第41話 今を生きる

 碧を寝かしつけた後、キッチンのテーブルに着き、再び詩織と向かい合わせた。

 時計の針はもうとっくに日付をまたぎ、深夜1時を回っている。

 僕が座るとすぐに詩織は立ち上がり、新しくお茶を淹れる。

 僕は詩織からカップを受け取り、つい今しがた寝かしつけた碧の様子を伝える。


「碧、眠たかったんだね。布団に入って頭を撫でたらすぐに寝入ったよ」


「私がどれだけ寝かしつけようとしても、パパを待つんだって聞かなかったから。今日ばかりは私が根負け。相当眠たかったと思う」


「ここしばらく僕の帰りが遅かったからね。碧なりに思う所があったのかも。詩織にもたくさん心配させたんじゃないかと思う」


「あなたは元来仕事人間でしょ?」


「いや、そうじゃないんだ。詩織にはちゃんと話さなくちゃいけない…」


 詩織も椅子に座り、カップを両手に包む。

 静かな夜だった。

 冷蔵庫のサーモスタットが控えめに唸った。


「ここひと月の間、僕の様子がおかしかったのは詩織も気が付いていたと思う」


 詩織が僕の目を覗き込むようにして頷く。


「実はひと月ほど前、昔付き合っていた人のお母さんに会って話をしたんだ…」


 それから僕はその時の話と、遥との経緯を詩織に丁寧に話した。

 あまり感情に踏み入らないように、慎重に、事実だけを伝えた。

 遥の病気と、僕との別れについても。

 詩織は静かに耳を傾け、時折まっすぐに僕の目を見ていた。

 すべて話し終え、僕はお茶を啜り、小さく息を吐く。

 詩織は静かに何度か頷き、最後に大きく頷くと、僕に礼を述べる。


「ちゃんと話してくれてありがとう」


 頼もしいほど詩織に動揺がないことに、僕はいささか驚いていた。

 詩織は続ける。


「私が初めてあなたを好きだと思った時、あなたはその人とお付き合いしていました」


 詩織が何を言っているのか、僕が理解するのにしばらく時間が掛かってしまった。

 でも詩織の言っている意味が分かると、僕は驚きを隠せなかった。そんな話し初めて聞いた。

 驚く僕に、詩織が懐かしそうに自嘲する。


「入社して一年目の頃、あなたは熱心に購買に通って、課長に見積額の値下げ交渉してたでしょ? こんなに熱心にお客様のために働く人って素敵だな~、って。

 同じ頃、木村さんもよく顔出してたから、あなたについて色々聞き出してた。木村さんは面倒見が良いから相談に乗ってもらってた。

 それで、あなたに素敵な彼女さんがいる事も聞き出した。しかも、あなたが仕事やお施主さんに熱心なのは、どうやらその彼女さんが影響してるらしいってことも。もう諦めるしかなかった。私の短くて、切ない片思い」


 何と言えば良いのか分からなかった。

 その頃の詩織といえば一年目から落ち着いていて、感情を表に出さず、いつも的確に取次業務もこなしているイメージだった。

 まさかそんな頃から好意を持っていてくれていたなどと思いもよらなかった。

 それに木村さんが購買に日参しているのは、てっきり詩織を口説いているものとばかり思っていた。

 その辺り口を割らないのは、いかにも木村さんらしかった。


「あなたがその人といつ別れたのかは知らなかったけど、ある日木村さんから言われたの。宮内が失恋してどうしようもないんだよ。あいつは仕事はそこそこ出来るんだけど、プライベートは全く冴えない。一席設けるから、俺も含めて今度どうだ、って。宮内さんが本当に来るならって私が了承して、あの日の席が設けられたの」


 詩織が真似る木村さんの口調はよく似ていて、思わず吹き出しそうになった。

 考えてみれば、詩織や木村さんにも、ずっとこうして支えられている。

 自分はいったい何なのだろうと、口元を歪める。結局僕はいつも助けられてばかりだ。

 詩織が真っ直ぐ僕を見据え、強く言う。


「その彼女さんのこと、忘れなくても良いよ」


 僕は詩織の顔を覗う。

 詩織のまっすぐな瞳が余すことなく僕を捉えていた。


「私があなたを好きになった時、そのあなたの中にはその彼女さんがいたんでしょ? これはもうどうしようもないのよ。悔しいけどね。本当に悔しいけど。

 その人との中で、あなたが獲得した精神に、私は強く惹かれた。

 でもそれって、みんなそうやって成長してるんじゃないの? 誰かから影響を受けて、その経験を糧に成長してきてるんだと思う。

 悔しいけど、私はその彼女さんを否定できません。ちょっと上から言わせていただけるのなら、よくぞこんな情けない丞という男を成長させてくれました。ありがとう!」


 詩織は泣いていた。

 それでも強く続ける。

 でもその声は、次第に涙を含んでいった。


「その彼女さんが祈りを捧げてくれたあなたを、私は好きになりました。その彼女さんがいたからでしょ…。悔しいけど…。

 だからその人の事、忘れないであげて欲しい…。その彼女さんの気持ち、何だか少しだけなら分かるから…。悔しいけど…」


 僕は詩織に頭を下げる。


「ごめん。結局僕はまた詩織に背負わせてしまっている」


「勘違いしないで…。

 私にだってそういう人がいて、今ここにいるんだから…。その人のおかげで、今のあなたの気持ちを受け止める努力ができてるんだから…」


 そうだ、詩織にだって過去がある。

 僕はテーブル越しに詩織の手を取り、でも何と返せば良いのか分からず、涙ぐむ彼女に頷いて見せる。

 詩織がその手を握り返し、言う。


「嘘だよ、そんなの…!

 今までのあなたから学んだの。おせっかいの先の先。その人を忘れないでって言うのは、私のおせっかいだよ。解ったか、丞!」


 ひとつはっきりした事がある。

 今を生きる僕にとって、目の前にいる詩織が掛け替えのない存在だということだ。

 複雑な感情を抱えながら、彼女もその一瞬一瞬を彼女なりの信じるものに祈りを捧げている。

 そしてそれは、僕にとっても愛おしくて仕方がないものだ。

 僕は今、その祈りをあたたかく包む光にならなくてはいけない。

 そして同時に、この瞬間僕は詩織からたくさんの事を学んでいる。

 何より、僕たちは望む望まないとに関わらず、今を生きているのだ。

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