第40話 心を抱くもの
朝目覚めた後もずっと、身体を起こす事ができなかった。
しばらくの間、現実感の無い中空に視点を定めていた。
休日とはいっても、普段と変わりなく起床するのが常ではあったが、時計の針はすでに9時を回っている。
リビングからは、僕を起こしたくて寝室に飛び込もうとうずうずしている碧を、優しく咎める詩織の声が聞こえる。
そんな声を遠くに、僕の心と身体は、何かバランスでも失ってしまったかのような気がしていた。
昨夜、順子さんと別れた後は、訳もなく夜の街を徘徊した。
突然自分の中の軸を失った僕は、帰るべき道が解らなくなってしまっていたのだ。
今自分の置かれた状況が、本当に正しいのか判然としない頭で悩み。或いは失ったはずの過去から、無理に妄想の糸を引きずり出してしまったり、幻影の海に埋没してみたり、とにかく僕自身の置き場を見失ってしまっていた。
それでも、その感覚はこの朝を迎えた後も、ちっとも変わらなかった。
先ほどから中空を眺めては、本当にここが自分の居場所なのかとさえ考えている。
帰宅後いつもと様子の違う僕を気遣い、詩織は僕に何も問い掛けたりはしなかった。
おそらく彼女は心配しているはずだ。でも悲しいことに、この精神状態を説明することが出来なかった。
加えて詩織に気遣えるほど、僕の心に余裕が無かったのが、正直なところだ。
いつもの様にキッチンのテーブルで読書をして、詩織は僕の帰りを待っていた。
「おかえりなさい」
「うん…」
生返事を返す僕に、詩織は本から顔をあげ、しばらく様子を窺っていた。
上手くコミュニケーションを取れないまま、僕は浴室に向かい、シャワーを浴びる。
温かいのか冷たいのかさえ分からず、シャワーを頭から浴び、打ち付ける水に意識を向けていた。
シャワーの水滴は頭を打ち付け、耳から首元を通り、胸元に到達すると、あとは一筋の流れとなり、排水溝を目指してどこかに向けて急いでいる。
願わくは、その流れとともに、僕も何処かへ流れ出て行ってしまいたかった。
この十年間、いったい自分は何をしていたのか。そんな自問が、ずっと僕を責め立てていた。
身体を拭き、詩織といくつか言葉を交わし、布団に潜り込んだ。
冴えているのか、眠っているかさえもはっきりとしない
時計の針が10時を回り、さすがの碧も待ちくたびれたように、猪突猛進の勢いで僕ベッドに飛び込んできた。
おかしな事に、飛び込んできた碧の重みだけが、妙に現実感に溢れていた。
勢いに上半身を起こし、掛け布団にくるまれた碧がひょっこりと笑顔をのぞかせると、自然に笑みがこぼれた。
碧のその笑顔は、確かに僕の沈んだ心を掬い上げてくれているに違いなかった。
「朝だよ」
碧がはじけるように笑う。
「朝だね、ちょっと寝すぎちゃった」
碧を抱え、キッチンの椅子に腰かける。
詩織は笑顔でコーヒーを淹れ、僕の目の前に差し出す。
「朝ごはんどうする?」
「うん、寝坊しちゃったし、お昼と一緒で良いかな」
午後からは買い物に出かける約束だったので、コーヒーを一口すすった後は手早く身支度を整え、再び碧を膝にのせて残りのコーヒーを味わう。
この平和な休日に埋没する自分と、
膝の上ではしゃぐ碧に笑顔で返しながら、もう一人の自分がそれを否定するのだ。
お願いだから、そう自身に言い聞かせ、でもふとした瞬間に眉間にしわが寄せてしまう。
詩織が心配そうに僕を見つめているのが分かる。
結局そんな風に休日は終わり、日常に至る。
そしてまた僕は、現実から逃れる様な仕事の打ち込み方に終始するのだ。
毎晩遅くに帰宅し、風呂に入り、食事をし、詩織と少しだけ会話をして、床に就く。
考え、塞ぎ込んでしまう自分が、唯々怖かった。
詩織の笑顔も、碧の笑顔も、受け入れながら同時に否定してしまう自分が混在し続けていた。
果ては、幸せを感じることに罪悪感さえ抱いてしまう有様だった。
とにかくそんな自分から逃れるように、仕事に執着してしまっていた。
アンバランスな日々がひと月ほど過ぎさり、慌ただしく年末年始をやり過ごす。
気がつけば、一月も半ばを過ぎていた。
このひと月ばかりの間、平日のほとんどは碧と顔を合わせていなかった。
詩織ともろくに会話ができていない。
父として、或いは夫として、本当に情けない気持ちで一杯だった。
椅子の背もたれに身体を預け、ため息を繰り返す。
何とかしなくてはいけない。
頭では分かっていても、いったいどうしたら良いのか、と悩み続けていた。
遥はもういないのだ。
十年前の話なのだ。
何度そう言い聞かせても、遥が祈り、願ってくれた想いを、この頭の中から消し去ることが出来なかった。
それならいったいどうしたら良いのか。
思考は堂々巡りを繰り返す。
頭を抱え、打ち消すようにPCのモニターを睨みつける。頭がどうにかなりそうだった。
誰にも悪意なんてない。
そう、そのことが何よりも僕を苦しめた。
いっその事、誰かのせいにしてしまえば楽になれるのかもしれない。
でもそれならいったい誰のせいにすれば良いのだろう。誰のせいでもないじゃないか。
何度目かのため息をつき、拳を握る。
モニターの時刻を確認すると、すでに二十三時を回っていた。
PCの電源を切り、帰り支度をする。
今日ばかりは、詩織が眠っていてくれていることを願った。
心も身体も、疲れ切っていた。
誰とも話さず、静かに眠りに就きたかった。
僕はいつまで、この底なしの暗闇に潜むつもりなのだろう。
これではいつか、誰かを傷つけてしまう。僕にとって、掛け替えのない人たちを。
事業所の戸締りをして、守衛にその鍵を渡す。
いつもより遅い退社に、守衛がお疲れさまです、と僕を労う。ありがたいが、でも僕は今必要な仕事をしているわけではない。
自嘲して、礼を言う。
さすがに今日は退社が遅すぎたのかもしれない。
事業所のビルを離れると、すぐに街灯りが途絶える。
冷え込みの厳しい季節だ。
夜風は凛とし、頭上の暗闇は深くなる。こんな時はもう少し歩くのも悪くない。
本来自宅はすぐ近くなのだけれど、回り道を決め込み、夜道の孤独を楽しんだ。
歩いている内に、いくらか心も落ち着いてくるのが分かる。
しかし自宅の前まで辿り着いて、また罪悪感に苛まれる。
自宅の部屋の窓からは、静かに明かりが漏れていた。
詩織はやはり、起きて僕を待ってくれているのだ。
自宅のカギを取り出し、静かに開錠する。
玄関を開けて靴を脱ぎ、リビングに向かう。
同時に小さな足音が駆け寄ってくるのが分かった。
リビングの扉を幼い力で押し開け、満面の笑みを
思わず膝をつき、僕は碧を抱きしめる。
こんな時間になってまで、碧は僕を待っていたというのか。
夜道の冷え込みとは裏腹に、碧の魂の何と暖かい事だろう。
急速に癒されゆく自分と、申し訳なく思い、情けない自分に行き当たる。
しかしそれにもまして、新たに湧き上がる感情が僕自身を包み込むのが分かる。
今この手に抱きしめる体温の何と尊い事か。
そうだこの小さな命は決して間違ってはいない。
否定なんて出来るわけないじゃないか。
気が付くと涙が溢れそうになる自分がそこにはいた。
縋りつくように、僕は碧を強く抱きしめていた。
じっとして動かなくなる僕に、碧は少し戸惑っていた。
身体をゆっくりと放し、碧に語り掛ける。
「ありがとう。こんな時間まで待っていてくれて、ありがとう…」
碧はにこりと笑い、誇らしげに振り返る。碧の後ろでは詩織が優しく僕と碧を見つめている。
「今日はパパを待ってるって聞かなかったのよ」
詩織は少し困った様に言う。それから僕と碧をリビングに促す。
僕は急いでシャワーを浴び、着替えてキッチンのテーブルに着く。
僕の膝の上で興奮気味に話す碧に返事をしながら、遅い夕食を摂る。
そうだ、誰も間違ってはいないのだ。
正直言えば、まだこの段階においても僕にはその答えは見つかってはいなかった。
ただ何となくではあるけれど、一筋の光のようなものがほんの一瞬見えたような気がした。
いや、大きな魂が、優しく僕を抱きしめてくれたような、そんな気がしていたのだ。
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