を定めていた。
「どうかした?」
僕は訊ねてみた。
遥は前に視点を前に定めたまま、答えた。
「どうしようか?」
まるで迷子にでもなったみたいな、困った言い方だった。
すっかり買い物客で溢れかえる人混みの中で、我々はぽつんと立ち止まってしまっていた。
僕は遥の手を引いて、買い物客の流れから外に抜け出そうとした。
「遥、こっちへ行こう」
でも遥はその場から動こうとはしなかった。
手を引く僕を、無表情のままで見つめる。
それから眉間にわずかな皺を寄せ、
「違うよ、丞ちゃん…」
僕には遥の言っている事の意味が、分からなかった。
もう一度、僕は遥かに言う。
「遥、ここでは邪魔になってしまうから、こっちに行こう」
「違うよ、丞ちゃん…」
遥はまた繰り返した。僕はすっかり困ってしまった。
少し強めに遥の手を引こうとすると、遥はそれを拒絶し、僕たちの手は滑るようにして離れる。
向き合う形になっても、遥は僕を見つめていた。
「丞ちゃん、そっちじゃない。もう終わりだよ…」
僕にはまだ事態が呑み込めず、遥に聞き返す。
「何を? 今日はもう帰るってこと?」
「丞ちゃん、私たちはもうこれでお別れだよ…」
遥は微笑んだ。
先ほどまでとは違い、瞳は正気を帯び、優しく僕に笑いかけたのだ。
「ねえ、遥。何の話? ちょっと言ってる意味が分からないんだけど」
正直言えば、僕にはすでに遥の言わんとする事が解っていた。
あまりに唐突な、元来、人とのやり取りが苦手な遥らしい切り出し方ではあったけれど。
遥のそんな訴えが分かったのは、ここまでの間ずっと遥と共に過ごしてきた、僕だからなのかもしれない。
「丞ちゃん…」
遥が微笑んだまま僕の名前を呼ぶ。その声は、嫌いな人間に向けられたものではない。
優しくて、まるで僕の為だけに耳元にそっと置く様な、静かな響きだった。
この雑踏の中でさえ、しっかりと僕の耳には遥の声を掴み取るとが出来た。
僕は遥に言う。僕も彼女の耳元に届けるみたいに。
「遥…、まだ終わりじゃないよ」
僕たちは今やっと元の場所に戻る事が出来たんじゃなかったか。病を克服し、二人で新たにスタートするためのデートに来たんじゃなかったか。今日一日にしろ、何事もなく、ただ幸せに時を分かち合ったはずじゃないか。
遥は微笑みを絶やさず、でも少しだけ困った顔を見せる。
僕は言葉を繋げる。落ち着いていたはずの心の底の
「遥、僕たちは病も乗り越えて、今ここにいるんじゃないか。これからじゃないか。
もしかしたらまだ少しは大変なのかもしれないけど、僕たちならこれからだって上手くやっていけるじゃないか」
「丞ちゃん、それは違うよ。違うんだよ」
困った顔の、微笑んだ顔の、遥の瞳の奥が静かに揺れる。
でも遥は泣いてはいなかった。
いつだってすぐ涙を見せるはずの遥の瞳は、わずかに揺れ動くだけで、涙を見せてはいなかった。
「丞ちゃん私ね、神様にお願いしたんだよ。私の大切なものと引き換えに、この病気を治してください、って」
「遥、何言ってるんだよ?」
「そうしたらね、ちゃんと神様は治してくれた。もう一度こんな風にデートができるくらい元気にしてくれたんだよ」
「遥、いい加減にしてくれよ。何が神様だよ」
「私の大切なものって丞ちゃんのことだよ…」
「遥、気は確かか? 自分が何言ってるか分かってるのか?」
「私は病気を治したいがために、丞ちゃんと引き換えにっ、てお願いしたんだよ…。自分の病気を治したいがために、神様に丞ちゃんをあげちゃった…」
遥が目に涙をためて、今にも泣き出しそうな顔で僕を見つめていた。
僕は遥に食い下がる。
「そんな話し誰が信じるかよ。おかしいよ、そんなの。馬鹿げてる」
「丞ちゃん、私は神さまに丞ちゃんを売ったんだよ…」
「いい加減にしろよ!」
「丞ちゃん…、丞ちゃん…」
遥が縋りつくように繰り返した。
僕は、もう何と言えば良いのか分からなくなっていた。こんなの馬鹿げた作り話だ。
でも遥の目は真剣そのものだった。
「丞ちゃん、今までありがとう。本当だよ…」
眉間いっぱいに皺を寄せ、今にも泣き出しそうに遥の顔が崩れる。まるでそれを隠すみたいに遥は振り返り、僕に背を向ける。
いつも喧嘩をした時のように、そのまま僕から遠ざかるように歩き出す。
これまでならプイっと振り返り、どんどん去り行くはずの遥の背中は、重たそうに踏みしめ、名残りを惜しむように、ゆっくりと歩みを進めている。
なすすべもなく、黙ったままの僕は、遥の背中を見つめる。
先ほどの遥の真剣な眼差しは、今まで見たこともないほどの気迫さえ感じたからだった。
でも、と僕は思った。
きっと遥はまた戻って来てくれるはずだ。
遥は見えなくなるかならないかの辺りで、きっと
遥は必ず戻って来るに決まっている。
僕は少しずつ遠ざかる遥の背中に、待ってくれ! っとつい叫びそうになる。
それでもその言葉はすぐに吞み込み、心の中の叫びに代える。何度も何度も踵を返す遥を夢想し、待ち、そして、さあ戻って来るんだよと心の中で繰り返す。
それでも結局、遥の背中は人混みの中に音もなく消えて行ってしまった。
遥は一度も振り向かなかった。
僕はただその場に立ち尽くしていただけだった。
いったい僕は、どうしてこの場所にいるのだろう。
今までのことや、今日一日さえも、まるで夢だったんじゃないかと思えるほど、記憶は現実味を失ってしまっていた。遥は戻ってこなかったのだ。
僕の真横にぴたりと貼り付いていた筈の遥は、そこにはもういなかった。
どれだけその場にいたのだろうか。
僕は電車に乗ったのだろうか。
それとも、ずっと歩いたのだろうか。
その後の記憶がまるでなかった。
不思議な思念は唯々遥が振り向かなかったことを、頭の中でずっと繰り返していた。
これまで何度言い争っても、遥は必ず振り向き、僕の元に戻ってきたのだ。
僕の見送った遥の背中は、深く刻まれた記憶のようでいて、まるで夢の一場面に過ぎないように、儚くもあった。
気が付くと真っ暗に明かりを消した部屋の中で、僕はベッドに横たわっていた。
スマホを取り出して遥に連絡を取ろうと試みるも、涙に耐え、僕に別れと感謝を伝える遥の顔が頭を
どうしたらよいのか何も分からなかった。
別れの瞬間を思い返すも、今に絶望するも、出会った頃の僕たちを想うも、いったい僕がどこにいるのかが分からなかった。
そのうち悲しいのか、悲しくないのかさえも分からないくらいになり、間断なく降り注ぐ喪失感に、打ちひしがれていた。
カーテン越しに朝陽が射しこむことで、朝が来たのだと分かるに至った。
結局一睡もせずに、出社の支度をはじめる。
いや、もしかしたら、深い眠りから朝陽とともに目覚めたのかもしれない。
すべてが夢であれば良いと、心から願った。
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