第31話 僕が解っていなかったこと

 次に向かったのは繁華街の商業施設だった。

 学生時代は、よく二人で宛もなく、ただふらついた場所だった。

 ちょうど各店舗が開店時間を迎え、人の流れも増えはじめていた。

 遥は雑貨屋を回ったり、服屋を回ったりしながら楽しそうにしていた。

 実のところ僕としては、先ほどの海の様に屋外はもちろんのこと、屋内の空調についても気になって仕方が無かった。

 完治したとは言っても、あまり無理を重ねると再発するのではないのかと、内心ひやひやしていた。

 遥は気になった秋物の長袖シャツを僕の身体にあてがい、困った顔で言う。


「そうなんだよなぁ。このがら良いよなぁって思っても、丞ちゃんって腕が長いから断念しなくちゃなんだよ」


「あはは。バランスのわるい体形で申し訳ない」


 僕が笑って答えると、遥は増々楽しそうに笑う。


「たとえば無理に着てもらっても、腕だけがチンチクリン」


「チンチクリンなんて、久しぶりに聞いた気がするよ」


 遥が楽しそうに繰り返す。


「チンチクリン。チンチクリン」



 休日のお昼前で、人の流れもどんどん増えてきていたので、少し早いとも思ったけれど、我々はレストラン街のイタリアンに入った。

学生時代はお金が無かったせいで、中々入ることが出来なかったレストランだった。


「丞ちゃん、本当にここで大丈夫?」


 案内されたテーブルに着いた後、心配そうに遥が訊ねる。


「たぶん、大丈夫。そのためにこの一か月は昼飯抜きで頑張ってきたんだ」


「嘘だよ、そんなの!」


 僕たちは笑い合い、メニューを広げてのぞき込む。

 どのメニューも高価なものばかりだった。

 遥が心配するのも無理もない。

 でも久しぶりのデートだし、僕としては精いっぱい奮発するつもりでいた。


 散々迷いはしたが、僕は手長エビのクリームパスタとグラスビールをオーダーした。

 エビもクリームパスタも僕の好物だった。

 遥も何故か僕に習い、同じものを頼む。


「僕に合わせることないのに」


「うん、いいの。今日は手長エビとクリームな気分だから。それにしても丞ちゃん、エビとクリームの組み合わせなんてたまらないでしょ?」


「クリームに食材の色が溶け込んでるのが最高なんだよ。そのうえエビだよ。興奮してきた」


 遥は嬉しそうに微笑み、我々は先に運ばれてきたビールで乾杯する。


「遥、完治おめでとう。でもまだまだ気は抜かないように」


「丞ちゃん、ありがとう。でもこんな時に一言多いのは無粋ってもんですよ」


 僕はグラスビールを一息に半分ほど飲み干し、遥は一口だけで喉を潤す。

 どうせ無粋と言われるだろうから、遥がお酒を飲むことについては黙っていた。

 もし遥が飲み過ぎたら止めようとは思っていたけれど、結局遥は最初の一口しかグラスには口をつけなかった。


 手長エビのクリームパスタは、想像以上に美味しかった。フィットチーネパスタの上に、手長エビが姿のまま鎮座していた。クリームソースはエビの風味が詰まった濃厚な味わいで、僕も遥もはしゃいでそれを食べる。

 遥は、時々僕のナイフ裁きをまねてはふざけて見せた。

 手長エビの身は、剥いて食べた方が良いものなのかも神妙に二人で議論し、結局我々はすべて平らげてしまった。

 最後にスプーンに持ち替えて、クリームソースを味わい尽くし、紙ナプキンで口元を拭う僕の姿を、遥が嬉しそうに見つめる。


「満足でしたか、丞ちゃん」


「それはもう。こんな風にまたデートできたことも満足だよ」


「丞ちゃん。まだデートは終わりではありませんよ」


「もちろん、覚悟は出来ております。前みたいに途中で弱音を吐かない所存で参りましたから」


 我々は手を合わせてごちそうさまと声に出し、僕は会計伝票をもってレジに向かう。

 去り際、テーブルの上に遥の飲み残したグラスビールが目に入る。

 一口飲んだだけのグラスは、もの言いたげに黄色の液体を輝かせていた。

 でもどうして、このとき遥が一口しかビールを飲まなかったのか。その理由が解るのはずっとあと。何年も先になってからのことだ。


 食後は専門店で買ったコーヒーを手に、ベンチで少し休むことにした。

 遥はカップの蓋を外して膝の上に置くと、コーヒーを両手で包み込むように持って、少しずつ啜る。

 僕も遥も、コーヒーのトラベラーリッドが苦手で、いつも外して飲むのが習慣だった。

 遥はまた神妙な表情でコーヒーを一口を啜る。

 僕は遥のそんな仕草を横から眺め、思わず笑いが込み上げる。


「丞ちゃん、何笑ってるの」


「遥ってさ、飲み物に口をつけるときに必ず大袈裟に口をすぼませるよね?」


「えー?! じゃあ皆はどんな風に飲むの? 丞ちゃんやってみてよ」


 僕はカップを口につけ、飲んでみせる。


「ほら! 丞ちゃんだって窄ませてる!」


「いやいや、少しは窄ませるよ。だけど遥はちょっと違うんだよ。まず自分の口角をカップのへりにぴったり着けて、それからぐっと唇を窄ませるんだよ」


「見ててよ」


 遥は自分の動作を確認するように、ゆっくりとカップに口をつける。僕が言うように口角にぴったりとカップをつけ、ぎゅっと窄ませる。

 僕がまた吹き出すと、遥が頬を膨らます。


「そんなにおかしい? なのにどうして今まで黙ってたの?」


 僕は笑いながら謝り、気にしなくても大丈夫だと付け加える。僕は遥のこの特徴的な飲み方が大好きだった。だからこの飲み方を直されるのは困るのだ。

 僕は遥かに言う。


「今までだれかに指摘されたことは無いだろ? だから大丈夫だよ、そのままで」


 僕だけが気が付いている遥の癖。

 思わず指摘してしまった事を少し悔やんだ。

 すぐに話題を変えて立ち上がる。


「さて遥さん、次は何処いずこへ?」


 遥は、少し考えるしぐさをしてから答える。


「やっぱり本屋さんかな」


 我々はコーヒーを飲み干すと、カップを屑かごに捨て、書店のあるフロアを目指す。

 遥はぴったりと僕の横につき、そっと僕の手を握る。

 少し恥ずかしくはあったけれど、僕も握り返す。

 こんな風に手を握って歩くのは、何だか久しぶりな気がした。


 書店では業界誌のコーナーへ向かって行きそうになり、思い直して小説の棚へ向かう。今日くらいは仕事のことは頭から外さなくては。

 遥は自分の好きな作家の棚を見つけて、本の背表紙をじっと眺めている。

 僕も久しぶりに小説をと思い、いくつか手に取ってパラパラとページを捲る。

 いつの間にかその中の一つを真剣に読みふけってしまい、遥が横にぴったりと貼り付いていることに驚く。


「びっくりしたよ! いつから横にいたの?」


「ずっとさっきから。その小説は面白そう?」


「うん、つい引き込まれちゃったよ」


 遥が僕の手に取っている小説の表紙を覗き込んで、タイトルを読む。 


「ロスト・アーモンド…? なにそれ」


「何かタイトルから気になってページを捲ってみたんだけど、SFなんだよ。アーモンドチョコレートから消えたアーモンドを探す物語」


 熱く語る僕とは逆に、そっけなく遥は答える。


「変なの」


「うん、確かに変かもしれない」


 僕がその本を棚に戻すと、遥はまたその本を取り上げる。

 それから僕がしていたようにページを捲り、何故か顎に人差し指と親指を当てる。まるで一昔前の探偵みたいだ。

 僕は遥に訊ねる。


「どうしたの?」


「私、読んでみようかな、この本」


「じゃあ、僕がプレゼントするよ」


 僕はその本を持ってレジまで行き、ラッピングしてもらい、会計する。

 遥は嬉しそうに本を受け取る。


「でも本当はね、丞ちゃんが書いた小説が読みたい。もう書かないの?」


 実のところ学生の頃は文学青年を気どって、いくつか小説を執筆しては、遥に読んでもらったりしていた。

 いつの間にか書かなくなり、就職してからは書いていた自分のことさえ忘れてしまっていた。


「そういえば、昔は遥に読んでもらってたね。もう書いていた事さえ、すっかり忘れてた」


「また書いてよ、丞ちゃん小説」


「そうだなぁ、資格の勉強が一通り済んだら書いてみようかな」


「きっと書いてよね。なにがなんでも必ず読むから」


「なにがなんでも?」


「絶対に、ってことだよ」


 遥は少しだけ慌てて答えた。


 いつになく遥が僕の真横にぴったり貼り付いてくるデートだった。

 そして飲み残したビールグラスや、今までなら絶対に興味を持たない本のタイトルや、なにがなんでもというセリフ。歪なものたちに囲まれながらも、僕は不思議なくらい遥との時間を楽しんでいた。

 この時の歪なアイテムや、ぴったりと真横に張り付く遥が、ずっと僕のしぐさを真似ていたこと。

 この日一日を通して、彼女が僕を見つめ続けていたことや、思い出すように僕の身体の特徴を確かめていたこと。それに自分自身ですら忘れてしまっていた、小説を書いていたことを思い出させてくれたこと。

 すべてがたった一つの答えに帰結していたのだと、今に至れば僕にだって解る。

 でもその時の僕は、この段階に至っても、まだ何一つ解ってはいなかったのだ。

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