第18話 僕たちを隔てること

 平日は毎日のように、仕事終わりに遥の病室を訪れた。

 定時きっかりにすべての業務を終わらせたいところではあっても、中々上手く事は運ばない。

 だからいつも面会時間ギリギリになってしまうのだ。

 木村さんからの誘いは、二度ほど断っていた。木村さんにはちゃんと遥のことを説明しておきたいとは思いながらも、それも出来ていないのがもどかしかった。

 木村さんと鉢合わすタイミングは決まって、どちらかが急いでいる時だった。

 ある時は終業後、僕が急いで病室に向かっている時だった。

 木村と会社の入っているビルの玄関口で鉢合わせた。

 僕が出口を出るタイミングで、木村さんは帰社したところだった。


「木村さん、お疲れ様です。お先に失礼します」


 僕が頭を下げると、木村さんが僕の肩を叩く

「宮内、今日どうだ?」


「すみません、ちょっと急いで行かないといけなくて」


 木村さんは残念を顔に描いたように微笑む。


「宮内、つぎ断ったらご号泣するからな」


 またある時は、昼休憩で昼食に誘おうと木村さんのフロアに向かっている時だった。

 木村さんは急いでフロアから出て行こうとしていた。

 僕は木村さんを引き留める。


「木村さん、ランチどうですか? ちょっと話しておきたいこともあって…」


「宮内、ごめんな! 今すぐ現場急行だ! クレーム処理の辛いところだよ。また絶対誘ってくれよ!」


 こんなやり取りが二週間ほど続いていた。



 その日は珍しく、仕事を少し早めに切り上げることができた。

 急いで部屋に戻り、身支度を整えて遥の入院する病院へと向かった。


 いつものように東病棟のエレベーターから六階のエントランスへ。すっかり顔見知りになった受付の看護師さんに頭を下げ、病室の前に立つ。

 扉を二回ノック。ここまではいつもと同じだった。

 少し早めに顔を出すことが出来て、遥はきっと驚くに違いない。僕はそう思っていた。

 しかし遥の病室からは、返事がなかった。

 もしかしたら談話室にでも良いているのだろうか? でも室内からは人の気配はある。ノックに気づかなかったのだろうか?

 僕はもう一度ノックをして、ゆっくりと扉を開く。

 やはり遥は病室にいた。

 でも驚いたことにクローゼットを開けて、着替えの準備をしていた。

 僕は驚いて遥に訊ねる。


「ん? 出かけるところ?」


 遥は珍しく、怒りに任せ、取り乱して言う。


「今すぐこんなところからは出て行くんだよ!」


 遥の只ならぬ雰囲気に、僕は更に驚いた。

 すぐに病室に入り、扉を閉める。

 遥のそばに歩み寄り、その顔を窺う。

 上気した遥の目に、じわりと涙が浮かぶ。


「何があったんだよ…」


 そう言うと僕は遥の両肩を支えるようにして掴む。

 遥は僕の胸の中に飛び込み、縋りつようにして泣き叫んだ。

 一体何があったのだろう。いや、それは愚問と言わざるを得ない。何があったのかどころではなく、遥は自身では抱えられぬほどの有事の渦中にあるのだ。そう思うと胸が苦しかった。遥の小さな体に降り注いでいるものを、僕の力で抱きしめたいと強く思った。

 叫び、唸る遥を、僕は黙って包み込んでいた。何か言ってやろうにも言葉が見つからなかった。胸には、遥の涙が温もりを込めて滲んでいるのが分かった。

 しばらくそのままでいると、遥は少し身体を離し、腕の中から僕を見上げる。


「丞ちゃん…」


 僕は微笑んで返す。


「どうした…? 何かあった?」


 遥は泣き腫らしたままうんと頷き、事の顛末をゆっくり語り始めた。


 遥が語るには、遥が担当していた新商品のコピー担当を、突然外されたのだという。

 つい先ほど二人の上司が見舞いに訪れ、通告されたのことだ。確か商品名も決まったと遥から聞かされていた。

 遥ははじめこそ責務に押しつぶされそうになってはいたが、休日も使い、かなりのコピー案を練り上げていた事を僕は知っている。

 話を聞きながら、僕も悔しくて仕方がなかった。

 遥にやっと訪れた大きなチャンスだったのだ。

 病に臥せったとはいえ、これはそもそも検査入院なのだし、来週には退院することだって決まっているのだ。

 遥はその二人の上司に何も言えなかったのだと、悲しそうに言った。

 僕はそれを聞いてほんの少しだけ微笑ましくも思ってしまった。遥らしい。遥はいつも誰かに何かを言おうとすると、言葉を呑み込んでしまう。そして僕には言い過ぎるほど、言いたい事が言えてしまうのだった。

 とは言うものの、この理不尽な展開にはいささか納得いかない。

 僕は遥の話を一通り聞き終えると、沸き立つ怒りを言葉にぶつけてみる。


「僕も悔しいよ、来週には退院するって決まってるのに…。遥はここまで沢山の時間を捧げて取り組んできたっていうのに。

 何かぎゃふんと言わせてやりたい! 会社に乗り込んでが一言掛け合ってくる!」


 自分でも可笑しくなるほど、たどたどしいセリフだった。

 遥はクスリと笑う。

 でもその小さな笑いに救われたのは僕の方だ。


「丞ちゃん、ありがとう。初めて丞ちゃんがオレって言った。でもぜんぜん似合ってないよ。会社に乗り込む気だって全然ないくせに」


 僕も吹き出す。

 遥が落ち着いてくれて安心した。


「こういうのって難しいね。だから現場で職人さん達にやり込まれちゃうのかな」


「丞ちゃん。私、ちゃんと冷静になってきた。確かにまだ悔しいけど…。でもきっとまたチャンスはある。コピーをたくさん考えるのは楽しかったし、また絶対に書かせてもらう。そのためにはまず病気にしっかり向き合わないとね…。

 うーん、それにしても悔しいよ、本当に!」


 本当にそうなのだろうか。僕は思った。

 遥は諦めたのだ。でもそれがこの病気との正しい向き合い方なのかどうか、僕には分からなかった。

 でも、だとしても、僕はそんな遥を抱きしめるつもりでいた。僕には諦めに見えることも、遥には何かを掴み取ることなのかもしれない。降りかかる病の中では、病の中にある人とそうでない人とは、見えない境界線で隔てられてしまっているのかもしれない。

 僕はその遥の病の中に飛び込んでしまいたかった。

 でもその思い込みこそが僕と遥を隔てているそのものとも思えた。

 陽は長く、まだあたりは暗闇に沈んではいなかった。

 黄昏行く病室で、僕は少しだけ悲しくなっていた。

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