第9話 現実

 午前は現場を回り、午後は社に戻って週末に期限の迫った見積もりの作成に追われていた。

 以前なら、PCに張り付きながらの作業はどちらかといえば苦手だったけれど、最近ではそこにも楽しさを見出していた。思い通りに数字が収まったりすると何とも言えず嬉しかった。それがまた施主さんの希望に添える時などは喜びも一入ひとしおなのだ。

 根詰めて集中した後ほっと一息つき、時計の針を見ると15時を過ぎた辺りだった。

 同じタイミングで、僕のスマホがメッセージを受信する。遥からだった。

 すぐに開いてメッセージを確認すると、膝の痛みについては別段異常はなかったとの旨を知らせるものだった。そういえば、朝のメールで整形外科を受診すると報告を受けたことを思い出した。

 すぐにメールを返信する。何事も無くて良かった。そう返事を返すと、どうでもよいメッセージがすぐに戻って来る。こっちは仕事中だというのに。

 しばらくやり合った後「今日の仕事帰りに顔を出すから何かない限りメッセージしないように」と書き添える。

 遥からの猛烈メッセージが収まったので、再びPCに向かう。

 少しずつではあるけれど、この仕事に愛着が湧いてきた、と改めて思う。

 木村さんの言うとおり、自分に向いているかどうかではなく、求められていること自体がやりがいに繋がる。求められることとは、自分が携わることで、その先の先の人が喜んでくれていることをイメージし続けることなのだと、おぼろげに思い始めていた。

 数字に集中し、PCのモニターを睨めつけていると、また遥からのメッセージが届く。「ビールとお菓子は先に買っておきます。返信不要!」と。

 返信不要のフレーズに、思わず吹き出してしまう。


 退社する前に遥にメッセージしてから電車に乗る。

 駅に到着したところでもう一度メッセージ。

 これはいつも僕と遥が順子さんの待つ家に帰るとき、遥がしている習慣だった。「お母さんが私たちの帰り時刻に夕食の支度を合わせてくれているから」というのが理由とのことだった。二人の家族はそんな風にして、つましく寄り添っている。僕はあの二人の親子関係もたまらなく好きなのだ。

 いつもは二人で歩く夕暮れの街並みを一人で歩く。これもまたいつもと違う景色だなと思う。

 スーパーに入りかけて遥からのメッセージを思い出す。そういえばビールもお菓子も買っておいてくれていたんだっけ。返信不要!って…。ひとちながら、遥の待つ家を目指した。



 インターホンを鳴らすとすぐに扉が開き、遥が顔を出した。

 あまりのスピードに驚いてしまう。しかもかなりのハイテンション。


「お疲れさま! さあ中に入った入った」


 部屋の中に通されたものの、僕の驚きはさらに続く。見事なハンバーグ定食がテーブルに並べられていた。僕は遥とテーブルとを交互に見比べながら訊ねる。


「これもしかして、遥が?」


 順子さんが吹き出して笑う。


「丞君の、お驚きよう!」


 遥が不貞腐ふてくされなが言う。


「私だってやれば出来るんだよ」


「そうみたいだね」


 僕が言うと、また順子さんが吹き出す。


 その日の食卓はいつになく盛り上がった。もちろんスナックタイムもその流れに乗った。遥の膝が別段何も異常が無くて皆一様みないちように安心していた。順子さんが少しだけ真面目になって言う。


「病気やケガってさ、やっぱり心配になっちゃうんだよね。どうしても。でも何でもないって言われると、何であんなに心配してたんだろうってなるよね」


 順子さんからしてみれば、遥の父親を病気で亡くしていることがあるから、気が気じゃなかったんだと思う。

 僕も順子さんに続く。


「でも本当に、何でもなくて良かった」


「レントゲンまで撮ったんだから」


「何でもないのが本当に一番!」順子さんが嬉しそうに言う。「めでたし、めでたし!」


 この時の順子さんの、安堵に満ちた笑顔を僕は今でも忘れられない。

 順子さんのはなつ笑顔は、本当は修羅場をやり遂げてきた人間の強さなんかではないのかもしれない。本当は繊細で、そのうえ脆く儚さの中の、小さな煌めきの様なものなのかも知れない。

 順子さんはこの時、心から安堵していたのだ。めでたし、めでたし、と。

 でも本当はめでたくなんてなかった。その事を、ここにいる全員がすぐに思い知らされることになる。そして順子さんのこの時の明るい笑顔とは対をなすように、その後僕は悲哀に満ちて回想することになるのだ。

 ちっともめでたくなんて無かった、と。

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