第17話 腕の中の未知

 遥が転院して初めての土曜日だった。

 病院の面会時間は午後一時からだったので、その時間から毎日面会時間が終わるまで、ずっと遥のそばいたいと僕は思っていた。

 それでも仕事で、どうしても休日を使って進めておきたい案件があり、午前中から職人さんと現場に入った。

 現場に入れば入ったで、更に手を付けたくなる問題も出てきて、結局お昼を食べるのを忘れて仕事に夢中になってしまう。

 元来僕は仕事が好きなようだ。そんなことさえ、思えるようになっていた。以前のようにこの仕事が向いているのかどうかなんて、もう全く考えることが無くなっていた。


「若いのに珍しいな」


 職人さんは僕に言った。

 職人さんはすでに退職していてもおかしくないような老齢だった。

 僕に言葉を投げかけると、首に巻いた手拭いで顔を拭き、再びコンクリートを練り始めた。

 僕は職人さんの投げかけに答える。


「珍しい…、ですか?」


「ああ、若いのに珍しい。こんな休みの日に平気で現場に付き合う」


「あはは。こんな時じゃないとできないこともありますから。それにキリがついてないと何となく休んでいても落ち着かなくて…」


「ケツのすわりが悪い、ってやつだ?」


 職人さんは嬉しそうに作業を続ける。

 僕と同じ年頃の外孫がいるらしく、自分の所にちっとも会いに来ないと愚痴をこぼす。


「そもそもが、俺が娘の育て方を間違ったってことだ」


 僕としては、こうして歳の離れた職人さんたちの話を聞くのも楽しかった。

 いつもの現場とは違い、休日の現場は何故か職人さんも優しかった。おそらくは休日出勤をするという気概が、職人さんたちの厳しい態度を軟化させているのかもしれない。僕にとっては、これも自分の仕事の流儀なのだと思っていた。


 すっかり仕事に打ち込み過ぎてしまい、気がつけば午後の一時を回ってしまっていた。

 急いで仕事を切り上げてコンビニでパンを買い、部屋に戻ってシャワーを浴びる。パンを齧りながら身支度を整え、病院を目指す。

 平日はいつも面会時間ギリギリになってしまうので、今日はしっかりと遥のそばに張り付くつもりだったのだ。



 病室をノックすると遥の返事がある。

 その声色で遥の気分がおおよそ計れる。

 今日は機嫌が良いようだ。

 でもドアを開けて僕を確認すると、途端に遥はすねた口調になった。


「お休みなのにちょっと遅くない?」


「午前中は現場に行かなくちゃいけなかったんだ。これでも急いだんだけど。順子さんはまだ?」


「朝来て色々してくれた。お昼からパートだって」


「そのスイカは?!」


 僕は驚いて訊ねる。

 小玉とはいえ、病室で丸々一個のスイカを見たのは初めてだった。誰かお見舞いにでも来てくれたのだろうか。それにしても豪快なお見舞いと言わざるを得ない。


「さっき会社の同期の子が来てくれて、お見舞いにって」


 僕は驚きとともに笑いも込み上げる。


「一玉はすごいね」


「今から食べない? でも包丁持ち込めないからどうしようかと思って」


 遥は言い、少し困った顔を見せる。


「任せてよ」


 僕は遥に言い、スイカを受け取って、病室に備え付けられている洗面台の角にスイカの腹を軽く打ち付ける。

 数か所そんな風にコツコツと打ち付け、きっかけを見つけて最後に強めに打ち付けるのだ。スイカはバリっと音をたてて見事に割れた。うろ覚えとはいえ、自分でも驚くほどうまく割れて嬉しかった。

 遥は驚いて駆け寄る。


「すごい!」


「真っ二つって訳にはいかないけどね。初めてやったよ。ずっと前に担当した施主さんがこうやって食べさせてくれたことがあったんだ。スプーンはある?」


 それから僕たちはスイカの汁がこぼれないように、二人で洗面台の前に並んでスイカに貪りついた。

 割って大きい方が僕。小さい方が遥。

 病室でスイカを割って食べるというのは、何とも奇妙な体験だった。少しだけ後ろめたくはあるけれど、遥とスイカを貪り食べるのは美味しくて、それに可笑しかった。


「良かったらアジシオもあるよ」


 遥が突然言う。用意が良いなと感心した。

 でも僕はスイカに塩はかけない。


「僕はスイカは塩派じゃないよ。なんでアジシオ?」


「同期の子は私に塩食べさせておけば良いって思ってるみたい」


「じゃあ遥は会社ではいつも腹たてて塩気を求めて彷徨ってるんだ?」


 遥かは腹を立てると、やたらと塩気を求めるのだ。


「ちょっと、それじゃ私が塩の妖怪みたいじゃない!」


 二人ともほぼ同じようにスイカを食べ終わり、手を洗って洗面台もきれいにする。

 遥はベッドに腰かけ、僕がパイプ椅子に腰掛けた。

 いつもは一脚しか使われてないパイプ椅子が二つ並んでいることに気が付く。お見舞いは二人来たのだろうか。


「二人来たの?」


「うん、聡子って子と、営業の望月さん」


 聡子という子の話は今まで聞いたことがあった。

 遥とは同期で、研修の時から気の合う仲だったという。

 おまけに配属も一緒になり、良く誘われては彼女が見つけたレストランで二人で食事をしていた。

 初めの頃は僕も誘われたりしたのだけれど、何を隠そう僕が採用されなかった会社の仲間なのだ。そんなこともあり、遠慮した。

 そのうち誘われることさえ無くなった。

 それにしても、営業の望月という名前は初めて聞いた名前だった。

 しかも男だという。部署が違うのに遥のお見舞いに来るということは、それなりに近しい間からということなのだろうか。

 僕がそのことについて言及すると、遥は答えるのだった。


「いつも聡子と食事に出かけてたでしょ? はじめは聡子がそこに連れてきたんだよ。で、面白いのは、望月さんはずっと私のことを気にかけてたんだって。でも前にショッピングモールで丞ちゃんと喧嘩して仲直りした場面をちょうど目撃したらしいの。

 それ見て諦めて、聡子を通して、会社仲間としてこれからは飲みましょうって。

 それで何度かご一緒したんだよ。すごく誠実な人で、話も上手なんだから」


 何と云うか、全く面白くない話だった。

 聡子ちゃんとの食事に男が加わっているなんて聞いたことがなかった。話し上手ってのも気に入らないし、遥の言う誠実な人という言葉が僕の中でやけに引っ掛かった。


「丞ちゃん聞いてる?」


 明らかに不機嫌になった僕に遥は呼び掛けていた。

 僕はすぐに答える。


「聞いてるよ。でも話し上手な男ってのはどうかな」


「なに怒ってるの?」


「別に怒ってないよ。遥が変な男と飲み歩いてるって聞いてちょっとね…」


「望月さんは変な男なんかじゃないよ」


 聞きたくない言葉だった。自分の心がざわつくのをを感じる。


「そうなんだ? それは良かったよ。遥が素敵な人たちに囲まれてるんで安心したよ」


 遥が悲しそうに僕を見つめていた。その目を見ると急速に自分の言動が恥ずかしく思えてきた。

 一体僕は何に嫉妬しているのか。

 仕事を急いで切り上げ、何のためにこの場所にいるんだ。遥が求めているのは、僕自身だと自負していたんじゃないのか。遥の悲しく縋るような瞳の前に、自分自身が哀れに思えた。こんなことで、この先遥に寄り添って行くことができるのだろうか。

 僕は二つの手を組み合わせ、自分の両ひざにそれを強くぶつける。自分の小ささが悔しかった。


「遥、ごめん…。その人に嫉妬して、くだらない怒りをぶつけてしまった。病気のこともあるから遥はただでさえ不安な筈なのに、変な嫉妬なんかして…ごめん」


 遥はベッドから立ち上がり、もう一つのパイプ椅子を僕の椅子の隣に並べて座る。

 それから僕の組み合わさった両手を覆うように自分の手を添え、身体を密着させる。


「ううん、私こそ、ごめんなさい。丞ちゃんにちゃんと説明できてなかった。

 でもこれだけは丞ちゃんにちゃんと伝えておきたいんだけど、どんなことがあっても私は丞ちゃんの一番になりたいって思ってる。だから丞ちゃんは自信持ってて良いんだからね…」


 一番になりたい。遥はそう言った。でもそれは僕だって同じだ。

 遥は僕の組み合った両手から自分の手を放し、スイカの染みに指をあてる。よく見ると僕のジーンズにはスイカの染みが滲んでいる。

 僕は笑って遥に言う。


「気を付けてたんだけどな…」


 そして今度は僕が彼女の両手を、自分の両手の中に優しく包み込む。


「遥、本当にごめん」


 もう一度謝り、遥の体に腕を回す。

 久しぶりに遥の体を、この腕の中に収めた。遥の小さな体からは優しい香りがした。懐かしくて愛しい香りだ。

 僕はその香りを感じながらじっと窓の外を見ていた。でもその視線とは裏腹に、僕の意識は別の場所にあった。

 僕達はこの先どうなるのだろう。

 遥を抱き寄せながら、何故か僕の心は不安の中にあった。

 こうして遥を抱きしめることができるのに、遥の身身体に起こってるいることは、僕にはまったく解らないのだから。

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